辛口コラム

書評その57
ページを捲る度に落涙、その悲劇の本質は「寛容」という国民性の陥穽
チベットの悲劇がつぎに襲いかかるのは日本である


ペマ・ギャルポ 著
『犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る侵略に気づいていない日本人』

(ハート出版)

『犠牲者120万人 祖国を中国に奪われたチベット人が語る侵略に気づいていない日本人』

 本書は涙なくして読み通せない。
 行間にも氏の苦労、チベット人の悲劇、その懊悩と悲惨な逃避行のパセティックな思いが滲み出ている。中国にあっという間に侵略され、中国に味方する裏切り者も手伝って、120万もの同胞が犠牲となった。
ダライラマ法王は決死の覚悟でヒマラヤを越えてインドに亡命政府をつくった。
その表現しようのないほどの深い悲しみ、暗澹たる悲哀、血なまぐさい惨劇、しかしこのチベットの教訓こそが、日本がいま直面している危機に直結するのである。
 日本人よ、中国の属国に陥落し、かれらの奴隷となっても良いのかとペマ氏は訴え続けるのである。なぜなら日本侵略計画はすでに日中国交正常化から開始されており、この謀略にほとんどの日本人が気づいていないという失態に苛立つからだ。
 チベットは「寛容の国」だった。
それゆえに「寛容の陥穽」に嵌って、結局は邪悪な武装組織、つまり中国という暴力団の塊のようなならず者によって滅ばされた。
日本は平和憲法という、寛容な国家の基本法を押しつけられてから七十年も経つのに、未だに後生大事に墨守している。それが国を滅ぼす元凶であること、左翼の言う「平和憲法」擁護には騙されてはいけないことを力説している。

 評者(宮崎)がペマさんと知り合ってかれこれ三十年。本書で展開されている歴史的な証言は会うたびに断片的に聞いてはいたが、本書を通じて改めて知った事実も多い。
 とくにペマさんが12歳で初来日したおりにスポンサーとなって呉れた一群の善意の人々がいた。
共通の知り合いは亜細亜大学時代の恩師・倉前盛通教授(ベストセラー『悪の論理』でも知られる)だったが、その前にペマさんは埼玉県毛呂山町に住んで、チベット語を喋る木村肥佐生氏と出会った。
この木村肥佐生氏こそ、知る人ぞ知る波瀾万丈の人生を送った。
チベット潜行十年、チベット名はダワ・サンポだった。木村は英語、モンゴル語をマスターし、さらにチベット語をネィティブスピーカーのように操った。
 木村がチベットに潜り込み、そこで日本の敗戦を知った。残地諜報員としての職務も自動的に解かれ、以後帰国までの流浪物語は木村自身が回想録を書いた。
それをもとに木村の生涯を描いた英語本もある。

http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/kimura/kimurahisao.htm

その木村氏がペマさんの日本における庇護者の一人だったことは聞いてはいたが、ここまで身近な存在だった事実は初めて知った。
戦後、ようやく帰国した木村が外務省へ行くと、かれの体験的情報に、外務省がまったく興味を示さなかった事実も、いかに外務省が腐っているかを証明しているのだが、その批判は別の機会に論ずる。
ともかく本書のエピソードのなかで、圧巻の一つが、この木村がペマ青年を前にして、迎えたチベットからの要人との対話の場面である。中国の傀儡となってからのチベット政界の大物が日本にやって来たときのことだ。チベット政府の内閣官房長格だったバラ氏に会ったとき、木村は言った。
(引用開始)
「閣下は私のことを覚えていらっしゃいますか?」
パラ氏は答えた
「ハイ、覚えています」
すると、木村先生はさらに乗り出した
「私はダワ・サンポです。ソクボ・ダワ・サンポです」
(中略)「私のことなど覚えているはずがない。あの頃、あなたは天下の大バラでしたから。あなたの顔をまっすぐ見られるチベット人はほとんどいなかったが、私はよく覚えているよ。私はあなたの顔を忘れない。私たちが(チベットの改革のための)嘆願書を出しに行ったとき、あなたは私たちに物を言わせずに、叱りとばした張本人だった」
 そして先生は私(ペマ)を指さし、
「この子たちを国のない子供にしてしまったのはあなたたちだ」
 しかし、そのときのバラ氏は立派だった。
彼は静かにこう言った。
「おっしゃることはごもっともだ。だが当時の私たちは英国をはじめ、周囲の圧力と国内の不満に挟まれ、炎の中にいるような感じで、彼ら(チベットの改革派)を国外に追放することで精一杯寛大な措置をとったつもりであったのだ。全員処刑しても収まる状況ではなかったのですから」(本書49−50p。引用止め)
 ほかにも貴重な歴史的証言が詰まっている。

waku

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