辛口コラム

書評その101
皇国史観というより大和朝廷史観の『日本書紀』をこえて
古代朝鮮の資料の限界、日本書紀の創作の壁を越える実相とは?

仁藤敦史 著 『加椰・任那ー古代朝鮮に倭の拠点はあったか』 中公新書

『加椰・任那ー古代朝鮮に倭の拠点はあったか』

 古代史に謎は多いが、筆頭は神功皇后の三韓征伐の信憑性である。
そして任那府というのは日本の飛び地だったのか、貿易拠点──いまでいう通商代表部のような存在であったのか、史書にでてくる加椰は何処にあったのか? 実態の存在とはなんだったか。
任那府が倭の豪族たちが進出し居住し、交易していたことは史実にせよ、その政治形態は不明のママ、『魏志倭人伝』は朝鮮半島の南西部も「倭」の範疇としている。
西暦527年の「筑紫君磐井の乱」は朝鮮半島の動向といかなる関係があり、また大伴金村の失脚は本当に任那の四縣を百済に割譲したことが原因なのか、等々が謎である。
 最初の神功皇后の『新羅征伐』にしても、この時代に頻繁な小競り合いと領土争いがあり、そのことは現地で発見された広開土王の石碑であきらかとなった。
と ころが、『日本書紀』の筆者らはこれらを一括して神功皇后の条にまとめてしまったというのが真実に近い。
要するに本書は、皇国史観という旧来のパラダイムより大和朝廷史観の『日本書紀』をこえて、古代朝鮮の資料の限界を十分に認識しつつも、日本書紀の創作の壁を越える営為である。
すると実相にかなり近づけることになる。
 百済の決着がつくのは白村江の戦闘で、日本海軍が、新羅の応援にまわったシナとの海戦で敗北を喫したことによる。西暦七世紀後半であり、古代朝鮮のもっとも空白な部分からは後年のこと、シナの史書にも簡単な記述がある。
 また朝鮮南西部に集中する前方後円墳は、倭の豪族が移住もしくは駐屯中に客死して造成されたものか、倭の古墳をまねたものか、誰を祀っているのかも謎である。
 公式記録の初出は第十代崇神天皇の時代に任那から倭へ使者がやって来たこと、続いての垂仁紀も同様である。
 津田左右吉は神功皇后の史実に否定的だったが、逆に広開土王碑文を全面的に肯定するという矛盾を冒した。

 著者の仁藤氏は言う。
 「広開土王碑は客観的記述ではない。高句麗中心の世界観や守墓役体制の維持を主張するための碑である。そこでは倭の活動が誇張されている」(40p)とする。
 以後の古代史学界でも池内宏、末松保和、三品彰英らの説は対立しているが、「広開土王碑への絶対的な信頼度は共通する」と仁藤氏は分析した。
 この王碑は評者(宮崎)も現在の中国吉林省集安へ見に行ったことがある。
着目すべきは倭が攻めてきたという事実の認定が重要ということである。また広く学者らが引用する「百済三書」には「亡命百済人により加筆された日本への迎合的態度が混ざっている」(50p)。
『日本書紀』のこの部分は彼ら亡命学者らの加筆がある。
 第二十一代雄略天皇は、吉備を制圧し、かれの死後も反乱を企んだ星川王子の乱は不発におわって吉備の軍船はすごすごと引き揚げた。この事件が意味することは、吉備は当時ヤマト王権にしたがっていない独立勢力だったことだ。
 『隋書』の「倭国伝」では隋の煬帝がヤマトへ使いを派遣するが、百済から済州島を眺めつつ対馬、壱岐、筑紫にいたり、それから「秦国」に到ったとある。そしてこの「秦王国」の夷たちは中国人と同じだ、と書いている。つまり秦は吉備であり、渡来人が多かったという傍証になるのではないか。
吉備に盤踞した上道(カミツミチ)、下道(ソモツミチ)ら有力豪族がヤマト王権と競うほどのパワーを保持していたのは、吉備各地の古墳の規模をみても分かる。吉備には渡来人が夥しく住み着いており、造船や、銅精錬などの技術集団を従えて、独自に新羅と交易をしていた。

第二十六代継体天皇が「古志の大王」として越前にあった。ヤマト王権と古志の合体が、継体天皇朝であることは拙著(宮崎正弘『古代史最大のミステリー、応仁天皇と継体天皇』、育鵬社)で詳述した。
 大伴金村の失脚が百済への任那四縣割譲にありとするのは大和朝廷史観の延長でしかなく、(実際に失脚したのは二十年後、物部氏との政争に負けたからだろう)、著者の仁藤氏は「百済による下韓(南韓)への郡令、城主の設置を倭が承認したことについて倭の立場で記載したもの」と推定する。

おそらく、この見解が実相に近いだろう。
 つまり「五世紀後半の雄略天皇以降、加椰諸国には倭系加椰人が多く居住していた。本来は『倭臣』でありながら、ヤマト王権とは独立した存在として加椰諸国の独立を維持する活動をしていた。つまり、新羅・百済の侵攻を排除し、加賀諸国の独立を維持しようとする。それはのちの『任那日本府』の活動に連続する」(186p)
 したがって左翼学者が唱えてきたような「侵略、支配される客体」ではなかった。日本府はヤマト王権の外交影響下になかったのだ。「ヤマト王権が使者を派遣することにより短期間、外交的に利用しようと試みたのが実態に近い」(190p)と従来説を飛び越えた説を展開している。
 古代史への問題提議の書として、面白く読んだ。

waku

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