中国・台湾の発言


台湾の香港化と尖閣諸島
宮崎正弘


 昨師走に台湾に行ったら桃園飛行場の外貨両替所に「人民元歓迎」の看板があった。

 今年六月に筆者は意図的に人民元を台湾に持参し、両替してみた。「人民元歓迎」の看板は撤去されていたが、台湾の玄関で人民元が自由に両替できた。交換レートも米ドル、日本円で両替するレートと変わらず差別されていない。隔世の感がある。
 蒋介石時代の台湾は「大陸反抗」を叫び、入国に際して厳重な荷物検査、通貨どころか、日本の新聞・雑誌も持ち込めず「中国製」の陶器も土産品も持ち込めなかった。だから状況の激変を目撃すると台湾の香港化をまざまざと実感できる。ちなみに香港では人民元のほうが香港ドルより強い。
 台湾はこのままでは中国大陸に飲み込まれてしまうのか?
 台湾最大野党の民進党は、馬英九政権の対中異常接近に深刻な危機感を抱き、ECFA(一中市場)遂行には国民投票による同意が必要だと反対の署名運動を開始した。現地紙を読むと「反共から親共へ」「両国(論)から「一国」(統一)と馬英九への批判的な語彙が並ぶ。
 国民党の暴走に近い対中接近は「一中市場」(ECFA)に収斂され、これは台湾本土派からすれば理解を超えた事態である。
 一方、北京側は巧妙な外交を続ける。数年前までの一直線の批判や露骨な干渉をさけ、ひたすら柔軟なのである。気持ちが悪いほどの笑顔を振りまくのである。
 六月に王毅(前駐日大使)が訪米し、一中市場(ECFA)問題で在米華僑の説得に当たった。国民党と軌を一にしているところが特徴である。
 海外の多くの華僑は「中台統一」に半信半疑だが、共産党の対台湾工作は確実に進んでいる。王毅が駐日大使離任後、逼塞が伝えられたが、さすがにメンタル・タフネスの中国人の典型。狡猾に復活した。王毅の現在のポストは国務院台湾弁事処主任。つまり台湾問題の政策決定機関のボスという重要なポジションにいる。
 大使在任中も台湾問題で逐一、日本の外務省に容喙した実績を誇るだけに、マスコミ工作に長けており、じわりと周囲から攻めて周りを囲む戦術が得意のようだ。
 6月18日にサンフランシスコ入りした王毅は中国領事館で開催された晩餐会に出席、この場には在サンフランの華僑が多く出席した。王毅は「求同存異」「衆同化異」などの新語を駆使して、要するに台湾系華僑と北京系華僑との「大同団結」を求めた。
 王毅は重要事項を三つ並べた。第一に両岸関係の関係深化のため両岸のビジネス合作を推進する。第二に文化、教育の交流を図り、お互いが「中華民族」であるという共通の認識を深める(七月には湖南省長沙で「両岸経済貿易文化論壇」を共産党と国民党が共同開催し、中華文化などと合唱した)。第三に「台湾民衆との基礎的交流のために、さらに多くの台湾同胞の参加を希望する」と述べた。
 米国の各地で工作のあと、王毅はワシントンへ入り、国務省アジア担当者に連続的に会見、華僑代表と会った。ワシントンの中国大使館では朝食会を開き、アメリカ人の中国関係研究者の多くを招待した。

台北新都心の殷賑
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故旧は今日も団体観光客で
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いまや台湾のシンボル「台北101」
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中華歴史は8000年に延長
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 台湾のビジネスマンらは蛇の前のカエルのごとく、中国の遣り方にむしろ老獪に便乗して、ともかく商圏を無理にでも拡げる努力をしてきた。このあたり長期の戦略性のない日本企業と似ている。いまや百万人以上のエンジニアとマネジャー。六万社が進出した。
 しかしあまりに大陸に入れあげたので台湾国内の産業空洞化が深刻になった。失業率は戦後最悪、成長率も低い。
 「これでは台湾経済そのものが駄目になる」という危機意識が若いビジネスマンの間に生まれてきた。
 また台湾の世論調査では「65%が『私は台湾人である』と答え、『台湾人だが同時に中国人』と答えるのは18%、「わたしは断固として『中国人』です」(12%)となって、認識の段差がむしろ開いた。中華民族、中華文化同一化なるスローガンの実現は難しい。
 しかし馬英九はピッチをあげ、アクセルを踏み込んだ。中国へのめり込み暴走のスピードを上げたのである。
 まず馬は国民党党首に返り咲く。米国に家族や娘名義で隠した資産、不正蓄財などのスキャンダル騒ぎは収まったとばかり一気に権力の集中をはかるのだ。党内に異論が少ないのもライバルの王金平(国会議長)らの求心力が乏しいからで、いまが絶好のチャンスと踏んだようだ。
 現主席の呉伯雄はもともと飾りだが、党主席ゆえに北京に二回でむいて第三次国共合作(共産党の『党主席』としての胡錦涛と会った)を実現、馬は臍を噛んだ。名誉主席の連戦も北京へ詣でて三回、胡と握手している。
 馬英九は呉伯雄主席を党首からひきずり降ろすために五輪委員会委員長という閑職を用意している。実質的に大陸との話し合いの窓口だった海峡基金会の江丙伸は降ろされる前に機先を制して辞職を表明し、馬は仕方なく「慰留した」ため江は居残る。大陸との交渉の主導権を馬に渡すまいとする国民党内本土派の最後の抵抗とも囁かれる。
 だが、馬は北京との直接交渉へギアをチェンジしたようだ。
 馬英九の狙いは何か。
 次に国民党の『党首』として(台湾総統ではなく)、北京へ赴き、共産党『党首』の胡錦涛とあって第三次国共合作を煮詰めることにある。議題は尖閣諸島問題かもしれない。そして金大中のように、あわよくばノーベル平和賞?
 冗談は止めて欲しいと民進党ならびに野党関係者は大声をあげて、冒頭の「一中市場」反対、国民投票を要請する署名活動を始めたのだ。
 しかし台湾の“緊張緩和”はすすみ、現状認識はますます甘くなっている。
 台湾は徴兵制度を廃止し、将来は22万人のプロフェッショナル兵士集団の軍隊に変異させる。目の前の「敵」は台湾向けにミサイルを1300基以上も配備し、原潜を増やし、空母を十年後に二隻配備するというのに?
 いったい馬英九政権はなにを考えているのだろう?
 嘗て台湾防衛の最前線=金門島には七万の兵力がいた。全島が緊張していた。十数年前に訪れたときは兵士相手の酒場もそこら中にあった。五年前に再訪したおり、兵力は数千、兵隊相手の商売はすべて閉店、廃業しており、潜水艦基地は観光資源になった。09年7月には「友好的でない」とばかり上陸用舟艇を防ぐフェンスも台湾から率先して取り除いてしまった。
 面談した金門県知事(新党)は、「アモイに橋をかけて大陸との交流を直接的なものとしたい」というので、「えっ? ミサイルを台湾に照準を当てているのに?」と問うと、半ば笑って、「われわれは同じ中国人、もはや戦争はない。商売、商売」と意にも介さない態度には驚かされた。
 蒋介石が「大陸反抗」を呼びかけていたとき、金門と馬祖は大兵力が結集していた。馬祖は目の前が福建省連江県。馬祖の群島の一部は深く大陸の湾内に食い込んでいる。
 かつて馬祖を守る台湾の軍隊は五万人だった。やはり十年ほど前に読売と東京新聞の記者と三人で訪れたおりには多少の軍事的緊張感は残っていた。それが四千人の規模に縮小し、馬祖もまた観光資源化がすすみ、とくに釣り客のスポットに早変わりしていた。台湾本島から釣り人らがワンサカと押しかけるのだ。
 現在、馬祖駐屯の台湾軍兵力は三個歩兵部隊と砲撃部隊四千人だが、地形の関係から戦車は配備されておらず、CM―21装甲車両のみ。この僅かな兵力をさらに半分の二千人に削減し、残りを北部軍団に再編入する。
 馬英九は「三不」を唱えていた。戦争をしない、独立はしない、統一もしないという三つの「不」である。それがいまや馬は「三不」と言わず、「三不排」と言っている。つまり「不排除統一」「不排除独立」、そして「不排除武力」(「不排統」「「不排独」「不排武」)である。
 しかし実態は前途多難、「一中市場」を急ぐ馬政権の前途に暗雲が広がった。
 中国資本の台湾投資が許可となり、400の分野に進出してくるが、台湾の国防産業、銀行などは禁止区域。法的手続きが不備な支店開設や資格のない業者の暗躍などは予想の範囲内である。
 とくに中台交流で予測がはずれたのは大陸からの旅行客数だ。台湾の飛行場を八つ開放し、大陸から一般の観光客を待った。一日三千人が“とらぬ狸”だったが過去一年間平均で一日二千人。当初予測は年間45万人、現在32万人。観光客ひとりが台湾に落とすカネも見積りより遙かに小さく、「両岸旅客去多来少格差楡十倍」(『自由時報』、09年7月3日付け)。
 台湾から大陸へ業務、観光で赴くのは346万人、大陸から来た人は32万人。十倍以上の格差が開いた上、観光客がおとすカネたるや、予測の三割しかないという。
 まして台湾の中央通訊社は台湾の中学生以上の学生を対象とした「台湾に友好的な国と非友好的な国」という意識調査の結果を発表し、じつに80%以上が「最も非友好的な国」を中国と答えた。
 そんな国の軍門に下るかのような屈辱外交を続ける馬政権は本当は何を考えているのだろうか。
 そこで馬英九がハーバード留学時代の博士論文を思いだしたのだ。「尖閣諸島は中華民国領だ」であるが博士論文だった。
 中国と台湾与党が尖閣問題で「反日」を仕組み、統一戦線を組めば、国民党と共産党が狙う第三次国共合作が一気に進む。そういうシナリオが背景にあるのではないか。
 世界一の親日国家、危うし。

waku

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