辛口コラム

書評その7
朝日新聞の「正義」の旗は本当の正義か、それとも偽善と欺瞞の象徴か
日本のマスコミの「非知性」を柔らかに哀れむ名調子で貫かれている

高山正之著 『スーチー女史は善人か』(新潮社)

『スーチー女史は善人か』

 このコラムがあるために『週刊新潮』を買って最後のページから読む人が多い。
高山正之氏の『変見自在』コラムに酔う人も、感動する人も、読んで走り出す人も、やはり再読して、それも一気に通読して全体の高山節の名調子の世界に浸りたくなる。
 この本は週刊新潮のコラム集大成の第2弾にあたり、すでに第一弾『サダムフセインは偉かった』は発売以来、ロングセラーを続けている。
 第2弾は評者(宮崎)に言わしめると、穏当にして大人しい題名、高山氏に会ったおり「これ、『スーチー女史は悪人だ』と断定調にされたほうが良かったかも」と思わず実直な印象を言ってしまった。
 日本のマスコミの“常識”とか“正義”なるものを根底的に疑うことが本書の主眼だが、なにしろ一回の連載が五枚前後(推定)。この枠内ですべてのことを挿入し、読者をうならせるには格段の文章の技術が要求される。
 さて本書を最初から終わりまでかなり精密に読んで、「ん?」。連載中にも全部読んでいるはずなのに、忘れている指摘が多いことに気がついた。
人間は読書の翌日に内容の80%を忘れ、一ヶ月後に3%しか記憶しておらず、一年したら、一行を記憶していれば良い方だ、と言われるが、鮮烈なコラム故に「スーチーが悪女」だとか、『オランダはインチキ』「豪州は人種差別をいまもやっている」ことなど、随所に思い出が深く染みこんでいた。
 日本人の英雄にして日本が保護するべきフジモリ元ペルー大統領が、米国がフジモリを嫌いだという、それだけの理由でペルーにおいて不当勾留されているのに、日本政府は何もしない。恩人を忘れた日本人!
 静かに、しかし深い怒りがこみ上げてくる。ペルーの大使公邸で日本大使以下大勢が、過激テロリストに監禁されていた事件の解決にあたってフジモリ大統領は速攻で決断し、自ら先頭にたってテロリストを退治した。
「ラストサムライ」という映画がハリウッドでつくられる何年も前の実話である。
ところが、日本政府は満腔の意志を表示しての感謝を顕さず、あのときの駐ペルー日本大使ときたら、天皇陛下の写真のかわりに橋本総理の写真を抱いて釈放された。その大使の名前は青木某。

 さて各コラムに通底しているのは日本のマスコミへの不信。とりわけ「正義」とかのミョウチキリンなものを振りかざし、じつは日本をおとしめることだけが趣味ではないかと思われる朝日新聞の不正義。
 どこが可笑しいのか、面妖なのか、本書の朝日批判はずばり肯綮をつく。
 だが、正面からのいきり立った怒りの爆発ではなく、むしろ朝日の非知性をペーソスをもって哀れむのである。
 欧米列強に豪州、ならびにアジアの華僑系新聞も日本批判だけは盛んだが、米国の広島長崎東京大空襲の史上まれなぎ大虐殺はどうなるの?
イギリスが南アジアから香港にかけて戦前、いかなる残虐な植民地支配をしたか。その路線を踏襲したフランス領インドネシア、オランダ領インドネシアで何が行われ、当時の日本が植民地解放のほんものの「正義」の旗を振って地元の人々からどれほど感謝されたか。
戦後、これらの真実が消され、朝日以下の進歩的メディアはまるで逆さまのことを書いてきた。その偽善と欺瞞に鉄槌がおろされている。
ミャンマーのスーチー女史は欺瞞の見本。人権とヒューマニズムをはき違えた彼女をヒロイン視する欧米の計算と思惑は植民地時代の自分たちがやった悪行の数々を隠蔽する情報操作の一環でもある。

(「スーチー女史は善人か」は新潮社刊。1470円)

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