辛口コラム

書評その13
あの戦争はベトナムの民にとっても残酷で悲惨で悲壮だった
共産主義ロボットと思われたベトコンに人間の血も涙も熱い感情も流れていた。

バオ・ニン、井川一久訳 『戦争の悲しみ』
(河出世界文学全集1−06所載)

『戦争の悲しみ』

 あれから三十年の歳月を閲した。おびただしい人が死んだ。
 ベトナムの知識人が、自省をこめてベトナム戦争を振り返り、省察し、人間の本性と、人間の欲望と涙と汗と血を追憶し、人生の荒波に呻吟した日々を回想する小説だが、じつに感動的にまとめられている。
 根幹に流れるのは或るベトナム男女の悲恋である。
 世界各国語に訳されて読まれ、読者が広がった経緯がよく理解できる。

 時間をやりくりしながら読了まで三日かかった。読後感を一言にまとめると「凄い作品がでてきた」。
 とりわけ戦後日本の貧相な政治や、衰弱した文学、芸術そして日本人の精神の萎縮状況を目撃していると、反比例するかのようにこの小説の暗さが、なんとも壮烈な人生の明るさへの希望を掻き立てるのだ。

 訳文もまた原作者がベトナム語ではなく、直接日本語で書いたような、作品を自己薬籠中のものとして、自分の血として肉として骨身を削るように翻訳の営為をしている。その労作業による翻訳には一カ所も難解な箇所がなく、すらすらと日本語の流れにおさまった。
 現代日本文学の劣化した惨状と比較するとなおさらのことだが、ベトナムの文学の真摯さが引き立つ。
 同世代文学として無国籍に読まれる大江健三郎とか、村上春樹とか、甚だしく小さい存在でしかない事実も改めて浮き彫りになる。

 私はこの小説を読み進めながらしきりに開高健の『輝ける闇』を想起していた。
 ストーリィが似ているのではない、心境、哲学、人生の虚無。これらの価値観が似通っているのである。
 開高の『輝ける闇』は日本人記者を通してみたベトナムの熱情の、その感動から遠のいて久しく、熱気もない日本人の精神的荒廃をえがいた傑作である。
 そして『戦争の悲しみ』の随所に現れる文章に込められた思想はカミュの『シジフォスの神話』の徒労と無為の不条理であり、マルロォの『人間の条件』に表現された永遠であり、ヘミングウェイの『武器よさらば』に色濃い戦う精神の力である。

 本書の主人公であるキエンは芸術一家に生まれ、父親は不思議な絵を描く人だった。とくにイデオロギーがあるわけでもないが、主人公のキエンは人民軍に志願し、対米戦争で多くの戦線をたたかい、死の谷を越え、ハノイに残した恋人とは燃えるような愛があり、退嬰的な「戦後」(対米戦争のあと)の目的のない生活を続け、恋人とは永遠の別離をする。
 主人公のキエンは、戦争体験を通して人生を省察するために小説を書き始める。

「キエンはふと無力感に襲われた。荒廃した生活・・・・することなること一切が徒労という感じがした。実際、そのころのキエンは、残された年月をどう生きるか、全くわからない状態にあった。抗米戦後、遺骨収集隊での仕事を終えて退役したころに胸に抱いていた目標、たとえば学業の達成とか社会的成功とかは、すべて無意味なもののように思えた。(中略)まだ生きて、存在してはいた。が、それだけのことだ。彼の精神は人生と運命に対する敗北の色に染まっていた。」

 最愛の恋人(フォン)とキエンは戦闘現場へ向かう貨物列車に揺られ、その列車は米軍の空襲を受け、恋人はレイプされ、一種のトラウマに取り憑かれ、そして彼の元を去った。キエンは戦闘で負傷し、性的不能者となっていた。
 戦争にベトナムは勝った。
 しかしキエンには戦勝感も充足感もなかった。虚無に満ちて、ハノイのアパートに帰った。短いフォントの逢瀬があった。彼女はしかし音もなく消えて別の生活にはいった。

「自分の部屋に戻ったキエンは、泥だらけの靴をベッドに放り投げ、自分も服を着たままそのベッドに仰向けになり、両手を首の後ろに組んで、ひび割れた黄ばんだ天井をじっっと見上げた。涙が出てきた。あついような痛いような涙だった。
 これから俺は、どこへ? 何をしに?
 彼は激しく咳き込んだ。彼の心につきまとっていた正体不明の何か、彼をずっと悩ませ続けてきた何かを、一気にはき出そうとするかのような咳だった」

だが、とキエンは考える。

「とりあえず生きなければならない。それは、ある意味では、自分の存在理由を確保するための過去への抵抗、ハノイの街々が自身の変化にもかかわらずキエンに想起させる過去への抵抗なのだ(中略)。常に彼の意識を支配してきたのは孤独感だけだ。それは彼だけの孤独感ではなく、市民多数の孤独感、いわば行列と化した孤独感だった。自宅周辺であるいは街頭で、キエンの目にするひとびとはおおむね貧しさと人生の単調さから生じた孤独の陰を引きずり、おなじ運命を分かち合いながら、はけ口のない水流のように、黙々とお互いの前やうしろを歩き続けていた。
あの戦争から生じた喜びも悲しみも、怒りも恨みも、貧苦と混乱に満ちた戦後社会を生き延びるための努力の中で、すべて錆び付き、または薄らぎ、意味をすべて失い、商店のイルミネーションのように刹那刹那の点滅を繰り返していた」

 毎夜のようにキエンには幻想的な夢や戦争の残酷な場面が脳裏に浮かび、そして恋人の夢を見た。

「夢の中で、記憶は過去の一切を無秩序に混合する。キエンの記憶は、その混沌たる瓦礫の山の中から、はるか幼少時代以来の、フォンとの限りなく廣くて深い一体感を掘り起こした。それはしかし、痛切きわまる一体感だった。そこには恥辱に満ちた記憶、こころを破壊するような記憶が混入し、本来は甘美だったキエンの夢の世界を次第に暗澹たるものに変えていった。反面、フォンへの不変の愛は、これまた夢の中でだけだが、キエンの胸中に人間の一生というものへの強い共感の灯を点した。その共感こそ、戦争の記憶と相俟って、キエンに生きる力を与えたのである」。

 ところで、あの時代、日本は日米同盟の関係から、ベトナム戦争では米軍の兵站を担った。沖縄から多くの戦闘機が飛び立ち、まだ米兵の多くの死体が帰り、そして沖縄は米兵のつかの間の休息の場でもあった。
日本国内では「ベ平連」など、怪しげな左翼団体がここぞとばかり反米闘争にベトナムを利用していた。偽善のナショナリズムは折からの学生運動に飛び火し、全共闘運動としても広がり、やがて泡のように消えた。
ベトナム戦争が長期化すると、米国内でさえ反戦運動が燃え広がり、アメリカ兵士の犠牲が増えるに従って厭戦ムードが蔓延していた。

 ベトナム帰還兵は米国で冷たい目で見られた。星条旗の元にアメリカの正義を信じて戦ったのに帰国しての冷遇はなんだ。ノイローゼ、神経衰弱、精神異常が増え、麻薬、犯罪に結びつき、アメリカ社会は急速にすさんだ。映画ランボーは、ベトナム戦争から十年以上の月日を経てでてきた。

 ベトナムのゲリラは『共産ロボット』ではなかった。かれらにも米兵と同様の世間から冷たくみられ、そのうえ精神的に悩まされた退役組が多かったのである。
 本書は75年のベトナム戦争終了から、二十年以上の歳月を経て、平常心を取り戻したベトナムの、言論状況の中で「新ベトナム文学」の騎手として登場するのである。

 あの時代、朝日新聞を筆頭に日本のマスコミと左翼は反米のための宣伝を繰り広げたことをのぞいて、日本国民の大多数はベトナム戦争で心理的にベトコン側に立った。
政府・与党が終始一貫して米国側にたったのも、ソ連と中国という共産主義の脅威が目の前にあったからだ。
「あれは大東亜戦争の恨みを、かわりに晴らしてくれているのだ」と考えた人が多く、しかし一方で保守派は、南ベトナムという正式の政府に刃向かう「ベトコン」とか言うゲリラはソ連と中国の傀儡、洗脳された共産主義のロボットと考えていた。
 人民軍のなかの「ベトナム解放戦線」を「コミー」(Communistの略)と呼んでいた。

 ベトナム戦争華やかなりし頃、私も重いカメラをさげてサイゴンに取材に行った。河畔のマジェスティック・ホテルに一週間とまって、足が棒になるほどに町を歩き回った。夜は連日、焼夷弾の歓迎を受け、翌朝は町のあちこちに爆弾の跡が残っていた。
 見聞するあらゆることが驚きだった。
 昼のショロン地区(華僑の町でよく爆弾事件があった)は活況に満ちていた。タイガー部隊と言われた韓国兵の駐屯地は、緊張感があり、写真撮影が許可にならない。町には乞食と身体障害者が目立ち、十二歳くらいの少年らが旺盛に働いていた。
 少年らの活動の場と言えばスリの助っ人、偽両替商の呼び込み、新聞売り、屋台の補助、ホテルのエレベータボーイ、靴磨き。
 わたしはこれら少年達の写真を撮り続け『人と日本』という雑誌のグラビアを飾った。

 毎朝、ホテルから一ブロックのところにあった喫茶店へ歩いて通った。その喫茶店は新聞記者のたまり場で英語の新聞が読めた。日本人記者が多かった。テーブルの下に潜り込んだ少年が勝手に靴を磨き出した。リキシャの運転手は老人が多く、知っている英語は「ナンバーワン」と「マスター」だけだった。

 書店では鈴木大拙、西田幾太郎などの哲学書の翻訳が並んでいた。川端より三島作品の翻訳も多かった。
 (明日死ぬかわからぬがゆえに、ベトナム人は哲学するのだ)
 夜は、付近にナイトクラブやら怪しげな米兵相手のバアが林立。昼間、駄菓子屋だったのが、夜はバアになる。淫売窟も目立った。米兵と韓国兵であふれ、相手の女の何人かはスパイだった。
 驚いたのは商店に昼、ひっそりと飾ってあったゴ・ジンジェム大統領の写真が、夜はホーチミンに変わっていた。
 (何だろう? この国には忠誠心というものがないのか?)

 ついでだからヴィザの話をしよう。
 私がベトナムに取材に行ったのは1972年暮れ、入国審査に一時間ほど。手めくりの手配リストを照合するので、やたらと時間がかかった。
その上、空港から市内へ入るまでに数カ所の検問所、逐一、荷物とパスポート検査。
 入国の係官が「おまえは今年ベトナムへ観光ビザできた六人目だ」と言われた。
 そうだ。新聞社に所属していない私はジャーナリストビザをもらえず、観光ビザで申請したのだが、東京で申請前に用意した書類はじつに十八種類!
 英文履歴書、会社推薦状、会社履歴書、日程、ホテル予約証明、預金残高証明などなど、これらを用意して自分で英文タイプを打って、用意するだけに三日を要した。代々木上原の南ベトナム大使館に自分で申請し、面接を受け、そして一週間後に受領に行った。それほどややこしい手続きが個人で行くときには必要だった(いまや、日本人はノーヴィザである!)。

 さて最後に、この小説が日本の読者をして、さほどの国境を感じさせず、一体感をもって訳出された井川一久氏は、前に『朝日ジャーナル』の副編集長をされていて、同誌では珍しい三島特集などの企画をやられた。
 井川氏は1966−69年を沖縄、70−73年を朝日新聞サイゴン支局、75年のサイゴン陥落にも立ち会った戦争ジャーナリスト。だから氏の「解説」にあるように、この小説の舞台となった戦場の多くを目撃しているのである。原作者との共通の認識と一種の連帯感が漂う訳文は、そういう背景からだろう。 

waku

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