辛口コラム

書評その88
昭和文壇史ではなく精神史として村松剛を基軸に展開する日本の知識人
ナショナリスト、現実主義、反共、保守派の重鎮となった遍歴を辿る意欲作

神谷光信 著 『村松剛 保守派の昭和精神史』(法政大学出版局)

『村松剛 保守派の昭和精神史』

 浩瀚な評伝(というより昭和精神論)である。執筆に数年をかけた、重篤な労作である。
 桶谷秀昭が言った「寂しい浪人の心」ではなく、村松剛の「思考の枠組みは西洋的な合理主義」だった。その精密な取材と調査の跡が行間に滲み出ている。
 精神史は亀井勝一郎も桶谷も、そして近年は長谷川宏が挑んだ。
 村松剛はポール・ボヴァリーから出発したが、文学者として最大の興味はアンドレ・マルロォへ移行し、政治評論ではレイモン・アロンだった。林房雄は晩年トインビーに凝っていた。西尾幹二はニーチェ、三島由紀夫はラディゲから出発した。
 明治以降というもの、日本の知識人はまず西洋に取り憑き、学を究めてから、やがて日本に回帰するのだ。
 レイモン・アロンの「マルクス主義は知識人のアヘン」という箴言を村松剛はよく繰り返していた。つねに沈着冷静、そして秩序と格式を重んずるのが村松のライフスタイルで、吉田松陰を論じても熱狂せず、怒濤のような愛国主義を説いた平田篤胤には無縁。三島が崇拝した大塩平八郎や、江藤淳の西郷隆盛にも積極的な評価をしていない。そもそも村松は日本浪漫派とは距離を置いた。
 それにしても本書は分厚く、渉猟した資料だけでも気が遠くなるほど。古くて、どうやって入手したのかと思われる村松の初期の貴重な原稿を発見し、丁寧に解説しているうえ、精緻を極める年譜が巻末についている。評者(宮崎)にとっても初めて知ることが多かった。
 村松剛が小林秀雄からボヴァリー、そしてマルロォへと流れた過程も手に取るように分かった。
 これは一言でいうと「醒めた焔 村松剛論」である。
 アイヒマン裁判を傍聴するために村松はイスラエルへ飛んだ。ナチスのファシズムとソ連の全体主義は現代のニヒリズムに通底すると村松は指摘した。ハンナ・アーレントに「悪の凡庸さ」という表現があるが、その指摘の前に村松は「アイヒマンは思想の問題ではない。自分の行為の終局の責任者の位置に自分を置くことのできない人物に、『思想』のはいりこむ余地はないだろう」(111p)と喝破している。

 イスラエル問題から『ユダヤ人』を書き、ついで中東を語り出したら止まらなくなった。
 PLOをテロリストと決めつけたが、さしずめ今日ならハマスもヒズボラもテロリストだろう。根っこは二千年の放浪の後、自分たちの国を建てたという、その精神であり、信仰心、民族精神の源泉は何から沸き出たものなのかを見極めようとしたのだ。
 村松剛の代表作は『帝王後醍醐』『死の日本文学史』『世界史の中の日本』など数多いが、著者の神谷氏は『醒めた炎 木戸孝允』を挙げていて、じつは評者も同じ意見だ。
 『帝王後醍醐』の執筆動機を村松は「明治維新は建武の中興を抜きに考えることができない」のであって、「天皇親政の先例は武家の台頭後は建武の中興しかなく中興は大政奉還にはじまる明治維新の原型」であるという歴史観に結び付く。 「帝王後醍醐のかげは、近代日本の国家理念に深く浸透している」と村松は概括した。
 七百年つづいた武家政治に終止符を打つと同時に明治維新は千年ちかくも続いた摂関政治の廃止を実現した。
 戦後、中興の栄光はかき消えた。だから村松剛は明治維新の原型となった建武の中興から書き始める。
 集大成が『醒めた炎 木戸孝允』である。物語を作らず、ひたすら客観的事実を叙述し、また新資料をそれとなく挿入した。ワシントンのアーカイブへ行ってペリー提督の日記を探し出した。幕末維新の現場は講演旅行で全国を飛び回っている寸暇を利用して見て回った。
 著者の神谷氏はかく言われる。

 「幕末明治を雄勁な文体で描くことになる村松は、本来は主知的な『現実主義的な開化論』の立場なのであって、西郷隆盛論『南洲残影』を情念に満ちた文体でロマン主義的に描いた江藤淳が『攘夷論いらいの民族主義』であったのとは対照的である。村松剛のナショナリズは右翼的心情とは無縁である。三島由紀夫はそれを見抜いていたからこそ、生前最後となった面会の場で『きみは頭の中の攘夷をまず行う必要がある』と言ったのであろう。村松剛はフランスナショナリズムの体現者であるド・ゴールの自主独立路線を念頭に置いていたはずだ。それはつまり自由主義陣営に所属しつつも、アメリカ合衆国とは緊張感を持った距離を持つとういうことである」(126p)

 また桶谷秀昭の『草花の匂う国家』は木戸孝允を評して、「木戸の感受性は時代の水準を抜く鋭敏なもので、彼は文明を普遍的なものとみるのに懐疑的であり、多様性において文明をみる眼を持っていた」としたが、著者はそれを演繹し、「村松が木戸に自らを固定したのは、桶谷の言葉を借りれば、開明的で高邁な見識を持ち、西洋を普遍とは見なさず、かつまた権力に恬淡としていた姿に、ある理想的人間像を見たからではないだろうか。醒めた炎とは、木戸孝允という人物を象徴するイメージであるとともに、村松剛のそれでもあった」(290p)
 著者は桶谷の保田譽重郎論を援用し、「時勢論の発想を拒否して時務を語るのは、戦前戦後を通して保田譽重郎の変わらない態度」と(桶谷は)指摘したが、「村松剛の特徴が別の光のもとに見えてくる。すなわち、村松剛の国際政治論は、時勢論、相対主義なのである」とする(238p)

 また本書は村松剛の作品群を追って、三島の切腹の衝撃が動機となった『死の日本文学史』を書いたとする。
著者の神谷氏は、「死をめぐる日本人の心性史探索の体裁を採ってはいるが、見方を変えると、日本人向けに村松なりの『メメント・モリ(死を想え)』であったといってよいであろう」(251p)。
 昭和の精神史、とくに戦後の日本の知識人の精神史を、村松を基軸に、副軸に三島由紀夫、織りなす人物のなかでも小林秀雄から江藤淳、石原慎太郎、開高健、阿川弘之と多彩にわたり、とくに黛敏郎、遠藤周作、佐伯彰一、奥野健男らが重要な場面で顔を出す。村松の信奉者は田久保忠衛、入江隆則、井尻千男の各氏だ。

 もうひとつ、村松の重要な仕事は『世界史のなかの日本』である。
 この本で村松は古事記、日本書紀から源氏物語の精神性と国際情勢を絡ませ、藤原仲麻呂のシナかぶれ、ハイカラ思想を批判し、唐心(からごころ)から大和心(やまとごころ)への回帰という大きなうねりを主題とされたが、残念ながら未完に終わった。
 慈円の愚管抄、北畠親房の神皇正統記、頼山陽の日本政記(日本外史ではない)、そして新井白石、本居宣長の突っ込んだ評価を訊きたかった。
 村松剛氏が逝ったのは1994年5月17日、すでに三十年近い歳月が流れ、論壇からも忘れられつつある。本書を丹念に読みながら評者は、氏との百回を超える会合、面談、宴席、旅行を走馬燈のように、回想と追憶とが入り交じって昨日のことのように思い出していた。
 師走が近い。本書は今年度読むべき本のベストスリーに入る。

(((余滴)))「知られざる村松剛」先生の逸話をすこしばかり。評者・宮崎が初めて会ったのは、上記書籍の年譜にも記載されているが昭和四十二年の正月で、気むずかしい人と聞いていたが、開口一番「君たち酒にするか、ビールにするか」だった。酒豪ではないが、酒は強くウィスキー、ワイン、日本酒、焼酎なんでも。ずしりと重い鞄の隅にいつもウィスキーの小瓶が入っていて、ときどき小さなコップで一口に飲んでいた風景をフト思い出した。銀座ではフランス語でシャンソンを歌われることもあった。
 中東のこと、日本の古典は何でも知っていたが、野球選手は長島くらいしか(村松は立教大学教授でしたから)知らなかった。或るとき田久保忠衛氏と横浜のマンションを訪ねると、イスラエル大使がおられ、皇室の話題となった。村松の持論は『天皇は祭祀王』である。
 応接間には、評者がカザフスタンの土産に買ってきた絨毯が敷いてあった。京都で東寺を訪ねたとき、すれ違った人が挨拶したので「いまのはどなたですか」と訊くと「おれも知らないんだ」と答えて笑った。売れっ子で多忙を極めた人だったので、修正ゲラをとりに行った場所は時に羽田空港の控え室とか、東京駅の新幹線プラットフォームなどで、編集者まかせでなく朱筆は真剣だった。闘病中、二回お見舞いに行ったが最後は口がきけずに身振り手振りだった。

waku

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