辛口コラム

書評その4 日本男子の美学をとことん追究すると
数寄の魂に到達する

井尻千男著 『男たちの数奇の魂』(清流出版)


井尻千男著 『男たちの数奇の魂』

 この著作は日本文化の根本から湧きいずる静かな熱気と鬼神にせまるほどの魂が籠められている。
 井尻千男氏の「お屋敷」と、その立派な庭園と「茶室」を知っているものにとって、何故、井尻氏があれほどの情熱を傾けて維持されているのか。
それこそは文化事業でもあるのだが、その希有の行為に男の美学を見る。井尻さんの著作に親しんだものであれば、氏の訴えの多くが美意識からの日本への警鐘であることを知っている。
 井尻邸の景観と庭園の設計思想の視座から、伝統的な日本庭園の美を語り、茶室の本質を探求しつつ日本の文化の精髄を凝視する。

 この作品は井尻氏渾身の文化論、精神復活の呼びかけである。
 歴史との和解の仕方、近代日本の宿命としての二元論を生きた男たちが、ユニークな文化論の視点から簡潔に雄坤に描かれている。
「利休が『わび茶』の境地を深めたのは還暦を迎えてから」だった。
「わびた草庵茶室の完成は宗旦だったとされている」。それは「非政治的であろうとする決意と、清貧という現実を積極的に引き受けたところに、草庵茶室という新しい美学が完成した」。

 こうした美学的探求のあと、井尻氏は山梨の自宅に自分が設計した茶室をつくる決意をするが「私のめざす茶室は草庵茶室が出現する前の書院風小間となった」。
 先祖伝来、樹齢三百年の松を使い、「床柱は角材、うずくり仕上げの秋田杉、床框も角材、黒漆のつや消し、客畳上の天井は思い切って格天井にし、その桝目四つに照明を入れ込んだ格天井は、茶室の歴史にない」。
 しかも「思い入れの最も強いところは床の間の鏡天井で、ここには一枚板を入れることになっている。思いついたのは、私が子供の頃に勉強机にしていた一枚の座卓である。」
 東側にあった樹齢六十年の楠は「家相からいっても朝日をさえぎってよろしくない。私は決断した。その楠を切って、良材になる部分だけを残し、その他を灰にして新しい茶室の炉にいれようと」。

 問題は、なぜ井尻氏がここまでの情熱を傾けて、茶室を創出するに至ったのか。
 次の文章がさりげなく、本書に挿入されている。
 「今日の日本の富裕階層の人々は、もうほとんど和風文化を支持し買い支えていない。系譜不明の洋風建築の家を建て、ヨーロッパ直輸入の家具調度品をそろえ、フランスとかイタリアのブランド品で身を装い(中略)、主要国でこれほどに自国文化から乖離してしまった富裕階層はないだろう、旧植民国を別にすれば。つまり、金持ちが自国文化を何ひとつ買い支えていないということだ」。

 そしてこうも力説される。
「財界数寄者の系譜が途絶えたのは間違いなく精神史の問題」である。
戊辰・明治を闘って近代日本を築き殖産興業の先駆者となった多くの初期の財界人を比較せよ。
 かれらは近代化を提唱しつつ欧米建築を積極的に導入したものの一方では「和風文化の精華を買い支え、享受した」。
 明治鹿鳴館時代、江戸の浮世絵や仏教彫刻など、多くの国宝級美術が海外に流出した。われわれはNYのメトロポリタンなどへ出かけなければ、浮世絵の全貌を知ることさえできない。

 他方で、訳の分からない西欧美術が流入し、亜流の文化、さらには無国籍の日本文学を産んだ。国籍不明の芸術が持てはやされてきた。その戦後は伝統という文脈に立てば、虚しい時代、文化空白の時代だった。
 しかしながら明治から昭和の御代にかけて、たくましく西洋化の流れと平行して日本美を恢復しようと努力した人々がいた。
 題名に出てくる二元論を生きた偉材として、松永安左右衛門、益田孝、原富太郎、畠山一清、根津嘉一郎、五島慶太、小林一三、高橋義雄、井上馨らが、その雅号とともに紹介される。かれらが如何に古典と日本文化の精髄である美術品を集め、そして見事な庭園を残していったのか。

 「ノブレス・オブリージ(高貴なる義務)を失った現代日本人を見ると、「どうやら戦後教育ばかりか、富裕階層の教育にも失敗したというべきだ」
 そして根源に横たわる茶室の伝統を簡潔に繙き、信長から秀吉の時代に活躍した千利休、山上宗二、古田織部ら。また徳川時代に数寄者としても知られた小堀遠州、片桐石州、松平不昧、伊井直弼を網羅し、寸評しつつ文化の本源に迫る。

 本書を通読した翌日に井尻邸で恒例の「園遊会」が開催され、その茶室で井尻氏自身の点てた茶を頂きながら、天井や杉床や照明具合をみた。凝るというのは、こういうことなのか。
当日、山梨の富士の裾野にあつまった面々は皆が日本文化に一家言ある御仁ばかりで、美術史の田中英道氏、思想史の西尾幹二氏、言語学の萩野貞樹氏らに混じって加瀬英明、呉善花、石平、作家の中村彰彦の各氏ら総勢三十名が伝統の茶を愉しんだ。
 評者(宮崎)がその席で話題としたのは、上の文脈からみた司馬遼太郎記念館である。
およそ司馬の戦国大名の世界から遠く、日本の伝統建築と甚だしく乖離してのミナレット風の建物は、以前になにかに書いた記憶があるのだが、「あれは司馬遼太郎記念館というよりも、安藤忠雄記念館ですね」。
 その後、したたか酔って談笑の場となり、小生ら四人は塩山温泉に一泊する仕儀となった。本書の直截な感動の余韻から酩酊となり、その夜は、山梨の地酒で時間を忘れた。
(『男たちの数寄の魂』は清流出版発行。2,100円)。



信長が合理主義の近代をひらき経済自由主義者だったという妄説を駁す
明智光秀は謀反人ではなく義挙をとげた悲劇のヒーローではないのか

井尻千男 『明智光秀 正統を護った武将』
(海竜社)

『明智光秀 正統を護った武将』

 正統とは何か、歴史とは本質的にいかなる存在か。なぜ正統なる価値観が重要なのか?
 歴史と正面から向き合い、国家の自尊をもとめて行動する知識人=井尻千男氏は主権回復国民運動の中枢を担い、歴史認識の正論を国民に問うために戦い続ける。
 歴史の正統という価値観に立脚した思考、評価を掘り下げていけば、明智光秀が英雄であり、本能寺に信長を葬ったのは「義挙」であるということになる。
戦後、とくに左翼知識人や天皇を否定する進歩的文化人が流布してきた安易な評価への逆転史観が生まれる。
 となると本能寺の変を「謀反」と位置づけた、浅はかな歴史改ざんをもともと行ったのは誰か?
評者(宮崎)は、天下を合法性なく握った秀吉が張本人だと踏んできたのだが、井尻さんは秀吉より先に誠仁親王と、その周辺とみる。そして義挙はいったん成功するが、公家、同胞の日和見主義により、秀吉の捲土重来的巻き返しの勢いに叶わず、また土壇場で評価が逆転した。この悲劇の武将=明智光秀と二・二六の将校らに近似を見いだすのである。

 豊臣秀吉は棚ぼた式に権力を簒奪し天下人となったが、その『合法性』は疑わしく、右筆らを動員して、なんとしても明智を『謀反人』と仕立て上げる必要があった。でなければ天下を収める理由なく、せいぜいが信長軍団の内紛として片付けてもよいことだった。
 他方、明智にはそもそも天下を収める野心がなく、君側の奸を討ち、天下に正義を訴える目的があった。

 ともかく天皇を亡き者にしようと企んだ乱暴者、仏教徒を数万人も虐殺し、よこしまな覇者になろうとした織田信長が、なぜ近代では「法敵」という位置づけから唐突に転換し、英雄視されることになったのか。
本書はその歴史の謎に迫る会心作である。
 近代合理主義の陥穽におちた歴史解釈を白日の下にさらし直し、本能寺前後の朝廷、足利幕府残党、公家の動向を、かろうじて残された古文書、日記(その記述の改ざん、編集し直しも含め)などから推理を積み重ねて、事件の本質に迫る。構想じつに二十年、井尻さん畢生の著作ができあがった。
 評者は、この作品を井尻さんが『新日本学』(拓殖大学日本文化研究所季刊誌)に連載中から、毎号精密に読んできたのだが、単行本にまとまったのを機に、もう一度読み直した。方々に新しい発見があり、重大事件などの再確認もできた。

 まず本書執筆のきっかけを井尻氏は次のように言う。
 「小泉純一郎総理が皇室典範の改正を決意したと思われた頃、市川海老蔵演ずる『信長』(新橋演舞場)を観劇していたく感激したということがメディアで報じられた。そのことを知った瞬間、私は光秀のことを書くべき時がきたと心に決めた。思うに人間類型としていえば、戦後政治家のなかで最も信長的なる人間類型が小泉純一郎氏なのではないか。言う意味は、改革とニヒリズムがほとんど分かちがたく結びついていると言うことである。そもそも市場原理主義に基づく改革論がニヒリズムと背中あわせになっているということに気づくか、気づかないか、そこが保守たるか否かの分岐点」なのだ。
 第一の例証として井尻氏があげた理由は、「近代史家のほとんどは信長の比叡山焼き討ちを非難しないばかりか、その愚挙に近代の萌芽をみる」からであり、「宗教的呪縛からの自由と楽市楽座という自由経済を高く評価する」から誤解が生じるのだ。
 つまり「啓蒙主義的評価によって、信長の近代性を称賛する」。保守のなかにも、そういう解釈がまかり通った。『政教分離』の功績をあげた会田雄次氏もそうだった。
中世的迷妄という迷信の世界から、合理主義という近世を開いたのが信長という維新後の歴史評価は、信長の「底知れぬニヒリズムを」見ようとはしない。
 南蛮から来たバテレンを活用し、既存宗教に論争をさせた信長は、さもキリスト教徒のように振る舞った印象を付帯するが、信長は耶蘇教を巧妙に利用しただけである。
 安土城跡には二回ほど登ったが、麓の総見寺のご神体は信長である。また安土天守閣は「天主」であり、「天守」ではない。このふたつのことからも信長の秘めた野心がほの見えてくるようである。

信長の耶蘇教好きは演技にすぎず、自分が神に代わることを夢見た

 井尻氏はかく言う。
 「信長が、キリスト教という一神教に関心と好意を懐いたのは何故か。一つの仮説は信長が一神教の神学に信仰ではなく、合理主義を発見した、ということである。(中略)その合理性に比べるに、我が国の当時の宗教界は神仏混淆で、はなはだ合理性を欠いていた。というよりも、そもそも合理性というものにさしたる価値を見なかったのである。それに室町期に隆盛した禅宗文化は直感と飛躍と閃きにこそ価値を見いだすのであって、いわゆる合理性には価値を置かない」のだ。
 「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だということに」、日本の哲学者、歴史かの多くが気づかなかった。あるいは意図的に軽視した。それが信長評価を過度に高めてきたのである。

 かくて正親町天皇に対して不敬にも退位を迫り、誠仁親王を信長は京の自邸に囲い、あろうことか蘭奢待を切り落として伝統と権威をないがしろにした。
天皇と公家を威圧するために二度にわたる馬揃えを展開し、覇者への野心を目ざす。これを諫めようとした荒木村重一族を想像を絶する残虐さで虐殺し、ついに知識人が信長打倒で、ひそかに連合し、光秀をたのみ、とうとう正統を護るために光秀は義挙に立った。
 従来の解釈とは、光秀の遺作「ときはいま天が下しる五月かな」の「とき」は土岐だろうという推定だったが、そうではなく、又『天』は野心を秘めた光秀の天下取りの「天」ではなく、井尻氏は「天皇が納める国」、すなわち明智の意図は、正統に戻す、国体を護るための決意をのべた句であるとされる。
『古今和歌集』の一節に遡及して、「かかるに、いま、天皇の天下しろしめす」にこそが源流で、「天」は天皇、下は「民草」、しるは「領る」、ないし「統治」と解釈される。
 尊皇保守主義の復権を目指した光秀の行動と重ねると、一切の符帳はあう。
 こうして本書は保守論壇における今年最大の問題作のひとつと言える。


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表紙

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