
文豪ヘミングウェイの友人で歴史家であり脚本もかいたエメット・クロージャーは単なる従軍記者ではなかった。かれはオックスフォードから著作も出していた。
1945年7月11日、ニューヨークヘラルドトリビューン紙を飾った大スクープ記事を書いたのは、このクロージャーである。
内容は硫黄島の壮絶な戦闘で日本軍の将校が残していたルーズベルト大統領への書簡と、その英訳文が洞窟でみつかり、これをクロージャーがいち早く発見し、4月4日には打電していた。三ヶ月の検閲機関のあと、紙面を飾ったのだ。
記事の見出しは「死を目前に控えた日本の提督(市丸利之助少将)がアメリカ大統領に宛てた手紙」となっていて、9301文字という長文の記事である。日系二世の三上弘文が翻訳した英文全部を引用している。手紙は3月26日の日本軍最後の攻撃のあと、北部の洞窟から見つかった。
もういちど日付けを辿ると、3月26日に手紙は発見され、いち早く記事にまとめたクロージャーの打電が4月4日、ルーズベルトが死んだのは4月12日(当然、この検閲中の記事をFDRは読んでいたと思われる)、そしてニューヨークへラルドトリビューンが奉じたのが7月11日だった。
アメリカ国民が硫黄島で玉砕した日本軍の幹部が、戦争をいかに総括し、どのような歴史観を抱き、アメリカをいかに見ていたか。なぜ神風特攻隊はあれほど強いのか、その精神的バックグラウンドは何かを知りたかったから、タイミング的にも時宜にかなった。
マッカーサーさえ、議会証言(1951年5月3日)で「あの戦争は日本に於いては自衛戦争だった」と語ったように、日本の言い分が一部のアメリカ人に理解されるようになった。
だが、この手紙はその後、埋もれてしまった。
戦争がおわって四半世紀の時間が流れた。
1970年、戦史ジャーナリストのジョン・トーランドが『ライジング・サン』を出版し、ベストセラーとなった。
「トーランドは、市丸利之助がルーズベルト大統領に宛てて手紙を書いた事実を本の中で紹介していた。(中略)巻末にその英文を全文掲載した)(184ページ)
この英語原文を最初に読んで感動し評価したのが平川裕弘だった。研究を深める時間がなく、これまた四半世紀の後、1995年になって『新潮』が平川の論考を掲載した。翌年、単行本『米国大統領への手紙』が上梓された。
日本で日の目を見たのは、じつに半世紀後のことだった。
起草した市丸利之助は海軍少将。翻訳した三上弘文はハワイ生まれの日系二世。格調高い、漢文混じりの日本語を、じつに適切で美しく且つ力強い英語に訳した。
著者の門田氏は硫黄島を視察し、市丸の遺族を探し出し、またハワイに眠る三上の墓を探し当てた。同行したエルドリッジが電話帳を図書館でしらべ、MIKAMIを片っ端から電話した作業の果て、ついに遺族を発見した。
ジャーナリストの執念! 本書にはその“筆圧”を感じる。市丸の日本語原文は全文巻末に掲載されている。
さて2025年3月29日、硫黄島で日米合同慰霊祭が執り行われ、石破首相、中谷防衛大臣らが列席、米国からは軍人経験が豊富はヘグセス国防長官が出席した。ヘグセスは感涙溢れる追悼演説をした。
クリント・イーストウッドは硫黄島で発見され夥しい日本軍兵の手紙を元に栗林中将を基軸とする映画『硫黄島からの手紙』を製作した。栗林を演じたのは渡邊謙だった。
いまだに左翼の反戦思想が正義という日本のメディアは、水面下の動きを伝えようとしない。しかし着実に日本精神が蘇生している。
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