辛口コラム

書評その5のA
戦後日本の平和の洪水のなかに自死の思想は霞んでしまった
「妻と僕」との思想闘争記から人生への姿勢を問い直した哲学的な回想

西部邁著 『妻と僕 寓話と化す我らの死』(飛鳥新社)

『妻と僕 寓話と化す我らの死』

 重症のガンに侵された西部氏夫人は余命幾ばくもない、と衝撃を率直に書き出される。
 二人で歩んだ半世紀近い人生を西部さんは淡々と振り返りながら、この書は不思議な澄明さと静けさで全体が貫かれている。
 看病を続けながら人生を夫婦を愛情を孤独を名誉を哲学し、思想家・西部遭の饒舌的思索は片時もやまない。

 夫に先立たれた妻の回想録はこの世にあまたあって涙を誘う。石原裕次郎夫人、吉行淳之介「夫人」などなど。いかに愛されて幸福だったか。最後まで渾身の看病をして悲しみにひるまずに看取ったか。出色の例外は金美齢さんの夫(周英明)との台湾独立闘争記録。
 妻に先立たれた夫のほうの回想録は少ないが、それでも江藤淳、城山三郎、田原総一郎らが書いた。いずれも率直に言って女々しくもあり、愛情物語の域を出ない。
 だが、まだ妻に先立たれないうちに、死を思想的論争に位置づけて、夫婦の像をえがくのは西部氏がはじめてではないのか。

「身体の命運がぎりぎりまでくると、生き延び方といい死に方といい、自分で選び取るほかありません。人生は一回で、また人生は死の瞬間まで、つまるところは自分のものだからです。(抗ガン剤治療を忌避したのは)危機にあって心身を支えてくれるのは、根本主義だ、つまり自分の考え方の原則をつらぬくことだ、というのがM(妻のこと、作中ではMで登場)と僕との共通意見」だった。

 そして夫婦に関してこんな風に西部さんは考える。
「男女関係は、なんと脆い基盤の上に、なんと儚い動機に基づいて、なんと粘り強い努力で作り上げられていく、なんと堅牢な構築物であることか、夫婦とはなんとみごとな砂上楼閣なのか、と笑い出したくなる」。

 わたしが初めて西部遭氏と会ったのは二十年近く前だった。中川八洋氏が主宰する勉強会に西部氏が講師としてあらわれ、難しい講話が終わってから六本木のビアホールでビールを相当量飲んだ。中川氏はソフトドリンクを飲んでいた。
 何を話したかは綺麗さっぱり忘れている。
 それから「ラジオ日本」の南丘喜八郎氏が共通する番組を持っていて、その関わりで時折、飲み会があった。佐藤欣子さんらもメンバーだった。幼年時代の貧困について議論した。わたしが「吉野作造賞受賞にろくな作品はない」と酔った勢いで言うと、西部さんが「僕も受賞者だけど。。。」ときには『宝石』に氏が連載していた頃の編集担当の神戸さんが小生の担当でもあり、新宿へ一緒に出かけてカラオケに興じたり、もちろん『発言者』の創刊パーティには招かれ参じており、しばらく雑誌を購読していた。「宮崎さん、なにか書いて下さい」が口癖だった。

 三島研究会の公開講座にも講師としてきて頂いた。その記録を調べると平成八年五月のことで、演題は「三島由紀夫の思想的可能性」。この頃の西部さんの三島評価は低かった。ということは自死に否定的ではなかったか。そのあと十五人ほど連れだって、六本木の中国飯店に行っておおいに騒いだ。

 途中、七年ほどブランクがあった。
 なぜなら、たとえば教科書をつくる会、救う会、靖国、台湾問題そのほか、多くの保守陣営の会合やパーティ、シンポジウムでまったく氏を見かけなくなったのである。
 『発言者』の議論が難しくてついて行けなくなったこともあるが、氏の議論が浮世離れしていて、当時わたしの追求していた分野から離れつつあったという個人的理由もあった。
 というわけで数年の不通期間があったが、ある冬の日、『表現者』の座談会に呼ばれた。
 テーマは中国で、富岡幸一郎氏らも加わって久闊をあたためた。

レトリックの魔術師と喧嘩師が共存する不思議な人

 この間、教科書、米軍、安保そのほか、西部氏はやたらと仲間内に喧嘩を売っていたのだった。
 この回想をこういう比喩で書いている。
「孤独は、その時代なり社会なり場所なりを支配している雰囲気から逃亡するときに生じる感情なのでしょう。あるいは、それと闘って(案の定)、破れたときに生まれる感情なのでしょう。いずれにせよ、孤独を自覚するのは人間の輝かしい特権と言わなければなりません。人間だけが、己の言動に意味を見いだそうと努め、その意味を表現し、伝達し、蓄積し、そして尺度するだけのことに未充足を覚える」

 西部氏はレトリックの魔術師と喧嘩師が共存する不思議な人である。その後、偶然がいくつも重なって桜チャンネルの討論番組にでると、三回ほど連続してお目にかかり、録画の収録が終わってお茶をのんだりした。いや、氏はビールだった。直近は正論大賞の会がはねて「正論新風賞」受賞の新保裕司氏を囲む二次会。これは西部さんが事実上の主催者で三、四十人の編集者が中心だった。例によって新宿のピアノのおいてあるスナック。なぜか私と西部氏と二人して、「海ゆかば」を唱った。

 西部さんの書いているモノは基底にニヒリズムがある。十年ほど前に産経新聞に連載された仏教と死生観をめぐる随筆を読んだときに、わたしは不思議な感傷と抱いた。ずばり自死へのさりげない決意が随所で示唆されていたからである。
 そして本書は、このテーマが基底に沈んでいながらも、結局は自死にまつわる思考に収斂されていく。人生を締めくくる方法に関しての思索である。

 こういう箇所が否応なく、わたしの目に飛び込んでくる。
「この『平和』の日本国家あるいは『安全と生存』の日本列島では、『死の選択』という最も人間らしい行為が精神の病理現象として片付けられはじめ、(中略)逆らって僕は、自然死への人生行路にあっても、自分の思想が必要だと考えてきました。簡略に言うと、『これ以上に延命すると、他者(とくに自分の家族たち)に与える損害が、その便益を、はっきりと上回る』と予想されるようになれば、自死を選ぶということです」。

 そういえば、十年以上前だが、氏と会う毎に自死に関してつぶやくように言っていた。ピストルとか、麻薬とか物騒な話をさりげなく話のなかに挿入していて、わたしは全てをレトリックの魔術だろう、と憶測して本気に取らなかった。

 本書はレトリックの魔術師が思う存分の哲学的修飾を施して、いざ本質をはぐらかしているかにも見えるが、現代日本へのアンチテーゼである。日本の政治家は死から逃亡し、まつりごとは自死と対極の補償とシステムだけを論じている。日本の衰弱の原因の大きな要素は、おそらくこれだろう。

 自分の人生を自分の意思で終結させる。人間は本能によって生き延びる。だが、老醜をさらし周囲に迷惑を狼狽をかけるかもしれない自然死に対して、自死の思想があり得ると西部氏は語彙に力を籠めて現代日本人に問いかけているのである。



書評その5のB 1960年代の日本。嗚呼、古き良き時代

金美齢著 『夫婦純愛』(小学館)


 まだ日本にも共同体がいきいきとして近所の助け合い精神が顕著だった。
 大きな希望と夢を抱いて多くの台湾青年が日本に留学してきた。いまの台湾駐日大使の許世楷氏も、そのなかにいた。やがて許夫人となる廬千恵さんもいた。台湾独立運動の闘士、黄昭堂氏がいた。故伊藤潔氏もいた。

 金美齢さんは台湾で一度、結婚し、一児をもうけたが離婚。夢は半分ほどで、日本に留学してきた。得意の語学を活かして、当時の「中華民国」大使館によばれ、国際会議の通訳を幾度もこなした。
東京では台湾留学生たちがあつまってのサークル活動もあった。
「台湾独立」を表向き主張できる雰囲気はなく、表層の和気藹々、裏では国民党の特務が留学生を見張っていた時代だった。
 金美齢さんは通訳で大使館によく出入りしていたため、留学生仲間から「特務」の一味ではないか、と疑われていたという。

 在日の台湾独立運動闘士はペンネームで『台湾青年』に寄稿した。金美齢氏も、やがて夫のなる周英明氏も匿名で小説を連載していた。だが、ある日お互いにお互いの筆名を知ることになる。
 許世楷氏は阿川弘之氏のとなりに住んでいた。許氏の滞在ビザが切れたとき、延長を認めない日本政府(当時は台湾蒋介石政権の顔色を窺っていたのだ)に圧力をかけたのは、許氏の恩師・我妻栄教授だった。しかも我妻教授は時の総理大臣岸信介にたのんだ。ビザは延長になった。
もしあのとき、許氏も送還されていたら監獄行きだったと許大使自身がなにかに書いていた。
夫人も、同様な回想録を出された。その書評は評者(宮崎)も書いたが、最近、『東京人』で作家の中村彰彦が絶賛していた。

 評者(宮崎)は60年代という古き良き時代に日本に留学してきた金さんの、このくだりを読みながら25年前にNYで「中国之春」を創刊し、在米留学生を糾合した王丙章博士と会ったときの、かれらの苦労話を自然と思い出していた。
往時、NYばかりか、全米、カナダ、日本ほか、多くの西側先進国は中国からの留学生を受け入れた。かれらは大使館からの指令を受けた特務(留学生)に、それとなく見張られていたのだ。
「お互いの横の連絡をどうするのか?」と問うと、「まず電話して、世間話をしながら、徐々に。。。」と王博士は説明してくれた(詳しくは拙著『中国の悲劇』参照)。

あの牧歌的時代が懐かしい

 匿名でカンパを寄せる留学生も多くいた。共産党高官の息子達も、「自由、民主、法治、人権」のスローガンに賛意を示していると言った。
 それから四半世紀が経った。
 中国大陸からの留学生は、いまも留学生の仲間うちで徹底してうち解けた政治論をしない。誰が特務か、どの留学生が大使館の犬か、判らないからだ。自由をもとめる中国語の新聞は何種類かあるが、日本には極めて少ない。
 王丙章は、中国で逮捕され、無期懲役を食らった。米国では釈放運動が展開されているのに、日本ではない。

 さて本編の主人公=金美齢さんは、やがて留学生仲間の周英明氏と結婚を前提とした交際をはじめ日本で挙式した。
この本の表紙は、その若き日の周英明・金美齢夫妻の結婚式のセピア色の写真が飾っている。
 さりげない、飾りのない、スピーディな言葉の中に、異郷での生活、その青春、その愛が情熱的に語られる。その二人三脚の波乱に富んだ人生が熱っぽく描かれる。
 評者は、もちろん金さんをよく存じ上げているが、飲んだ回数は圧倒的にご主人の周英明氏とだった。
 ときに黄文雄氏や宗像隆幸氏らを交えて、『台湾青年』を発行していた頃の苦労ばなしも、三十数年ぶりに台湾が自由化され、帰国できることになった喜びも、かれらとの酒が泪にかわるほどに飲んで語らった。
 その周英明氏が急逝されて早や一年。夫不在となった金美齢さんは白髪となった。しかしますます元気さかんに、夫の魂を引き継いで台湾独立の戦線に立っている。
  どの局か、この本をテレビドラマにしませんか?

waku

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