最近の問題作

宮崎正弘の最近の論文から

取材余滴
『明智光秀 五百年の孤独』取材のあとで

信長を祀る二つの神社

 山形へ所用あって行ったついでに、天童市へ出向いた。拙著『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店)の後取材の意味もあった。
 天童市は将棋の駒の生産地として有名であり、駅舎の一階が将棋会館となっていて朝から将棋をさしている愛好家がいる。町全体の印象は寂しく、うら悲しく、人通りも少なく、ひっそりとして完全な過疎の町だ。
 もうひとつ有名なのが天道温泉。十数軒の温泉宿が観光客を集めているが、蔵王や赤湯温泉ほどの華やかさはない。芭蕉の句碑が残るくらいだ。

 忘れられたスポットがもう一つある。
 全国で二つしかない織田信長を祀る神社が、この天童市の舞鶴山の中腹にあるのだ。
 参詣客は甚だ少なく、ときたま車の安全祈願に愛車を駈って祈祷に来る人くらい、社へいたる階段はかなり急で百段近くある。
 その参道の麓に建つ妙法寺は吉田大八の菩提寺である。吉田は戊辰戦争のおり奥羽鎮撫先導役を仰せつかり、東北列藩同盟と対決し、隣の庄内勢と戦ったが、二転三転し、責任をとらされて切腹した悲劇の家老。開明的で将棋駒の産業育成に努めた。
 しかし信長を祭る神社がなぜ天童に?

 わずか二万石の天童藩、じつは信長の嫡流が徳川幕府から「捨て扶持」を貰い、治めていたのである。
 信長の長男・信忠は本能寺の変で散り、次男の信孝は秀吉によって詰め腹を切らされ、三男の織田信雄は覇気のない、指導力も稀薄な武将として小牧・長久手の戦いで秀吉に最後には妥協し騙され、さんざん虚仮にされた。
家康の取りなしでようやく秀吉の噺聚に加えられ、大和に一万八千石を拝領した。この末裔が天童藩主となって明治維新まで続いた。

 二万石とは大名といえるのか、どうか。徳川の織田信長子孫の扱いの程度が分かる。
 戊辰戦争で幕府軍を敗退させた明治新政府は国家意識発揚のため忘れていた英雄を思い出した。
そういえば織田信長を祀る神社が日本にないと木戸孝允らが言い出した。

 京都船坂山に急遽、建立したのが武勳神社で、こちらの方は本格的な社殿、敷居も結構広いうえ、社は朱色に輝く。立地条件がよく、荘厳な雰囲気を醸し出している。山頂から北を見れば、大文字焼きの山稜がくっきりと見渡せる。

 同社のホームページには次の記載がある。
「建勲神社は明治二年、明治天皇の御下命により創建された織田信長公をお祀りする神社です。明治八年に別格官幣社に列せられ、京都の船岡山に社地を賜りました。明治十三年に新たに社殿を造営し、御嫡子織田信忠卿を配祀し、明治四十三年に山麓から山頂へ社殿を移建し現在に至っています。船岡山は玄武の小山として平安京造営の際に北の基点になったとされる小高い丘で、緑豊かな建勲神社の境内からは比叡山や大文字山(如意ヶ嶽)など東山三十六峰の眺望も楽しめます」。
 この京都に加えて天童に、別の武勲神社があるということになる。

 天童藩主・織田氏の祖先である織田信長を祀るに至った経緯とは次のようである。
 当初は信長の子孫、当時天童藩知藩事だった織田信敏の東京の私邸に「織田社」を祀っていた。
突如、明治新政府が画策し、明治二年に「健織田社」(たけしおりたのやしろ)の神号が下賜され、健織田社を翌明治三年に天童市の城山(舞鶴山)山頂へ分祀した。同年、健織田社は太政官の通知により「建勲社」と改称。明治十七年に山頂から中腹へ遷座。
 筆者は天童駅からかなり道に迷いながら、ようやく武勳神社を見つけ出してのぼった。
 市内に案内の看板が少なく詳しい地図が市内にないのである。

 おりから吹雪、持参した折りたたみ傘はうまく開けず、雪道を革靴でのぼる仕儀となった。小さな祠におみくじ箱は無人、左横の石碑は本居宣長が読んだ信長評価の文章が刻印されていた。
何かちぐはぐな印象を抱いた。

 長男信忠の嫡子・織田三法師について言えば、信秀と改名し、その後、岐阜を治めて岐阜中納言などと持て囃されたが、時局を読めず関ヶ原では西軍に加担した。以後は冷遇され、高野山に追放されるも信長の悪行を覚えていた高野山からも追放され、麓に住んだ。二十六歳で自刃したらしい。切支丹伴天連にかぶれ洗礼名がペテロ。織田信長の末裔たちは誰も功成り名を残せなかった。
(この文章は『月刊日本』五月号からの再録です)

waku

表紙

2000-2019 MIYAZAKI MASAHIRO All Rights Reserved