辛口コラム

書評その70

松本徹 著 『六道往還記、天神の道・菅原道真』(鼎書房)

『六道往還記、天神の道・菅原道真』

 松本徹全集第五巻である。この巻に納まった作品のなかで、前者の『六道往還記』については、嘗て小覧で紹介した。
 したがって本稿では、菅原道真に絞ってみたい。
 評者(宮ア)が小学、中学の頃、学生服着用だったが、かならず「管公」か、「楠公」ブランドだった。管公は学問の神様、楠公は日本武士道の象徴。それほど親しまれた。楠公像は皇居前広場にあり、神戸へ行けば湊川神社に祀られている。
 菅原道真を祭る神社と言えば、京都の北野天満宮だけではない。天神という地名も、天満宮も日本中にある。評者の街のなかにも天満宮があり、受験シーズンとなると境内に合格祈願の絵馬が溢れだす。全国に天満宮は無数、総本山は京である。
 それほど尊敬を集めている歴史上の英雄であるのに、菅原道真の人となり、その作品を知る人はそれほど多くはない。
 道真は第一に文章の達人であった。漢詩をこよなく愛し、作詩する一方で、和歌にも大きな足跡を残した。
 漢詩と和歌の天才というのは、その唐風にあきたらず和風に力点を置きつつバランスを取ったという意味だけではない。しかし道真は和歌の天才歌人として、現代に伝えられている。漢詩も多く残したという側面を知らない人が多い。
 当時の日本の文化、芸術、言語的環境は、唐風に染まっていた。いまの日本で言えばグローバリズムに染まっているような他律的精神環境があった。
 古事記、日本書紀は漢字で書かれているが、古事記は大和言葉を、漢字を借用しているのに対して日本書紀は最初から漢文、中国語である。
 ひらかな、カタカナの発明は道真の後の時代である。
 松本氏はこう書く。
「この時代、公の文書はあくまで漢文であり、政務を公事たらしめる要の役割を担っていた。漢字という異国の文字を綴って文章とすることが、この国の政治的体制を築き、定め、かつ、動かすことに直結していた」(239p)。
 変化が起きた。日本文化、文学の変容だった。
「宇多天皇の関心は、漢詩から離れることはなかったが、唐風一色の朝廷の在り方に飽きたらぬものを覚え、かつ、後宮の女たちの好みの変化をうけて、この国土に根差した、より自らの感覚に添った催しや歌に関心を向けるようになっていた。それに対して道真は、讃岐での日々における自らの『詩興』の変化を自覚して、その展開を考えながら、適確に応じて行ったと、と捉えてよかろう」(253p)

 そして遣唐使廃止の建言に至る心境、芸域の変化を下記のようにまとめられる。
 前提として宮廷の文化的感覚の変化、服装、装飾から絵巻もの、角張ったものをさけ、きつい色彩を遠ざけ、「なよやかな優美さを追求するようになっていた」。
 ゆえに、「このような変化を公式に、きちんと認めるのに、遣唐使の廃止決定ほど相応しいものはなかったろう。(中略)これは或る意味では、道真自身が拠って立つところを、自ら掘り崩す方向へ時代を導くことでもあったのも確かであった」(266p)

 道真の失脚は、遣唐使廃止が原因ではなかった。
 あまりに顕然と出世しすぎたことが、ライバル達の嫉妬を倍加させ、加速させ、讒言を呼び込んだと考えられる。
 令和日本の現代。太宰府にある天満宮は参道に人が溢れるが、驚くことに多くが中国人ツアーである。遣唐使を廃止した日本の英雄を、なぜ中国人が拝みに来るのか訝しい現象だ。まして日本の神道の意味もわからずに、名所だから立ち寄って、要するに土産を買うのが目的である。
 太宰府政庁跡にも観光客が溢れだした。日頃、観光コースから外れた場所であり、地面があるだけで、訪れる人が少ない、というよりいない。政庁跡地という看板と、柱の跡くらいしか残っていないからである(ただし菅原道真は太宰府に「左遷」され、蟄居を命じられていたため、政庁にも通ってはいない)。

 さて道真の出生地と伝承される場所は六つも七つもある。「ここが管公生誕地だ」という伝説となった土地があり、じつは特定されていない。
 松本氏はまず、出生地伝説の土地をたずねる。この作品は旅日誌風であり、ともかく菅原道真が辿ったすべてを巡礼の如く、思いを込めて巡るのである。果てしなく歩き、その現場にたって、土地の風を、土地の匂いを、そして土地の人々の会話を通じて、一歩でも実相に近付こうという、一種ルポルタージェ技法を用いての、道真論である。
 出生地から、京都での自宅跡地、讃岐赴任時の旅路、讃岐の住まい。そして太宰府に左遷となって船で瀬戸内海を各地に寄港しながら尾道、防府と一ヶ月かけた失意の旅の跡を、克明にたどりながら、松本氏は残された歌を思い出し、解釈し直し、そのときの道真の心境に迫ろうとする。まさに意欲的な労作である。文学論でもありながら、この本は評伝の域を超えた歴史志操を中軸に置いている。思想ではない、「志操」である。
 道真の生涯は、言ってみれば志操で一貫した。
 幼きときから文章の才能を見出されて天皇の側近として政治にかかわりながらも、俗世の出世、嫉妬、派閥争いには恬淡として距離を置き、だからこそ疎まれ、嫉妬され、讒言された。
 ところが道真は百年後には神となり、天皇が参拝に行くことになった。

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