辛口コラム

書評その45
安保法制議論に際して同盟関係とは何か、その本質の考察に有益
日英同盟はなぜ締結され、なぜ消滅を迎えたのかを地政学から考える。


平間洋一 著
『日英同盟』
(角川ソフィア文庫)

『日英同盟』

 日英同盟は当事者である両国、すなわち英国も日本も当時の激烈で、変化の急激な国際環境にあって、自国に有利と判断されたからこそ迅速に締結された。
 国益が双方とも合致したからだ。
 英国はボーア戦争をかかえ、ロシアの南下とドイツの海軍力増強を目の前で驚異視しており、日本もまた、当時の国際情勢のもとで、国益を考慮した打算に基づいて、ロシアを撰ぶか、英国と同盟関係を結ぶ方が有利かを撰ぶのが外交の優先事項であった。
 本書で平間氏は、通説を越えて、当時の外国メディアの分析にもっとも力を注がれ、日本の判断より、外国がどう見ていたか、最初は高い評価だったのに、後日は中国とドイツの世論工作の前に、国際的評価が失われていく過程が描かれる。歴史を活写するダイナミズムが本書にあふれていて躍動感がある。
 この文庫本の原本は2000年にPHPから出版された『日英同盟 同盟の盛衰と国家の選択』であり、文庫入りに際して大幅に加筆され、とくに中国の台頭という新しい国際環境の激変のもとの注釈も加えられた。  日露戦争で日本が勝利できた背景の一つは英国の後方支援である。
 しかし「日露戦争後、日米関係は友好から対立へ、日露関係は対立から協調へと転換した。日米対立は満州問題と日本の移民問題にあったが、とくに講和会議を有利にしようとしたウィッテや、露西亜の敗北で孤立したドイツが、日英や日米を分断しようと黄禍論を展開したこと、アメリカが中国、とくに満州への経済的進出を阻止されたこと、さらに戦後に経済の低迷から多数の移民がアメリカ西海岸に急速の増加したことから加速した」(90p)。
 つまりこれらの歴史的過程はそのまま日米戦争への布石である。

日英同盟は三回改訂されている。

「1905年8月12日に日英同盟は第一次改訂が合意され、この改訂で条約の適用範囲が清国と朝鮮からインドにまで拡大され」た。
「1911年7月の第二次改訂ではロシアという共通の敵が消滅し、日露協約、日仏協約、英露協商の締結、アメリカや自治領カナダ、オーストラリアの人種問題をめぐる対立もあり、日英同盟は存続の危機を迎えていた」のである。
 つまり第二次改訂は英国有利な片務的内容に変質し、同盟関係の解消は時間の問題となっていた。
 この間、コミンテルンが成立し、中国は日英同盟の離間工作を開始した。(130p)
 そして、「日本が南洋群島を占領し、オーストラリアに対日警戒論が強まると、ドイツはこの変化を日英分断、英豪の連携弱化に利用した」(172p)
 そして米国の対日外交が劇的に敵対化へ向かったのだ。
 要するに「英米人がいう平和とは、自己に都合のよい現状維持のことであり、正義とか人道に関係なく、それに『人道主義という美名を冠したものに過ぎない』(中略)「しかし、欧米列強が植民地とその利益を独占している現状は、『人類の機会平等の原則』に反しており、国際連盟で最も利益を得るのは英米だけである」と近衛文麿は批判した。
 戦後一貫して列強にはびこる「修正主義批判」とは正しい歴史解釈を敵視している。大東亜戦争とは言えず、東京裁判史観が蔓延し、日本は悪かったことにされている。

 平間氏は強く主張する 「歴史を正さなければ日本の精神的復興は久遠に出来ない。歴史問題は国家の名誉、尊厳の問題であるだけではなく、国家存続の問題だからである」(211p)。
 平間氏はマッキンダー、マハン、スパイクマン、ケナンの地政学をふまえ、南シナ海から海のシルクロードを構築して世界に覇権をもとめる中国を現代的世界史のパースペクティブに立脚した地政学にもとづいて、次のように解析されている。
 「中央専制的な政治システムや陸軍主導のタイトな戦争指導に服する大陸国の海軍は、柔軟な対応を要求される海上作戦には不適で、悲劇的な敗北に終わることは、ドイツ海軍やフランス、ロシア海軍(ソ連)の歴史が教えているが、『人民解放軍――海軍』と陸軍の人民解放軍の下に置かれ、陸軍指揮官が多い共産党軍事委員会に指揮され、政治将校の監視を受け(ている中国軍がはたして)、柔軟に運用され、レーダー、近接信管、最後は原爆を次々に新兵器を開発する自由主義諸国の海軍に、外国技術のコピペの武器で対抗し、制海権を確立できるのであろうか」
最後に中国軍の実力に大きな疑義を呈されている。

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