コクトー、70才のときである。
カフェ・ドームについて脱線する。あの「失われた世代」と言われた1920年代のデカダンスが支配するパリで、ヘミングウエイは、やはりここを根城にしていた。
モンパルナス駅からカルチェラタンへいたる道々、地下鉄のヴァヴァン駅をあがると、ヴァヴァン交差点の角にある。さらにワンブロック歩くと「クロズリー・デ・リラ」がありヘミングウェイが毎朝、カフェクリームを飲んだ、という。ともにカフェとは名ばかりのバア兼レストランで、前者は生牡蠣がおいしいことでも有名。これにケチャップをかけ、ヘミングウエイはバーボンと飲んだが、果たして三島はこの店で何を食したのか?
さてコクトーである。35才の三島は結婚していたうえ、このときは夫人同伴でパリにいたので、少年時代とは違う気持ちで彼に会いに行った。やがて「茶色の外套姿の長身のコクトオが現れたときには、一種の感激を禁じ得なかった。これが永年憧れてきたコクトオその人だと思うと、後光がさしているようにみえた」とまで書いているのだから、えっ。三島さんって、ラディゲに熱狂してたんじゃないの?と思う読者もきっと大いに違いない。
そして三島は「オルフェの遺言」を見た感想をこう綴るのである。
「コクトオの見果てぬ夢と、不可能な希望とが、いたいたしいほど露わにでている。彼が序言でこれを“ストリップ・ティーズ”だと言っているのは適切すぎるほど適切である。コクトオの見果てぬ夢とは自分が自分でなくなることであり、又一方、自分が詩人であると同時に美しい半獣神でありたいという夢である(中略)それを誰がやるか?結局自分でやらねばならぬ。自分で選ばねばならぬ。コクトオ自身がコクトオであることを余儀なくえらばなければならないのだ(中略)あれほど青春を愛したコクトオが、老いさらばえた姿を初めて永永と画面に晒すこの映画」は三島にとっては「自己聖化」もしくは「自己神化の欲望に取り憑かれた」からだと解釈するのである。(昭和37年5月「芸術新潮」)。
それから僅か8年後の三島事件を「自己聖化」「自己神化」と解釈する向きには、この言葉から心理分析を割り出してゆく必要があるのではないか? ましてや相手は三島が本当に少年時代から憧れてきたジャン・コクトーなのであるからには。
三島がパリで見かけてから三年後、コクトーは74才でパリに死んだ。
彼自身「私は早くデビューしすぎた」との言葉を残した。
三島はその後、コクトー熱から醒めて、距離を置き始め、「軽金属の天使」と比喩するようになり、コクトーが死んだときの追悼文は淡々としている。「コクトオは、前衛と古典とを、完全に融合させた詩人である」(「朝日新聞」、昭和41年2月9日)。そこまで三島を冷静にしたのはパリの陰鬱たる日々か、それともこのころ三島は既に神風連にのめりこみ憂国の論理を展開していたわけだから「軽金属の天使」のことは、もはや程々でよかったのか。
三島のパリ
冒頭でも述べたように三島はパリの情景にまるで興味を持たないかのように作品の舞台にさえ選んでないのである。仏蘭西文学へのあこがれは人間の内部への省察、洞察であっても景色としての美的興味の対象にはなりにくかったのかも知れない。また天の邪鬼としての三島の性格も考慮に入れなければならないだろう。なにしろ三島が登場した日本の文壇はといえば小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、村松剛、遠藤周作、その他大勢、悉くが仏蘭西文学専攻ではないか。東大法科出身の三島としては仏蘭西語を操れない林房雄、川端康成に近親感を覚えたのも自然の帰結であると思える。その三島が仏蘭西通の黛敏郎、村松剛とのちに親交を深めるのも二律背反的ではあるが。
ところで長逗留したパリの安宿「ぼたんや」はどこにあったのか?
村松剛の「三島由紀夫の世界」によれば「十六区のアベニュー・モザール(モォツアルト)の南端あたりにあり、ブウローニュの森が近い、同じ宿に木下恵介が逗留していた。留学生として在仏中だった黛敏郎も宿の近くに住んでいて,時折、顔をみせた」(新潮文庫版228ページ)。
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