辛口コラム

書評その17

中村彰彦著 『われに千里の思いあり』(全三巻、文藝春秋)

『われに千里の思いあり』

 歴史小説にまたひとつ傑作が生まれた。
 会津の悲運、桑名の義侠心、新撰組の悲哀など、これまでも「日の当たらない歴史」の影の主人公をこつこつ書き続ける中村彰彦は、会津松平藩の祖にして、家光の異母弟=保科正之に関していくつかの小説と随想をすでに表している。
 中公新書の『保科正之』はロングセラー、かれを主人公の『名君の碑』も人口に膾炙されて久しい。次のNHK大河ドラマにと全国で署名運動も起きている。
 会津武士、その後の末裔の艱難辛苦をすでに描ききった以上、作家としての興味は類似した悲運の主人公捜しだが、その後も、会津から関連した人物と時代へ対象が移ったかに見えて、じつは、この小説も保科正之が第三巻には準主役で登場する。

 江戸時代を前期、中期、後期にわけて考えると、前半は武力統治、中期は安定から文治へ。経済繁栄と合議による政治、後期は体制内官僚のリーダーシップ欠如と崩壊過程。とりわけ家康の天下統一から元禄へといたる百年間は、昇り龍のごとき繁栄を日本は迎えていた。徳川二代将軍・秀忠から家光へ徳川幕府の主は変わっても、親藩が江戸を囲み、外様大名を遠ざけて監視するシステムは完成し、合議によるまつりごとは、メッテルニッヒの「会議は踊る」。まさに欧州の安定よりも遙かに早く日本では平和が実現していた。

 さて中村彰彦の新作小説は、よく知られる加賀百万石の創始者=前田利家、貳代目=前田利長、三代目=利常の“あと”の物語。
 戦国争乱から安定期へ向かう過程で加賀百万石はいかに生きたかを描く。地元「北国新聞」に二年に亘って連載され、カラーの挿絵がはいった。四代目、五代目となると凡庸の人物が多くて小説の主人公になりにくいジンクスがある。

 ところが加賀百万石の歴史をバックにしながらも、描かれているのは運命に翻弄されながらも懸命に生きていく武将たちと、女たち、家臣たちの裂帛の物語である。

武将の戦いは文治のまつりごとに移行した

 とりわけ感心させられるのは奥向きの逸話である。戦国武将、藩主、幹部らは日頃の生活をどうしていたか。将軍の「大奥」は有名かも知れないが、藩主らの大奥はどうなっていたのか。
 この時代、妻妾同居は当然の風習だが、武将ともなると「側室」は正室が選び、正室が吟味のあと、主人に差し出す。子孫繁栄というより丈夫な跡取りを得る目的と政略結婚という政治のためである。
 側室の選び方も美醜を問わず、家柄を問わず、体型として安産型、係累に出世をのぞむ野心家のないこと。なぜなら正室は蒲柳の質が多く難産が目立ち、かつ母子ともによく育たなかったからである。
 しかも男子は十二歳、十三歳で元服し、人質と変わらぬ幼妻が初潮を経て、本当の夫婦となるとき、初夜はどう迎えたのか。その作法は? 側室は身の回りを誰がどういう風に面倒を見たのか、乳母はどうやって選ばれ、生母はその後、どういう運命を辿るのか。本書ではかなり詳しく、しかもさりげなく述べられている。

 私事に亘るが、評者(宮崎)は金沢生まれ、前田百万石のことは、郷土史を小学生の頃から習うので、前田家の墓所から石川門、利家が連れてきた尾張町に商人の街・近江町市場があり、鍛冶町も馬喰町もあった。金沢は典型の城下町の設計だが、筆頭家老本多は、城下の真際に「本多町」がいまも残り、香林坊、小将町、箪笥町、長土塀町、寺町と懐かしき名前が登場し、前田政治の功績としての辰巳用水のことも、郷土の名産品のことも知ってはいる。
 本多家はなんと五万石をはむ家老職で、この石高は日本一だった。
 前田の筆頭家老、本多家は家康の幕臣・正純の子・政重が祖である。だから徳川中枢に前田家は顔が利いた。

 けれども幕末維新のおりは、雄藩としての大役を何ひとつ果たせず、薩長土肥に主導権を奪われ、嗚呼、百万石は泣いて居るぞ、と思ったことだった。それはなぜか。加賀百万石は利家の御代から徳川との親戚関係の構築を重視し、三代目、四代目はエネルギーの大半をそれにかけていた。安定のため、藩の平和のため、そして徳川御三家につぐ親戚同様の親藩が前田家だったのだ。
 江戸への人質をまっさきに「志願」したのは利家の未亡人「芳春院」だった。参勤交代でも華麗な具備、おとも二千人。金沢から江戸間で12泊13日。その費用たるや、こんにちの貨幣価値で一億数千万円(つまり往復三億円を超える)。
 くわえて江戸に上中下の大屋敷。御成殿は豪華絢爛の粋をあつめ将軍を迎え、能の披露を行うだけでも、客人七千人ほどの食事を作るから、並大抵の費用ではない。それを前田家は他藩に率先し、徳川御三家より豪華な饗宴を実施したのだった。パックス・トクガワーノの中核的安定剤でもあった。

 前田藩は内政でも歴代が辣腕を発揮した。
 金沢市野田山に前田家の墓所があり、高校生の頃は何回も足を運んだ。
 野田の近くに長坂という農村もあり、通学した高校の裏手だったので、友人も多かった。馬小屋を備えた農家が多く、率直に言って豊かな農村、そのわけも前田家の新田開発と被災農民の移住政策にあったことは知らなかった。この小説では郷土史で教わらなかったいろんなことを教えられる。

 さて物語は、サスペンスを狙ったエンターティンメントではないので、筆致は雄渾なれど、物語は単調な調べである。
 主軸は二本あって、前田利家が加賀百万石の藩祖となって以来、五代までの波瀾万丈、もう一本の軸に織田、豊臣から徳川幕府へ移行していく過程での戦乱と戦績が述べられる。
 とくに関ヶ原、大阪の陣を閲し、島原の乱、キリシタン・バテレンの禁教、由井正雪の反乱などもあったが、徳川政治がいったん安定期へ入ると、武断政治から文治政治へ移行してゆく過程でまつりごとの変化、武家の心構えの変化がパノラマのように見て取れる仕組みになっている。

 とくに中村彰彦が焦点を当てるのは前田家三代目である。前田利常。
 繰り返すが、評者は金沢生まれだから三代目も名君だったことは知っているが、関ヶ原の強者でもなく、大阪の陣いがいは戦国武将としての猛々しさ、武勇伝は伝わっていない。時代は戦乱の世を抜け出していた。

 前田利常は、じつは前田利家と洗濯女との間に生まれた。
 だからと利家の妻だった芳春院(秀吉と尾張で隣組のときはおまつ)から、利常の生母は疎まれた。
 秀吉が朝鮮征伐のおり、肥前名護屋(いまの佐賀県)に多くの武将が勢揃いした。長い陣のため、利家は夜の伽が必要、そこで芳春院は、「だれか行く者は居ないか」と奥女中から「公募」?。
 それに手を挙げた女(ちゃぼ、と作中にでてくる)は「強運の持ち主」を信じてはるばると名護屋へ向かった。余談だが、その名護屋を十数年前に見学したことがある。イカで有名な呼子漁港から徒歩で二時間近くを歩いた。名古屋城跡には石垣の一部しか残っていないが、その城がまえの壮大さが偲ばれた。

 そうやって利家と洗濯女のあいだに加賀百万石三代目となる猿千代こと利常が誕生した。貳代目の前田利長には、その前に何人も男の子がいたが、早世した子、すでに養子にでたもの、支城を任されて者などあり、強運にも後継ぎ役が回ってきた。
 それゆえに大阪の陣のおりは、人質に出され、まさか百万石を順当に後継できるとは当時、誰も考えていない。八代将軍・吉宗がそうだったように。
 運命は強運に支えられた。

 四代目は前田光高、利常の正室と将軍家の姫君とのあいだに生まれた。文武両道に優れたが、藩政改革が軌道に乗りかけていた三十三歳が享年となった。
 五代目は前田綱紀。三歳で前田後継者と決まったが、ブレーン不足、ここに『後見人』として保科正之が登場するのである。
 前田綱紀の岳父が保科正之となったことにより、また幕府は諸藩を改易・移封という恐怖の手段で日本を統合するノウハウにも限界を露呈していた。
 加賀百万石の善政は、保科によるところ大きく、そのまつりごとは徳川幕府の模範とされ、『政治は一に加賀』と言われるほどの栄光の時代を開いたのだった。
 こうして中村は前田家五代の栄華、興隆と迷走とをリアリストの目を通して淡々と描いた。

 表題の『千里の想い』とは劉邦に由来する。人の心を収攬でき、多くの武将を朋輩となし、なおかつ戦略さえしっかりしていれば、まだ敵が千里のさきにあろうとも勝利は堅い、とした故事から取られた(後書きには書いてないが、文中にそれらしき文言あり)。
 全部で2113枚もの大長編なので、読むのみ丸二日を要したけれども久しぶりに爽快な読後感が得られたのだった。

waku

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