辛口コラム

書評その113
大化の改新で蘇我氏は滅びた? 平安末期まで蘇我氏は生き延びたのだ
天皇の外戚となって権力を握るモデルは藤原家が真似た

倉本一宏 著 『蘇我氏-古代豪族の興亡』 中公新書

『蘇我氏-古代豪族の興亡』

 日本史の「三悪人」と言えば蘇我馬子、弓削道鏡、明智光秀だった。
 悪政の代表格はほかに足利尊氏、田沼意次ら。また過大評価は織田信長、坂本龍馬らか。一方で実績が殆ど評価されなかったのが阿倍比羅夫、吉備真備、近世では源頼朝、徳川家康など、日本史はもういちど評価の逆転が必要だろう。評者(宮崎)は、こうした間違った評価を転換させるべく、それぞれ検証して書籍にまとめたが、まだ手つかずは足利と蘇我氏である。
 本書はこれまで誰もが最悪の人物として、まともに取り上げなかった蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の親子孫の三代。とくに崇峻天皇を暗殺し、物部氏を絶滅させ、聖徳太子の子、山背王子を滅ぼすなどの悪行の数々、皇居より高い甘樫丘に豪邸を営み、専制政治を実践していた蘇我蝦夷、入鹿親子の横暴を見かねて中大兄皇子が中臣鎌足と図って、蘇我入鹿を討ち取り、蝦夷を自裁に追い込んだ「乙巳の変」で、蘇我氏は滅びたと解釈されてきた。
 どっこい、滅びたのは蘇我宗家だけで、ほかの蘇我系は生き延び、とくに末流の石川氏が平安末期まで日本政治の高位をしめていたのである。
 倉本氏は、蘇我氏は決して守旧派ではなく技術をもった渡来人をたばねて統治や御倉建設など国家の経営ノウハウを取得していた「先進的な氏族」だったとする。
 俗説では蘇我氏が渡来人だ、葛城氏を乗っ取って急速に有力な豪族となったなどとされたが、「蘇我氏はいきなり登場したのではなく葛城集団の勢力の主要部分が独立したものであり、記紀に見える『葛城氏』とは、すなわち蘇我氏が作り上げた祖先伝承だった」(18p)となる。
 政治理念や国家論からいえば、蘇我氏は仏教をとりいれることが当時のグローバリズムに叶い、先進文明に伍せると唱えて積極的に仏教文物を輸入したが、当時の執政側からみれば仏教は邪教、百年に亘った廃仏毀釈の元凶であり、この点で神祇界を代表した中臣鎌足が中大兄皇子(後の天智天皇)を担いだのだ
 しかし乙巳の変のあとも蘇我氏系はしぶとく生き延びた。
 「乙巳の変で本宗家が滅亡し、蘇我氏の勢力は蘇我倉氏の倉麻呂の五人の男に移行して残存したが、石川麻呂家は『謀反』によって壊滅し、日向は石川麻呂『謀反』の後には消息を絶ち、赤兄と果安のふたりは(中略)壬申の乱の戦犯となってしまい、それらの系統も没落してしまう」(158p)

 だが生き残って天武、持統朝まで存続したのが連子の系統であった。
 壬申の乱まで天皇側近にあったのが蘇我赤兄だが、晩年の天智天皇がもっとも頼りにしたものの「せっかく大友王子(天智の庶子、次期後嗣とみられた)の周囲にくみこんだ蘇我氏の官人も、藩塀として頼むにはあまりにも結束の弱い存在であった」(161p)  藤原四兄弟の策謀によって謀殺された長尾王の滅亡とともに蘇我氏残党も、ここで主流派から離れ、平安期に顕官のポストを得られなくなる。
「蘇我氏の地位低下と軌を一にして新たな『蘇我氏的なる者』が生まれてきた。そう、藤原氏である。藤原氏は鎌足、不比等以来、天皇家とミウチ的結合によってむずばれ、相互に補完、後見しあって、律令国家の支配者層のさらに中枢部分を形成していった」(252p)。「藤原の権力の根源は、大化前代における蘇我氏とまったく同じ構造である」というのが本書の結語である。

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