辛口コラム

書評その38
読み出したら止まらない、寝る時間が惜しかった
久しぶりに歴史が躍動するストーリィ・テラーの風情も豊かに


渡辺惣樹 著
『日米衝突の根源 1858−1908』

(草思社)

『日米衝突の根源 1858−1908』

 講演旅行の鞄に詰め込んだ。講演が終わって宿で読み始めたら酒が進まない。ほかの用事も忘れる。とまらない。二時間ほど仮眠して、また読み続け、帰りの新幹線で弁当も食べずに読んで、それでも終わらず、所用を済ませるために外出。けっきょく、翌日の朝までかかった。576ページの浩瀚、三日で通読できたが、これを書き上げるには数年の歳月が必要だろう、と著者の取材、文献収集とその熟読によるデータつくりの苦労を思った。
 それほど面白いのである。
 歴史書を面白いなどと比喩するのは、書きながらどうかとも思うが、維新前夜からの日米接触、維新政府の欧米視察団、万博の参加などと表に現れて誰もが知っている通史より、裏面で何が進んでいたかを、時系列に論理的に整理してゆくと、ある推論が成り立つ。
 従来の近代史を別の視点に置き換えた。つまり米国の政策担当者と、その周辺にいた有象無象、国務長官やら海軍省、そのロビィ企業、山師、荒くれ男らが繰り広げたドラムは、おりからのゴールドラッシュに酔ってカリフォルニア開発、鉄道利権の争奪戦という躍動的ドラマのなかから対日政策がおぼろげに浮かんできた時代があった。
 幕末に日本にやってきてつぶさに日本を観察し、その旅行記を書いた男は、米国で売れっ子の講師となって全米を駆けめぐる。日本は想像の世界ですでにアメリカ人の思考回路のなかにしっかりと組み込まれた。

 ゴールドに沸き立つカリフォルニアに忽ちにして一攫千金を夢見る荒くれ山賊、山師的たぐいが蝟集するが、金鉱探査よりも、その労働者へモノを売ることで商売を培化した、目端のきく商人等もいた。シナとのクーリー貿易でしこたま財をなして政治家になったのがルーズベルト一族だった。
 その阿漕なやりかたを「フロンティア物語」に仕立てあげて、勝手に美化してきたのが米国だが、これぞまさしくアメリカ版『水滸伝』じゃないのか。
 フロンティアが消えてしまった米国にとって、パナマ運河の開墾、ハワイ王室をだました、まるで詐欺師のごときアメリカ外交は、まんまとハワイ併合。パナマにしても独立運動なるものをでっち上げて、コロンビアからパナマ地域をだまし取った米国、その凄まじい外交裏面史を、戦後の日本のアメリカ研究者は閑却した。

 その先はスペインを騙して戦争を仕掛け、フィリピン領有、そしてシナとの交易の利権を得るために、日本との戦争は避けられないという情勢になった。
 セオドル・ルーズベルトは未来の日米戦争を、歴史の教訓から鮮明に自覚的に、その予兆をひしひしと感得していた。もとより学業優秀、論文をいくつもモノにして著作も二冊ほど著していたセオドル・ルーズベルトは基本的に歴史家だった。

 全体の流れは、読んでいただくしかない。そもそも本書をまっさきに推薦したのは西尾幹二氏で、評者(宮崎)は、渡辺さんの前作(『日本開国』)も論じたことがあるので、きっと西尾さんが瞠目するほどの内容だろうという想像はついた。
http://mshks1318.iza.ne.jp/blog/entry/1397059/

TTPのごり押しアメリカとイメージが重複する

 読み方のひとつは本書を現在の日米関係、とくにTPP問題と重ねてイメージするのが有益だろう。
 従来の史観と異なって米英戦争による独立を達成したアメリカは『奴隷解放』をめぐっての南北戦争を始めたが、じつに戦死者70万余。これが奴隷解放のための南北戦争ではなかった(日本の蛤御門から函館戦争までの「内戦」<戊辰戦争>の死者は二万人以下)。
 やがて西へ西へのアメリカはサンフランシスコを拠点に無法者が集結し、インディアンを虐殺し、メキシコから広大な領土を巻き上げた。これを「西部開拓」という。アラスカをロシアから購入したのも、この前後だった。
 1902年の「日英同盟」への反発とロシアとの急接近などは、自由貿易vs保護主義の枠組みをこえて、マニフェスト・デスティニィを提唱したアメリカ人の心意気、その侵略主義、その前衛意識が納得できるうえ、さらにアングロサクソンにとって民族優位性という潜在する差別が、どのように生成し、アメリカ的プリズムのなかで、拡大し歪曲したか。

 米国民の主流アングロサクソンの、主流であるドイツ系移民らは、まずケルト(アイルランドのカソリック)を露骨に差別し、インディアン原住民をバッファロウもともと絶滅させ、黒人を奴隷として輸入し、ロシア革命前夜のポグラム(ロシアにおけるユダヤ虐殺)から逃げてきたユダヤ人たちを徹底して侮辱し、そしてシナ人を「不衛生、不潔」として徹底的に嫌った。
 アイルランド系は差別されて重労働の現場に投入されたが、その低賃金よりも安い賃料と長時間労働をいとわずに、黒人にかわって苦力(くーリー)として輸入された奴隷並みが、シナ人だった。アイルランド系が、新たにイナゴの大群のことく上陸してきたシナ人労働者が「おれたちの職場が奪われる」と騒ぎだし、シナ人を「コメッツ」(別の惑星からきた不思議な人たち)と言っておそれた。地域によっては暴動がおこった。シナ人排斥は大きな政治運動となる。
 この文脈が、後の日系移民排斥へと短絡してゆくのだ。

 さて幕末における日本人との接触はアメリカ人にとって最初から一種の脅威だった。映画ラストサムライはハリウッドで、俄にできた日本人武士道への賞賛ではない。
すでにペリー以前に冒険家らが日本にきて、その独自の文明の崇高さ、清潔さ、美しさ、倫理性の高さと教養、インフラ整備、武士の教養の高さと師をも恐れぬ勇気に、まったく別世界、シナ人とこうも日本人は異なるということを知っていた。
 渡辺氏は次のように書いている。 「多くの(アメリカの)白人にとって支那からやってきた男達は異様なものに映っていました。カリフォルニアにやってくるのは若い男達ばかり。女性は殆ど見かけません。みなさっさと稼いで故郷に戻り家族に再会することを望む者ばかりでした。ですから無駄遣いは殆どしません。身にまとうものにもまったく頓着しません。彼の食事は白人たちとはまったく違います。仲間の料理人が好物の豚肉をたっぷり使って作る広東料理です。余暇は仲間内のギャンブルとたまに吸引するアヘンでした。彼らはひどく特異な集団生活を送っていたのです。こうしてカリフォルニアには白人社会から遊離して生活空間、チャイナタウンが形成されていきました。数少ない女性たちはほとんどが売春婦でした」

 アメリカ人における日本への知識は、その情報がかなり正確であった故に、高かった。日本人の軍事力向上をひしひしと脅威視してゆくのがハワイを併合するあたりからのアメリカ人政治家、ジャーナリストらの認識となっていた。
 シナはあくまでもアメリカにとって将来の市場だった。

 やがて日米友好の外交段階は吹き飛び、衝突の火ぶたは切って落とされた。
 日露戦争直後に表面化するが、おもてだっては日米友好ムードは変わらなかった。
 ムードの大転換は軍事行動に突出した。
 それが副題のしめす「1908」である。
 この年、米国は十六隻からなる戦艦を「白い艦隊」として日本に派遣する。スペインとの海戦で、狭い湾内にスペイン艦隊を閉じこめた米海軍は、無敵スペイン艦隊を殲滅した。駐在武官として秋山真之は、現場でこれを見ていた。

 サンチェゴ湾閉鎖作戦は、そのご、日本の旅順港閉塞作戦で活用された。廣瀬中佐の戦死、「杉野はいずこ」の軍歌、「坂の上の雲」の舞台!

米国は1908年、十六隻の戦艦を日本に派遣してきた

 十六隻の米国艦隊は江戸湾深くに入った。
 もしアメリカがスペイン艦隊になしたように、これを封じ込めれば、1908年に日本は(日露戦争でバルチック艦隊を殲滅した日本海軍!)、米国の海軍力を殲滅し得た。
 それを米国は明確に恐れていたが、いやはや日本は朝野をあげて歓迎する有様だった。直前までポーツマス条約を仲介した米国に不満をならして、その米国の不実を糾してきた日本が、米国を歓待したのだった。
「白い艦隊は仮想敵国日本との戦いの予行演習を無事終えました。同時にその敵国であるはずの日本では気味が悪いほどの歓迎を受けました。ポーツマス条約後に吹き荒れた反米の嵐、カリフォルニアの日本人差別に対する反感、そうした感情はどこに消えてしまったのか。この不思議な、アンビバレントな感覚を最も敏感に感じ取ったのは艦隊を率いたスペリー推将以下の海軍将官だったに違い有りません。彼らも東京湾で海戦が勃発する可能性に一抹の危惧を抱いていた」(中略)

 渡辺氏はセオドル・ルーズベルトが展開した、平和を装いつつ日米和平を表で薦め、他方では軍備が整うまで耐えるという米国の対日戦略を『ガラス細工』にたとえてこういう。 「ルーズベルトが築き上げた日本との危うい親睦は、政治家ルーズベルトがおよそ八年の任期で完成させたガラス細工の傑作でした。艦隊旗艦の二週間後、この見事なそして悲しいほどに脆い作品は次期大統領」へとバトンタッチされた。
 そして三十年後、日米は本格的戦争に突入したが、これは避けられない宿命だった。


(「宮崎正弘の国際ニュース早読み」から転載)

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