辛口コラム

書評その89
『楯の会』元隊員がつづる三島、森田像の再顕彰
三島と蓮田善明に通底する尚武の精神と愛国の激憤

村田春樹 著 『三島由紀夫は蓮田善明の後を追った』(展転社)

『三島由紀夫は蓮田善明の後を追った』

 評者(宮崎)は書棚に一枚の写真パネルを飾っている。熊本田原坂の戦歴跡公園の片隅にぽつんと立つ石碑の写真だ。四半世紀ほど前に行った時、何かの霊が導くように自然とシャッターを切っていた。
 石碑に彫られた歌はこうである。

『故郷の駅に降り立ち ながめたる かの薄紅葉 わすらえなくに』

 後年、江藤淳がやはりこの石碑を見た感涙を書いている(『南洲残影』文春文庫)。
 2017年頃だったと思う。ブルネイ取材を切り上げてシンガポールに二泊した。といってもシンガポールはほぼ見尽くしていたので、国境を越えマレーシアのジョホール・バルへ足を伸ばした。バスターミナルの繁華街をこえるとビルのない空き地が拡がり、日本軍が使用した兵舎跡の残骸が草ボウボウの荒れ地に残っていた。むろん、「或る場所」を探すためだった。そう、蓮田善明の自決した連隊本部玄関である(結局、戦後七十年を閲しており特定はできなかった)。
 つぎに古事記を書いた折(拙著『あるいてみて解けた「古事記」の謎』、育鵬社)、スサノオ、神武天皇、ヤマトタケル、神功皇后、雄略天皇に的を絞って跡地を歩いた。持参したのは岩波文庫版の『古事記』と蓮田善明の現代語版『古事記』(これも岩波文庫)だった。現代語訳は石川淳も林房雄も、池澤夏樹も挑んでいるが、評者にとってもっとも語感が鋭敏で躍動的文章が、一種のびやかな旋律をもって奏でられる蓮田訳、その躍動感である。

 たとえばヤマトタケルの望郷の歌とされる 「大和は国のまほろば たたなづく 青垣 山籠もれる 大和し うるわし」を、蓮田訳では、「大和は夢に包まれて 重なりつづく山脈の 蒼き垣なすその中に隠る大和のうるわしさ」となる。

 蓮田善明は『古事記』の魅力を次のように捉えた。

「いわゆる民族文学として叙事詩的性質や香気を大いに発揮している英雄の神武天皇、倭建命、あるいは雄略天皇その他の方々の古伝説、すなわち、当然はなばなしく歌謡を多く交ぜて、叙事詩風に『古事記』で描かれているところも、『日本書紀』では全く削らないまでも、急に冷たい部屋にでも入ったような書き方に変えられてしまっています。これに反して『古事記』は、現在のわれわれが考えるような歴史的記述ということには案外のんきで、そのとき手に入った資料にある限りの興味の多い古伝説を欲張って載せています。すなわち、ことさらしかつめらしく構えないで、かえって伝えごとの中から、生き生きと心を打つものを採り上げることに熱心であった古事記のほうにつくろわぬ姿が見え、今のわれわれにも、興味と感動とを併せての、つつみきれぬ魅力をそなえている」(『現代語訳 古事記』、岩波現代文庫)。

 つまり合理的科学主義であれこれ言うのは簡単だが、ひとまず『古事記』を素直に読もうと強調している。虚心坦懐に通読した上で、疑問は合理的に科学的に考え直せばよいと唱えている点で、本居宣長、保田譽重郎らに繋がるのである。 

 しかしもっとも印象的な蓮田の歴史観は、『青春の詩宗−大津皇子論』に書かれており、すなわち大津皇子は「今日死ぬことが自分の文化であると知つてゐるかの如くである」とし、自分の運命を感受した大津皇子の精神を説いた不思議な、精神世界のレベルなのである。

 蓮田善明は二度召集され戦地に赴いた。新妻との間には三人の男子がいた。
「硝煙弾雨のなか万葉集を諳し、塹壕の中で蝋燭の灯りで『古事記』と『源氏物語』を筆写するのを楽しんでおり、まさに『みやびが敵を討つ』という日々だった」(16p)
『花ざかりの森』を持ち込んだ三島を『天才』の出現と祝福し、清水、蓮田らの『文芸文化』に連載された。蓮田は三島の出現をこう評した。
「悠久な日本の歴史の申し子である。我々より歳は遙かに少ないが、すでに成熟したものの誕生である」
 蓮田はその短い作家生活の中で珠玉の作品を残すが、最大の功績のひとつが清水文雄とともに、三島由紀夫を見いだしたことである。当時、三島はまだ十六歳、異様な才能が光芒を放ち始めた頃である。
 この二人がいかなる運命を辿ったかは本書の詳細に譲るとして、いくつかの大事なポイントを村田氏が指摘している。

「青山を枯らし、大量の涙は洪水を引き起こす」

 スサノオは父の伊弉諾が命じた「海原を知らせ(海を治めよ)」に肯んじないで号泣した。「青山を枯らし、大量の涙は洪水を引き起こす」ほどに。
 このスサノオの「泣くさまは、豪快でもあり、破天荒でもあり、幼児のようでもあり、傍若無人でもある。正に荒ぶる神に泣くさまであった」とし、これは「泣きいさちる」すがたであるとする寺田英視(元『文学界』編集長)は、
「このデモーニッシュというしかない荒ぶりようは、神話の中の神の所業と、我が先祖たちは考えていた。つまり人為とは捉えられない何かであった」(『泣く男』、文芸春秋)

 文学報国会において壇上に並んだ文士たちを前に蓮田は石川達三を批判し「スサノオの精神」を説いた。
雅が敵を討つ。「撃ちてしやまん」が大和武士の精神である。祖国の戦争を冷淡に客観的にみる文士等は、状況が変われば変節するだろう。敵は内部にもいると攻撃するのだ。
といって、蓮田にはごりごりの軍国主義、国粋主義ではなく、正義に立ち向かおうとする浪漫派の原点に基づいた言動を取った。ジョホールバルで1945年8月19日、通敵疑惑の上官を撃ち殺し、自らも拳銃で自決した。このため長きに亘って蓮田善明は極右の国粋主義と誤解された。

 三島は自分を見いだしてくれた蓮田善明の文学をこよなく敬愛し、また強い影響を受けた。晩年の三島が傾斜したのは葉隠、大塩平八郎、そして神風連だった。
 三島の辞世は二首。その本家とりは神風連の乱の首謀者加屋ハル堅の和歌と漢詩だった。
 本書はほかに「貝殻島と森田必勝」ほか四編のチャプターから成る。

waku

表紙

2000-2023 MIYAZAKI MASAHIRO All Rights Reserved