三島由紀夫と私

「三島由紀夫 五十年」
(この文章は『夕刊フジ』(令和二年四月二十日から二十五日)に連載されたものです)

(1)あれから50年、三島由紀夫に熱い視線

 「圧倒的熱量を体験」といううたい文句で「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」というドキュメント映画が封切られ、新型コロナウイルスの影響で映画館が閉館になる前に、かなりの観客があった。テレビもいくつかの局が三島の特別番組を組んだ。

 各地の文学館では「三島展」が開催され、いずこも盛況だったという。

 書店で売れ続ける文庫本、次々と舞台化され、映画化される三島作品群。『潮騒』も『春の雪』も何回となく、『金閣寺』はドイツでオペラ上演された。

 かくして世界でいまも著名な日本人は「ミシマ」だ。中国ですら、ほとんどの作品が翻訳された。日本留学組で大学院で三島を選ぶ「文学博士の卵」の何人かに会う機会があった。三島由紀夫研究会公開講座の常連だった。中国でも「軍国主義者」とかの負のイメージは払拭されていることは驚きである。

 事件から半世紀を経て、自衛隊に乱入して自刃という衝撃は過去の「歴史の1コマ」となり、文学者としての三島の細部の研究、あるいは三島演劇の特徴を分析する流れが脈ずく一方で、文学や芝居より政治イデオロギー重視の三島尊敬組という2つの流れが明瞭になった。後者は三島を現代の吉田松陰像と重ねる。

 三島評伝、文学論は過去半世紀に1000冊は出ただろう。英語版の嚆矢(こうし=最初)は、英紙フィナンシャル・タイムズ、同ザ・タイムズ、米紙ニューヨーク・タイムズの各東京支局長を歴任した英国人ジャーナリスト、ヘンリー・S・ストークス氏だった。私もインタビューに応じた。研究論文となるとおびただしい。

 山梨県・山中湖の「三島文学館」にある遺品や創作ノートを丹念に読み直す作業から、佐藤秀明、井上隆史両教授らの努力で、処女作が公開され、同時に未発表作品がたくさん出た。しかし、時代の趨勢(すうせい)から言えば、三島への熱狂は政治イデオロギー、文化論の方にやや勢いがある。

 第1に、平成から令和に御代が移っても、日本の自律性の回復がないこと、すなわち憲法改正が進まず、他国の干渉で靖国神社参拝がかなわず、教科書がまだ自虐的であることへのいらだちがある。

 第2に、日本人の精神が退嬰的(たいえいてき=進んで新しいことに取り組もうとする意欲に欠ける)で、ガッツ喪失、ましてや武士道精神の行方不明状況への不安が拡大し、三島への郷愁が現れている。

 第3に、経済のグローバル化より、文化の喪失への焦りが三島ブームの背景にある。三島は「断弦がある」と『文化防衛論』に書いたように万葉、古今和歌集から江戸時代の文化の高みに比べると、現代日本の文化に独自性も高尚も失われてしまったからである。

(2)三島由紀夫事件の意味

 三島由紀夫事件(1970年11月25日、楯の会隊員4人とともに自衛隊市ヶ谷駐屯地=現防衛省本省=を訪れ、東部方面総監を監禁。バルコニーで憲法改正のための決起を促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた)の第1報を聞いて、日本政府や防衛庁(当時)は、「狂ったのか」(中曽根康弘防衛庁長官)と迷惑顔だった。

 以後、学生団体の体験入隊を受け付けなくなった。防衛大学校は保守思想を持つ入学希望者を好まなくなったと聞いている。

 朝日新聞は三島を介錯後に自刃した、「楯の会」学生長、森田必勝の生首を一緒に並べ掲載したためひんしゅくを買った。多くのメディアは周章ろうばいのあと、議会制民主主義を脅かす狂信者というキャンペーンを展開した。

 ところが、巷の意見はまるで違った。

 あれほどの世界的に著名な文豪が命をかけた行動を、軽々しく論評した作家の司馬遼太郎、松本清張らへの反発も強かった。

 「見事に散った桜花」(作家・文芸評論家、林房雄)

 「精神的クーデター」(作曲家、黛敏郎)

 「事件の夜の雨は日本の神々の涙」(文芸評論家、保田輿重郎)

 「分からない、わからない、私には永遠に分からない」(評論家・翻訳家・劇作家、福田恒存)

 などと、いまも記憶が鮮明な名文句の数々。

 新聞とは異なり、雑誌は特集、別冊、増刊を出した。ほとんどが売り切れ、週刊誌は三島の特集を組めば売れると言っていた。

 私(宮崎)は三島を介錯し、自らも切腹した「楯の会」学生長の森田必勝と親しかった(=早大国防部で3年間、同じ釜の飯を食べた)ので、実家の三重県四日市市に泊まり込んで、彼の日記を整理し、遺稿集『わが思想と行動』(日新報道)を編んだ。

 これを資料として、中村彰彦『烈士と呼ばれる男―森田必勝の物語』(文春文庫)も書かれた。後者は、あの事件は森田が主導したのではないかという地下水脈をたどった労作である。

 事件直後に「三島由紀夫追悼の夕べ」が、東京・池袋の豊島公会堂で開催され、林房雄、黛敏郎らを発起人に、作詞家・作家の川内康範と、作家・評論家の藤島泰輔の司会で、多くが追悼の辞をのべた。会場に入りきれない人が1万余。交通渋滞が引き起こされた。

 1年後、東京・九段南の九段会館で「憂国忌」と銘打たれた追悼会には、近くの武道館まで2万人の列ができた。憂国忌は『歳時記』の季語としても定着し、半世紀を経た現在も命日に開催される。

 三島事件の衝撃は、師である作家、川端康成を政治に走らせ(=東京都知事選で、元警視総監の秦野章を応援)、好敵手だった作家で国会議員の石原慎太郎は改憲を掲げた「青嵐会」に馳せ参じ、論敵の評論家、吉本隆明は感動して転向した。

 直後に「老衰に過ぎない」と三島を罵倒していた文学評論家、江藤淳が二十数年後に、三島と西ク隆盛を重ねた『南洲残影』(文藝春秋)を書いて絶賛した。それほどに時代は変化していた。

(3)三島由紀夫の遺産

 三島由紀夫事件(1970年11月25日)から3カ月を過ぎたところで、三島由紀夫研究会が発足した。趣旨は、政治のみならず文学と精神を継承しようとするもので、全国から三島ファンが参集した。この研究会の中核メンバーは、日本学生同盟だった。

 毎月1回の公開講座にはおびただしい作家、文藝評論家、舞台関係者、映画監督、女優、そして文学部教授らが駆けつけ、各々が得意の分野の三島論を語った。加えて、春秋の墓参や時折のシンポジウムなどを開催、これも半世紀、着々と続いている。

 「なぜ、三島は行動に出たのか」。誰もが知りたいのだ。

 三島の最後の行動を「正気の狂気」だと、作家の林房雄は『悲しみの琴』(文藝春秋)を書いて若き日からの濃密な交際を振り返った。正気(せいき)は、過去の日本史には危機に際して忽然(こつぜん)と出現する英傑に共通する。

 三島の友人で、『金閣寺』の翻訳でも知られる英国の翻訳家で日本文学研究者のアイバン・モリスは『高貴なる敗北』(中央公論社)を綴った。その中で、日本史の悲劇の英雄はヤマトタケル、義経、楠木正成、大塩平八郎、西ク隆盛とし、最後の章に三島を加えた。もののあわれ、武士道、至誠をモチーフとして政治野心には淡泊だった人々だ。

 モリスは「日本人は古くから純粋な自己犠牲の行為、誠心ゆえの没落の姿に独特の気高さを認めてきている」とした。三島は晩年によく「日本の真姿を取り戻せ」「菊と刀で繋ぐ栄誉」と語っていた。

 二・二六事件で処刑された青年将校や、特攻隊、その前の神風連の烈士たちの霊に取り憑かれたような振る舞いが目立った。

 武士道精神を忘れて、金もうけに疾走する現代日本人には失望していた。それが財閥を殺害するテロリスト、飯沼勳を主人公とした『奔馬』であり、遺作となった『豊饒の海』全4巻は輪廻(りんね)転生の物語となる。

 私(宮崎)自身、和気清麻呂、菅原道真、明智光秀を加えて、『取り戻せ!日本の正気』(並木書房)という本を書いた。つまり日本史における三島事件の重みとは、100年に一度くらい起こる正気の爆発なのである。

 東大安田講堂に籠城した全共闘の学生たちに、三島はひそかな期待をもっていた。それは「何人が本気で死ぬのか」ということだった。

 結局、早大も東大も、講堂占拠は機動隊が導入され、新宿騒乱でも誰も死なず、過激派はやがて雲散霧消した。むしろ彼らの多くが事件後、三島由紀夫の行動に感動し、著作を読み返し、転向した。

(4)三島事件は風化するか

 三島由紀夫は生前、数々のアフォリズム(=名言や格言)を残している。中でも、「芭蕉も西鶴もいない昭和元禄」という、劣化した日本文化への的確な警句がある。

 現代日本はさしあたって、「三島も川端もいない令和元禄」。作家、大江健三郎や村上春樹の作品には、日本的な美が描かれていない。

 そのうえ、日本史の神髄を理解しないミーハーがおびただしくなって、女系天皇に賛成している。歴史と伝統の破壊につながることに、さほどの関心がない。

 明治は遠くなりにけり、どころか昭和の情緒も消えかけている。だから、大事件が起こる度に「もし三島さんが生きていたらどういう論評をするだろうか」との声があがるのだ。

 作曲家の黛敏郎が言ったように「世界は三島氏の不在で満たされている」。

 「100年後しか私は理解されない」と三島は言い残した。それを50年に縮めるために保守系が立ち上がり、「憲法改正」「北方領土の日」「教科書正常化」「拉致被害者救援活動」などの国民運動が本格化し、参加人員が増えていることでも、潮の流れの変化がつかめる。

 大手メディアに飽き足らない人たちがSNSで発信し、ユーチューブのテレビ局はあふれるほどの盛況ぶり。どうやら、時代は大きく変わろうとしているのではないか。

 三島が「改憲」「自衛力増強」を訴え、核拡散防止条約への不満をならしていた昭和40年代前半、例えば学生時代の私(宮崎)はキャンパスに立て看板とマイク。「国防の充実」を訴えていたら、女子学生から唾を吐きかけられた。ビラは目の前で破られた。

 確かに、自衛隊を税金泥棒呼ばわりする人は減ったが、北朝鮮のミサイル発射、中国の沖縄県・尖閣諸島周辺の領海侵犯には不感症である。

 「令和元禄」の貧困な文化状況は、この半世紀、三島に迫る文学作品もなければ、和歌の世界は『サラダ記念日』とかの新派に汚染され、俳壇には「第二の子規」が出ない。

 作法や着付けや順序にうるさい茶道も生け花も、伝統的な小唄、都々逸、三味線は廃れ、勇ましくも哀切な軍歌も、日本人の情緒を詠じた演歌も歌われない。やかましくて意味の分からないライブ。アニメが日本文化の本筋なのだろうかといぶかる人が多い。

 劣化した日本文化もまた、「三島の不在で満たされている」。

(5)三島由紀夫の言霊

 日本は言霊の国である。

 三島由紀夫は「葉隠」を座右の銘としていた。江戸時代の佐賀藩士、山本常朝(つねとも)が残した「武士道とは死ぬることとみつけたり」。

 三島は晩年、『葉隠入門』(新潮文庫)まで書いて世に問うた。『葉隠』は現代日本人から見れば、たいそう時代錯誤的な規範であるが、三島の辞世は、武士の道を高らかに詠った。

 「散るを厭う 世にも人にも先駈けて 散るこそ花と咲く小夜嵐」

 思想家の内村鑑三は『代表的日本人』のなかで、「甚だしい惰弱、断固たる行動に対する恐怖、明白なる正義を犠牲にした平和の愛好など、真個の武士の慨嘆に堪えない」と嘆いた。

 その典型を三島は『剣』(講談社)という作品の主人公(国分次郎)に託した。武士道の精神が衰退したと嘆き、剣の達人は忽然(こつぜん)と自刃する短編である。

 東京・町田市文学館(コトバランド)で今年初め、三島由紀夫展が開催された。最後のコーナーに「檄文(げきぶん)」のオリジナルと、事件直前まで開催されていた東京・池袋の東武デパートの三島展のカタログに混ざって、最初の「三島由紀夫氏追悼の夕べ」の案内状が飾られていた。

 この案内状、実は私(宮崎)が書いた。三島事件から半世紀、事件は風化し、三島を知る人もほとんどいなくなり、誰が保管していたのだろうと思った。半世紀ぶりに実物を見て、複雑な気持ちに襲われた。

 三島の「憂国の諌死」を義挙とすれば、歴史劇としての類似は大塩平八郎である。三島自身が随筆「革命の哲学としての陽明学」の中で、大塩に深く言及している。

 だが、思想的影響力という意味で、後世の人々に語り継がれる吉田松陰と同様な意義を三島は歴史に刻したのではないか。

 戦後の歴史教育の偏向はGHQ(連合国最高司令官総司令部)と、これに取り入った曲学阿世、左翼共産主義者が展開した。その残滓がまだ教育界に残っている。

 吉田松陰も依然として大きく誤解されている。

 しかし、松陰はもともとが兵法の研究者であり、軍国主義を煽った右翼思想家ではなかった。松陰は純粋無垢な愛国者だった。だから維新の原動力となり、それ以後の日清・日露戦争から乃木大将の自決、特攻隊へつながる。同様に現代日本に激甚な影響を残したという文脈から、三島はやはり「現代の吉田松陰」がふさわしい。

 「白い菊、捧げまつらむ 憂国忌」(作家、山岡荘八)。


表紙

2000-2020 MIYAZAKI MASAHIRO All Rights Reserved