第一級史料の復刻版である。
戦国武将と西側列強との外交戦争の記録で、『異国往復書簡集』は、豊臣秀吉、加藤清正、伊達政宗、徳川家康らとローマ法王との外交文書、ここから読み取れるのは秀吉の朝鮮進出が予防的先制攻撃(プリエンプティブ・ストライク)でありながら、明の中華秩序とスペイン・ポルトガルによる世界分割秩序を、ともに打倒し、秀吉による「新世界秩序(ワールドニューオーダ=)」の樹立に爆走する壮大な野望がくみ取れる。
現代風にいえば秀吉の「ヤルタポツダム体制打倒」の戦いだった。
戦後日本で、このような常識的な世界史解釈が影に追いやられ、あれは秀吉の侵略だったという、さかさまにねじ曲げられた捏造史観が世を蔽った。
トルデシリャス条約は、1494年6月7日にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた世界二分割支配の取り決めである。
解説の三浦小太郎氏が言う。
「露骨な(キリスト教団の)世界征服の発想は、キリスト教を世界に布教するという宗教的使命感を伴っていた。カトリックの布教組織、イエズス会は、世界をカトリック信仰のもとに一元化することを目的としており、それはポルトガルやスペインの領土拡張に正統性を与えていた」
評者(宮崎)もこれまでに屡々のべてきたように「イエズス会は今日のカルカィーダ」、世界征服の事前偵察部隊であり、宣教師たちは副業で人身売買を黙認していた。伴天連に染まった戦国武将らの領地では神社仏閣が破壊され、仏教僧侶たちは虐待され、領民は奴隷として売られた。なかには貿易による巨富を狙うため便宜的に伴天連となった戦国武将もいるが、洗脳されてしまった大名らは潜在的な敵、日本政治の障碍となった。
三浦小太郎氏がつづける。
「天下統一をなし遂げた秀吉にとって、主として九州のキリシタン大名が、独立国として外交・貿易をおこなっていること、しかもそれが切支丹布教と、事実上、スペイン・ポルトガルの侵略につながっていることは看過できない問題だった。また日本人奴隷の海外への売買もおきていた」
秀吉はスペインとポルトガルの世界秩序に立ちむかう決意に傾いた。それが残された文書に如実に表れており、スペイン、ポルトガルへの降伏を勧告している。さもなければフィリピンやマカオにも軍隊を派遣すると脅しているのである。
たとえば天正十九年(1591)に秀吉がフィリピンに入貢を求めた書簡がのこっている。
村上直次郎の訳注にしたがうと、
「いまシナ国を滅することに決したり、しかれども之を以て余が業なりと考えべからず、諸天の君よりくるものなり(神威にもとづく)、其地の人々はまだ余に服従せず。是故に其国を滅す為め余が軍隊を派遣する(中略)。直ちに旗を伏せ余が主権を認めよ。もし来たりて余に敬意を表し、余が前に地上に平伏することを遅延せば、必ず直に汝を滅すの命を下すべし。後にいたりて悔いざるよう注意せよ」
堂々たる脅迫、戦国版の最後通牒を思わせるほどの勢いがある。
『増訂 異国日記抄』のほうは徳川三代、家康、秀忠、家光が残した外交文書の記録であり、切支丹伴天連の排斥と鎖国の決断が時系列に述べられている。
慶長十八年十二月二十三日(1614年2月1日)に家康が金地院崇伝に起草させ、将軍秀忠名義に発布した「伴天連追放之文」は次の文言が並んだ。
「切支丹の一団が日本にやってきたが、ただ商船による貿易をするだけではなく、明らかに邪悪な教えを布教して神仏を惑わし、日本の政治を変えようとし、日本を自分たちの領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかにおおきな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない(中略)。あの伴天連の集団が、幕府の政令に違反し、神道を疑い、仏法を誹謗して、義や善いおこないまで否定している」。
すなわち切支丹は敵である、と言っているのである。
かくて徳川政権はオランド、イギリスとの貿易を推進するとともに切支丹伴天連を追放し、鎖国を断行した。
鎖国は結果的に世界的に美しい、調和に満ちた文明を産んだが、二百五十四年後、薩長政府がこの禁を破って西側に扉を開いたため日本文化は奈落の底へ落ちることになろうとは当時の政治指導者は知る余地もない。
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