テネシーウィリアムズと交友
三島がテネシー・ウィリアムズと親しかったことは有名である。
一度ニューヨークのテネシーの仕事場を三島が訪ねたら、犬が十数匹いて凄い臭気、その上、うるさく、しかしその芥溜めのような部屋で、テネシーは呻吟しながら作品を書いたので驚いた、と三島は「旅の絵本」に書いている。
トルーマン・カポーティとも意気投合し、おたがい日米で訪ねあったこともあるようだが、事件後、この二人のアメリカ人作家が三島をどう評価したか,寡聞にして耳にしたことはない。とくにカポーティは!。
「ティファニィで朝食を」で颯爽と米国文壇を席巻したカポーティは、このころ飛ぶ鳥を落とす勢いで、三島と会った直後から(別に三島の影響ではないのだが)、作風が変わり「冷血」などのノンフィクション的ノベルへと突き進む。(なんと私はヘミングウェイを習おうと入学した英文科で竜口直太郎教授はカポーティ、カポーティを連呼、すっかり白けてしまった記憶がある)。
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「欲望という名の電車」のモデル?
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米国に三島はしばしば出かけたが、ニューヨークが主で、しかもドナルドキーンとの打ち合わせが上手く行かず予定していた滞在が延びて安アパートで暮らした経過については前回に書いた。
翻訳の打ち合わせと芝居の上演が三島の旅行の目的だったことが多いが、かといってニューヨークばかりではなく、サンフランシスコで講演したり、ミシシッピィ州の田舎町へ出かけたり、勿論、ロスアンジェルスにも。
「摩天楼を美しいと思うことは、既に我々の祖父伝来伝承された感覚だが、どんどん新しくたっているより機能的なモダンな摩天楼も、(たとえばシーグラム・ビルディングを見よ)直ぐ近くの古い摩天楼との様式差を、高さの近似のおかげで、みごとにカヴァーしてしまっている。ここでは様式の較差も問題ではなく、下から眺める人間の視野に対する威嚇だけで、全くよく似た「圧倒的な」美感を与えるのに成功している。巨大というものが、いつも様式を超越してしまうということの古代の例証は、ローマへ行けばよく見られる通りだ」(「新潮」昭和36年4月号)。
都市文明の設計思想にまで興味が及ぶのかと考えさせてくれる文章だが、摩天楼をこういう風に意識するのも三島独特の美的感覚がなせる業だ。とりわけニューヨークとローマを、こういう文脈で連結してしまうなんて!
しかし他方で三島はそういった舌の根も乾かない内に、なぜかしらジャズの都・ニューオーリンズへも足をのばしている。この地に摩天楼の美観はといえば当時なかったと思われるが、むしろヨーロッパに似ているから気に入ったのであろう。
実は三島がニューオーリンズへ行ったのは初回の世界旅行ではなく、二回目に招待を受け、そのとき本物の「ブードー」を見たくてハイチへ足をのばし、さらにキューバへも立ち寄ったことがあり、その帰りがけにニューオーリンズにも寄ってみたのだ。
ところがこの町を三島はいっぺんで気に入ったのである。
「私は本物のヨーロッパよりも、中南米や、西印度諸島ヤ、メキシコや、北米南部に残る、衰えた、やつれた、息も絶え絶えな、哀れなヨーロッパのほうを余計に愛する。郷愁でいっぱいになった、そして昔は支配者であったものが今は虜囚の身分に落ちた、半分きちがいになった哀れなヨーロッパが、北米で見られるのは、多分ここニュー・オルリーンズの一角のヴィウ・カレ、いわゆるフレンチ・クォータだけであろう」(「旅の絵本」)。
昼間からジャズで喧しきかな
そのジャズの街へ筆者が訪れたのは5,6年前である。
私とて特別の目的意識を持って、ニューオーリンズへ行ったのではなかった。何となく見たことのない都市だったから、アトランタから乗り換えがてら、ついでに見物してみようと思っただけである。
たしかこの町を舞台にテネシーウィリアムズは「欲望という名の電車」を書いたのではなかったか? 飛行機でアトランタからやってきても、ガイドブックを持参しているわけでもない私には記憶だけが頼りだった。ちんちんと汽笛を鳴らして電車が軌道を走っていて、いまも市民の人気者である。一ドルか、一ドル半か電車賃の多寡を忘れたが街にいると一日何回かは乗る。市内はそれほど広くはないが端から端まで歩いて、というわけにもいかない。
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自主的なジャズ楽隊は、そこいら中、街を闊歩している。
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私はジャズにそれほど興味はないが、あのわけのなからぬ騒音だけのニュー・ミュージックやら、かといってカントリィ・ソングを聴かされるうんざりさを想像すれば、静かで、哀切さが漂うジャズがよほどいい。
ここはなにしろ「世界一のジャズのまち」、辻辻に玄人はだしの音楽家がいて、大道芸人がいて、極端な話しが、街をぶらぶら歩いているだけでも一日音楽の洪水に飲み込まれることになる。
たとえば昼過ぎにでもジャズバーは営業している。ビール一杯で一時間以上は粘れる。
夜は人気のある演奏家のでる店は早く行かないと座れない。ビールかバーボンを頼んでおそらく今も6ドルとか、それ以下でジャズを堪能できるのだろう。
港町だけあって米国には珍しく生牡蠣、蛤、仏蘭西風味付けのフライなど、歩きながらほおばって夜中になればなるほどフレンチ・クォータは手の付けられない大騒ぎになる。
そうだ。私は映画「ペリカン文書」で女主人公のジュリア。ロバーツが殺人者におわれてこの街を逃げまどう場面をフト思い出していた。
ジャズの喧噪と人混み、熱狂と混雑のなかを利用して、どうやら逃げおおせる筋立てになっていた。
三島も「わたしは仏蘭西市場のテラスでお茶を喫んでから、散歩の足をエスプラネイド・アヴェニュウの方角へ運び(中略)古い植民地時代の馬の幽霊に怒ったような気がした。繊細なレエス・カアテンの下を駆け抜けて、焔のように疾駆していた馬が、そこらに見えない姿で、老いぼれて、くたくたに疲れ果てて、半分きちがいになって、あらわな肋を見せてたたずんでいるように思われた。」(「外遊日記」)
どうしてニューオーリンズに行く気になってか、いまになってみても自分でも分からない。
2週間ほど時間が空いたときに、私はまずキィウエストへ行ってみたくなったのだ。フロリダ最南端から島づたいにドライブすること3時間半、グレィハウンズのバスは60ドル前後でマイアミからキィウエストまで運んでくれる。途中の海は絶景である。
しかもキイウエストから南へ90マイル行けばキューバだ。
息子がニューヨークの大学に入っている知人が、夏休みに息子のところへ様子をみにいたおりに、ついでにこのコースをトライブして「凄い、凄い」を連発していた。私はなにかの映画でも、その美しい情景を空から撮したものを見た記憶がある。
ここはヘミングウェイ「老人と海」の舞台でもある。
しかしその情景が、33年前の映画「老人と海」に出てくるはずが無かった。33の島々に橋を架け、道路をひいたのはそのあとプロジェクトの筈だから。
キイウエストの「ヘミングウェイ記念館」にて
キィウエストはヘミングウェイが好んだ街で、南港から見渡せばキュウバが見える。
湊の波頭の突端が「ピエール」という豪華なホテルで、何故か三泊連泊でないと予約を受け付けない。私はそこへ泊まることにした。
行ってみてその理由が分かった。この波止場に通じるホテルのテラスからの夕日が絶景なのである。
むろんヘミングウェイはキューバの方を好んだが、キィウエストにも瀟洒な別荘、プール付きで離れもある立派な屋敷をつくった。これはいま「ヘミングウェイ記念館」として開放されている。猫が数十匹もいる邸は観光客で昼間は一杯になる。(その猫たちはヘミングウェイが飼っていた猫の子孫だそうな)。
この町には、やはり辻辻に「ヘミングウェイ、行きつけのバー」なるものがあり、昼から、と言うより朝からバーボンをあおっている人がいる。
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キイウエストの「ヘミングウェイ記念館」
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そのうちの何軒かに私も寄り道して腰掛け、本場のバーボンをあおった。
そうそう、彼の名作「誰がために鐘は鳴る」などは、この地でかかれた由。
三島はヘミングウェイにはあまり関心がなかった。それも「暴力」「行動」「青春」というのは石原慎太郎のテーマであっても三島のそれではないからであろう。
さて、そのことはともかくとして、キィウエストを見た帰りに私はニューオーリンズで二泊したが、そのときは三島が嘗てこの町にも泊まったことがある事実をすっかり忘れていた。
夜、焼き鳥を食べさせる居酒屋にはいると、偶然にせよ隣に日本の若者が数人陣取っており、ジャズの話ばかりしていた。どうしてこの人たちは日本の歌手を知らなくてもアメリカ人歌手の名前、ジャケット、制作年月日、プロデューサーの名前などを諳んじているのか、私には彼らが宇宙人のように思われてならなかった。街はすっかり観光都市化した地区、頑固なまでに古いままの地区と、そして特色を失った新興の地区に分類され、特に後者のところへ行くといくつもの摩天楼が建っている。駅前広場はブランドものを扱うブティックがずらーりと並び、いまのこのようなニューオーリンズのたたずまいが当時の三島が訪問して情景と同じでないことは確かだろう。
フレンチクォータは、短いストリートが5,6筋あるだけで、小さなブティックやら、骨董や、ワインの年代物を揃えた酒蔵、そのまま公園を抜けると港へ繋がる。この町には派手な祭りようの衣装や、アクセサリィ、宝石商などが軒を競い合っている。港も又、観光都市らしくショッピングアーケードが続き、レストランがひしめき合い、その殷賑ふりは横浜や神戸に似ている。
時間があったので一軒の骨董屋をからかったが、何と1962年の大統領選挙のときのニクソン陣営のキャーンペーンバッジを売っていた。歴代のフォード、カーター、レーガンもある。彼らに挑戦した候補者のバッジも泡沫を含めて売っていて、いかにもお祭り騒ぎの好きなアメリカ人気質を象徴している。古い銃にまじってバッジが骨董というのもいかにも米国らしいではないか。
たまたま滞在中に休日に遭遇したので公園から港にかけて、人出の夥しさには驚かされた。
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大道芸人が辻辻にたって演技をしている
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それも大道芸人、楽団、絵描き、物売り、パントマイム。
どのレストランも満員で、私は街頭でビールを買ってひといきいれ、午後三時頃にようやく瀟洒なレストランに腰掛けた。そのレストランのインテリアはセピア色の西部劇時代のアメリカ各地のスケッチが額縁にさりげなく飾られ、木造の古い構えを強調した、なにか時代をスリップしたような不思議なデザインをしたレストランだった。
夕方近いのでようやく風がでてき、涼しくなりかけていた。私は現地のワインを頼み、それからおもむろにメニューを眺めた。(何を食べようか、と三十数年前に、あるいはその店で三島も考えたかも知れない)。
時間がのんびりと過ぎていく。
こんなに悠然とする気持ちが湧いてくるのは、ニューヨークやロスアンジェルスではまず無いことである。嗚呼、このジャズのまちにきてよかった、と私は思うのだった。
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