辛口コラム

書評その25
手に汗握るおもしろさ、ど迫力の歴史絵巻。まさに現代日本への警世
名将ハンニバル親子、スキピオ兄弟らは如何にして戦場で指揮をとったか。


リヴィウス、北村良和編訳 『ローマ建国史(上下)』(PHP)

『ローマ建国史(上下)』

 シシリア島へ行って三泊したことがある。パレルモ音楽祭なぞ興味はない。カルタゴの遺跡を訪ねたかった。
 地名がローマ時代、いやギリシアを想起させる地名、民族の通り道と言われたようにアラブ系、スラブ系、ゲルマン、ガリア、ギリシア系、トルコ人、その列に中国人が夥しく移民しているが、あまりに雑多な民族の混交のため、シシリアでは東洋人が歩いていても気にもとめない。
 けっきょく、シシリア島の北西部沖合に残るカルタゴ遺跡には到達できなかった。一週間旅程をとらないとどうにもならないほどアクセスが不便(というよりわたしは運転免許を持っていないのでレンタカーを駆使できないだけのことだが)、早朝パレルモを汽車ででて、辺鄙な港町へついて、目的の漁港へ向かうバスは翌日までしかなく、タクシーのない街だった。旅館もない。ところが中国人の行商がいる。
 結局、昼食を食べるところさえなく、夕方に近い汽車でパレルモへすごすごと引き返した。駅のエスプレッソ珈琲がやけに旨くおかわりしたことを覚えている。画集や写真集をたくさん買い込んだ。

 現在の北アフリカにあるチュニジアは遠き昔のカルタゴ本国、そのチュニスの港の北側に拡がる要塞と軍港遺跡は、いまもカルタゴ博物館として多くの観光客を引き寄せる。
ここには十年ほど前、モスクワ経由で行って、ついでにベルベル人の洞窟住居などもみた。映画『スターウォーズ』の衣装は、このベルベル人の外套をまねている。
 チュニジアのスークをみると、ふと路地裏からハンニバルが現れそうな、白い民族衣装の鷹匠、紺碧の海、アラブ系の砂糖菓子の甘さ、苛烈な民族対立と部族の離合集散、なるほどカルタゴ本国ではハンニバルの評価が左右に分かれ、ローマと通じた反ハンニバル派の跳梁跋扈があり(この人たちは商売が第一、国家の名誉は二の次だった)、一方、アルプスを越えて進軍したハンニバルの部隊は、多くの北アフリカの部族やヒスパニアやガリア人らをかかえての混成部隊であった。賞金目当て、ならず者、自由を約束されて勇敢に戦った奴隷の兵もいたという事実を思い出すのだった。
 ポエニ戦争は、シシリアも主舞台のひとつ、同島東南部の要衝シラクサをめぐる攻防などは五十年のローマとの同盟が弊履の如く捨てられ、裏切り、裏切り、また裏切り。傭兵、奴隷兵、外国兵が入り交じり、貴族の打算、怜悧な計算と演説の善し悪しでも愚民は動く。手に汗握る歴史のスペクタクル、下手な小説よりはるかに面白い。

ローマの敗因は民主主義という曲者

 ローマ共和制は「民主主義」、一年ごとに執行官を変え赴任地を変え、指導者も交替させる。議会では、なにも決まらず、おたおたとしているうちにハンニバルは象の大部隊率いて、とうとうローマの目の前までやってきた。ローマには一貫した戦争指導者がいない。カルタゴは一貫してハンニバルなのである。
 しかし繁栄しつづけたローマはなぜそこまで堕落したか。
「これまで敵国の存在の恐怖と軍事訓練とで国民の精神は維持されてきたが、この精神は、いったん平和が来ると弛緩し堕落して行くものであり、外国からの危険が迫った場合、困ることになる」(上巻74p)。

 ハンニバルはアルプスを越え、次々とローマの同盟国や途中の野蛮な部族国家を打ち破り、イタリアへ入ってからも片っ端に精鋭ローマ軍を殲滅したのに、なぜローマの目の前で進軍を止めたのか。とどめを刺すのを、かの名将ハンニバルはなぜ止めたのか。長い謎だった。
 しかし北村氏の執念とも言える、この編訳の巧みな叙述で全貌が明らかになった。
 第一にカルタゴ本国が資金も食料も増兵もハンニバルに送らず、慢性の食糧不足にくわえて冬の野営を余儀なくされ、ついには長逗留になった。
 第二にローマ軍の戦術と心理作戦と敵への分断作戦が奏功したからだ。
 第三は戦勝に酔ったハンニバル軍がローマを裏切って諂い、カルタゴになびいてきた都市で野営をやめて贅沢な生活に浸り、兵士らがそれぞれ情婦を抱え込み次第に野生を失い、酒池肉林におぼれ戦意を失っていく過程が描かれる。

 連戦連勝だったハンニバルにも最後の勝利の女神はほほえまなかった。
 若きスキピオはローマ軍の新しい独裁指揮官となるや、ハンニバルの後背地のヒスパニアを攻めて、ハンニバルの弟らが守った「新カルタゴ」を攻略して落とし、この拠点の最新鋭の軍需工場と造船蔽を掌握し、つぎにアフリカへわたりカルタゴ本国を囲む作戦に出た。
 この恐怖におののきカルタゴはハンニバルをイタリアから召還するだろう。このような大胆な長期戦略をたてて元老院の商人をえたスキピオは準備のためにシシリアのシラクサを三年かけて慎重に攻略して、ついに落城させカルタゴへ渡るための一大軍事拠点とする。
 当然ながら軍事的窮地に陥ったため、ハンニバルに帰国命令が出る。泪を浮かべながらイタリアを後にするのだが、ハンニバルはこう言ったという。
「このハンニバルの敵はカルタゴ議会であって、ローマ軍ではなかったのだ。ローマ軍など戦う毎に勝ってきたが、カルタゴ議会は陰湿な嫉妬と中傷の固まりだ。これが私の足を引っ張ってきた」(下巻472p)

カルタゴの敗因は通商第一、国家の名誉などどうでもいいという価値観だ

 ハンニバル精鋭軍はローマの目の前から離れ、北アフリカへ回航し、歴史上名高い「ザマ」に布陣したスキピオに決戦を挑む。そして敗れた。
 結果、カルタゴはローマに降伏する訳だが(これは第二次ポエニ戦争の結末)、その条件とは次のようである。
 カルタゴは全艦隊を引き渡し、軍の武装解除。
 カルタゴに交戦権は認められない。
 カルタゴは賠償を支払い、さらに(占領軍の)駐留経費、食料を供出すること。
 似ていますね? GHQの日本占領と。平和憲法、おもいやり予算。謝罪という名の賠償。日本の精神を骨抜きにした諸政策。

 ハンニバルは見抜いた。
 このローマの策略はカルタゴを丸裸にして武器を持たせず、「周辺の野心満々の鋭利な武器を持つ国家群の中に投げ出した。周辺国家の平和と信義に信頼せよとだ。これを諸君は泣かなかった。泣いたのは賠償金を出さねばならなくなり、個人の財布に国家を手を突っ込んだときだ。諸君は、自分の財布からカネを摂られると、国家的悲嘆を感じて泣く。これを笑わずにおられようか。我々はさらなる不幸に突き進んでいる」(下巻496p)。

 ハンニバル将軍は現在のチュニジアで貨幣にデザインされている英雄である。
 つまり現在のチュニジアは地政学的には同位置とはいえ、民族的歴史的にはカルタゴとは無縁なのに、ハンニバルを祭る。大国に臆せずに戦った英雄だからだろう。
 それからのカルタゴは第三次ポエニ戦争で完膚無きまでにローマに滅ばされた。ほぼ全員が虐殺され、数万が奴隷に売られ、カルタゴ全市には塩が蒔かれた。その前にハンニバルはフェニキアへ逃れて回復運動を展開したが、そこで没した(毒殺説が有力である)。
 カルタゴは地図からも歴史からも消された。これぞ近未来の日本の運命と重ならないか。

waku

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