世界紀行

カザフ日本人墓地にて
カザフスタンにある日本人墓地にて

カザフスタン、キルギス取材日記

石油とガスとウランが眠る資源リッチのくに

(某月某日) カザフスタンは資源リッチ。日本はウラン確保のため、07年4月、カザフスタンへ大型使節団を送った。甘利経済産業大臣以下百名。
 カザフの国土は日本の7倍ほどあるのに対して、日本より国土面積も小さなキルギスは天山山脈に挟まれた山岳遊牧民族国家。しかし極めて親日的なところで、米軍基地の撤去問題が浮上している。
 この二つの国に行こうと思った。
 8月16日にはロシア、中国、ウズベキスタン、タジキスタンの「上海シックス」加盟国首脳に加え、トルクメニスタン、パキスタン、アフガニスタン、そしてイランの首脳がキルギスの首都ビシケクに一堂に会した。
 日本時間で午前五時頃、ソウル経由でカザフスタンのアルマトゥに着いた。日本とは夏時間を採用しているので時差は三時間しかない。韓国のアシアナ機は三時間ほど遅れた。エアバスにほぼ満席だったが、ほとんどが韓国人。ビジネスマンと親戚訪問組だろうか、荷物がやけに多い。
 隣りのウズベキスタンと同様に、カザフスタンに朝鮮族が多いのはスターリンの強制移住政策による。
 あれから八十数年を経て、朝鮮族の二世どころか、三世、四世がカザフ人として棲んでいる。大方がロシア語、カザフ語を喋れても韓国語が分からない若い世代も増えている(実際にレストランの女性、典型の韓国美人だったので「アニョハショニカ」と挨拶したら「私は韓国語判りません」と英語で答えてきた)。
 アシアナ機のクルーに一人も日本人がいない。替わりにロシア人が目立つ。20人近い、スチュワーデスが一気に乗り込むので理由を尋ねると、この便はそのままソウルへ折り返すため、半分が帰国便の交代要員。週2便、就航している由。


アルマトゥ市内中心部
アルマトゥの高級マンション
アルマトゥ市内中心部 アルマトゥの高級マンション
アルマトゥ駅のプラットフォーム
アルマトゥ市政府
アルマトゥ駅のプラットフォーム アルマトゥ市政府
アルマトゥ市内交差点(緑が多く看板が見えない)
アルマトゥ市内交差点(緑が多く看板が見えない)

(某月某日)ホテルは市内のほぼ中央、真ん前が三位一体のロシア正教会が燦然と尖塔を光らせて、周囲の森を睥睨している。なかなか綺麗な教会で中へ入ると、随分と人出がある。
 アルマトゥは濃い緑が映える、美しい町である。
 砂漠のオアシス都市でも、これほど緑が深くてきれいな都市は珍しいのではないか。アルマトゥと並ぶのはキエフと、ウズベキスタンの首都タシケントくらいだという。
 新彊ウィグル自治区の省都・ウルムチは漢族で溢れ、緑が失われている。ティムール帝国の都だったサマルカンドは緑が少ない(ウイグル族とティムールは無関係だが、たまたま現在の国土が嘗てのティムールの中心であったことを自慢したいらしい)。
 さてカザフスタン。91年の独立当時、アルマトゥはアルマトイと呼ばれ、ここがカザフスタンの首都だった。
 92年の夏だったか、独立したばかりのカザフに立ち寄ったことを思い出した。英語の新聞が売られ、欧米の石油関係のビジネスマンの姿が目立った。
 国語教育をやりなおし、できればカザフスタン語をキリル文字からアルファベットに直したい、などと親西側の姿勢が印象的だった。
 あれから十六年経った。
 ロシア語が依然として闊歩し、カザフ語の新聞もキリル文字。英語の新聞はと言えば、週刊のぺらぺらな新聞が僅か一誌。それも3ドルもするのがひとつあった。首都はモスクワ寄りのアスタナへ遷都していた。
 意外である。石油、ガスで国力が豊かになった半面、この国はやはりロシアから乳離れができていないではないか。道路標識や町の地図にも英語は殆ど無い。
 いや70年以上ものロシアの支配の長さのなかで、歴史意識とメンタリティはすっかりロシアの洗脳を受けてしまったのか。共産主義独裁の残滓が生活文化の隅々にまだ残っているようだ。
 ガイド役に現れたのはロシア人女性で、小柄で肥った人、高校生の子どもがいるという。本職は高等学校の英語の先生。ガイドは夏休みのアルバイトです、という。
 日本語はまったく喋らない。替わりに流暢な英語、ボキャブラリィも豊富で、ユーモアも分かる人のようだ。
 彼女の案内で、郊外にある日本人墓地へ真っ先に行った。
 シベリアへ抑留され、酷使され、そこで数千人が日本の土地を踏むことなく無念の死をとげた。
 入り口で花売りの老婆からバケツ三杯ほどの花束を買って、墓地の案内人をたのみ、奥へ奥へと中央墓地のかなり行ったところに日本人墓地があった。入り口から二十分ほど歩いたが、これは案内を頼まないと判らない場所である。
 花を捧げ、無念の兵士たちに冥福を祈った。
 さてカザフスタンで興味の第一は、チャイナタウンに行くことである。
 アルマトゥに進出した中国人の存在ぶりを目撃しておきたい、というと「チャイナ・レストランなら、カザフスタンにも山のようにあるけど、中国人が固まっている場所なんてないわよ。カザフスタンは韓国の製品が溢れ、ロシア人が人口の二割いるけど、中国人の存在感って、稀薄よ」。
 過剰だったのか、この言葉で小生の期待はいささか破砕されてしまった。

カザフスタン国防省
カザフのロシア正教会
カザフスタン国防省 カザフのロシア正教会
ロシア人の結婚式
結婚式のリムジン
ロシア人の結婚式 結婚式のリムジン
カザフの日本人墓地
カザフの日本人墓地

カザフとキルギスの国境管理所は掘っ建て小屋だった

(某月某日) バスでキルギスへ向かう。
 カザフからキルギスの国境はお粗末。掘っ建て小屋だった。
 キルギスは日本人に対してヴィザを免除しているため入国管理事務所では、パスポート審査が長い。写真を念入りに確認するが、それだけで、あとは難しいことを言われるわけでもなく、キルギスへ入国すると目がつくのは西瓜、メロン、杏子。工業製品はない。
 まずは首都のビジケクを素通りして、古都トクマクを経由、いきなりイシククル湖の北岸を西から東へ四時間ほど突っ走った。
 行き交うクルマはドイツ製が多く、ベンツ、BMW、ワーゲン。ついでトヨタ、ホンダ、日産に三菱(四輪駆動)が目立った。バスは圧倒的に韓国勢だ。
 イシククル湖は琵琶湖の九倍もある。
 澄明で湖面には天山山脈の雪の高峰が映える。
 空気も綺麗で、率直に言って夏休みをスイスあたりで過ごす人は、ここのリゾートの方がいいんじゃありませんか?
 さてキルギスはカザフスタンの保護領で、カザフの紙幣が使えるかと踏んでいたが、トンでもない。独自通貨だ。
 ただし至る所で両替所があり、交換レートの良さから順番にいうと、ドル、ユーロ、そして、ロシアのルーブル。次ぎがカザフの貨幣、その次が中国の人民元。日本円? 両替不能です。
 宿泊したホテルのレストランで「キルギスのワインは?」と聞いたがなし。替わりにロシアのウォッカがあった。


これがカザフ・キルギス国境(歩いて渡る)
キルギス兵隊閲兵交替
これがカザフ・キルギス国境(歩いて渡る) キルギス兵隊閲兵交替
果物市場(キルギス)
イシククル湖湖畔の街角
果物市場(キルギス) イシククル湖湖畔の街角
渓谷の騎馬(カラコル郊外)
キルギスのお金
渓谷の騎馬(カラコル郊外) キルギスのお金

(某月某日)キルギスの東端、イシククル湖の奥地に開けるカラコルという町(人口六万強)にはいる。
 ここに十九世紀末から中国を追われて逃げ込んだドンガン族(中国系イスラム教徒)が多数棲んでいる。
 ドンガン族特有のモスクも三ヶ所にあるというので、それを見たかった。
 「ドンガンモスク」は、小ぶりの寺で、屋根に龍の彫刻。
 地元の人達に「中国は怖いか」と聞くと「キタイ。好きじゃないな」という返事だった。キタイとはロシア語で中国の意味である。オロシアという中国も通じない。そもそも、ドンガン族はいまや中国語を喋れない。
 蛇足ながら、本来「キタイ」というのは中国の「正史」によれば「遼」とか「契丹」と呼ばれる。漢族とはまったく無関係でモンゴル帝国の原型を作った。耶律阿保機が主導した一大帝国だ。
 カラコルからさらに四輪駆動を駆って海抜2500メートルほどだろうか、中国国境へ向かった。天山山脈の最高峰「勝利峰」の登山口でも有名な場所である。
 途中で遊牧民のユルタ(モンゴルで「ゲル」、中国語は「パオ」。現地では「ユルタ」)で食事。例の馬乳酒を振る舞われるが、小生は遠慮した。澄明な小川の水で全ての生活用水をまかない、薪を竃にくべて料理している。
 独特の山高帽(キルギス帽)、駒場らしく馬が縦横に駆け、羊がのんびりと草をはむ。
 のどかで、原始的な遊牧民の生活。かれらにも「キタイはどうかね?」と聞くと、イヤな顔を見せた。
 そうか、ここは中ソ対立のときに、巨大なソ連軍が駐屯していた現場なのだ。
 バザールではキルギス族、カザフ族、ウクライナ族、ウズベク族に混じって中国系「ドンガン族」も積極的な物売りをしている。
 売られているのは西瓜、メロン、杏子ほか農作物、果物。屋台にはナン(竃でやくパン)。アイスクリームやビールの冷蔵庫は中国製が圧倒的である。
 中国製の海賊版ヴィデオ、DVD、それからカセットテープも売られていて、ちょっと時代の流行の遅れを感じさせる。
 (こんな世界の果てまで著作権査察団はこないだろうけれど)。
 バイクが少ない町で、ロシア人はなぜかほとんどがクルマに乗っている。60年代の「ラダ」がやけに目立つ町だ。
 しかし、これほどの他民族が共生できる? 色々な物語、それも艱難辛苦の歴史があったに違いない。
 ユーゴスラビアは「連邦」による統一という擬制の政治体制が、チトーの死去と共産主義の崩壊ではずれると、忽ち血みどろの内戦となり、民族、宗教が入り乱れて六つの国に別れた。
 スロベニア、クロアチア、ボスニア、セルビア、マケドニア、モンテネグロ。それでも足りずにコソボをめぐって内紛が続いた。
 カフカスの南ではスーフィズムのチェチェンが叛乱を起こし、アゼルバイジャンとアルメニアが戦争を始め、モルドバも内戦寸前となった。
 (中国がソ連型の崩壊をするとすれば、チベット、蒙古、ウィグルはまずこうなるだろう)。
 それなのに中央アジアのイスラム五カ国は、ソ連崩壊後、ソ連が引いた人工的な国境を遵守し、タジキスタンを除いて内戦過程を経過しないで、「独立」し、他民族が多宗教とともに共存できるのか?
 歴史的に堆積された恨みが消えたのか?
 紀元前、これらの砂漠の地にはきょうど、突厥、スキタイが来て、ソグドが来て、ペルシア、チンギスハーン、チムール。そしてソ連。戦争が絶えなかった。中央アジアの砂漠を幾多の、荒々しい王朝が通過した。
 キルギスには主力のロシア正教会、モスクのほかにカソリック、プロテスタント(ドイツ系がいる)、シナゴーグ(スターリンの強制隔離政策でユダヤ人の村もある)に仏教徒もすこし残る。
 ドイツ系がとびぬけて良い商売をしている、と聞いた。


ドンガン・モスク(カラコル)
ドンガン族の少年達(北京語が分からなかった)
ドンガン・モスク(カラコル) ドンガン族の少年達(北京語が分からなかった)
あの山の向こうが「キタイ」
キルギスの奥地での食事
あの山の向こうが「キタイ」 キルギスの奥地での食事
マナス空港は人影もまばら
マナス空港は人影もまばら

(某月某日) 首都のビジケクでは真っ先にマナス国際空港へ向かった。米軍の駐屯を確認するためである。米軍空軍もしくは海兵隊が2000人駐留している(「マナス」は、キルギス神話にでてくる英雄。ヤマトタケルに相当する。多くの口承伝説があり、オデッセイより長い)。
 ビシケクの東30キロのカントという町にはロシア軍が駐屯している。バランスを奇妙にとっているか、政治的配慮か。どうか。
 地元の人は率直に言って「米軍は帰れ」というメンタリティであり、「え。日本に米軍が五万もいる? 日本って独立国じゃないんだっけ」と質問された。
 キルギスは電話事情が悪い。ホテルから日本へ電話をすると、60秒で7ドルも取られる。ちなみに国内は24セント、CIS加盟国は1ドル、トルコが3ドル。ほかの国はすべて7ドル。
 携帯電話は、ようやく普及がはじまったばかりで、デパートで驚いたのは、旧式モデルばかりが並んで、飛ぶように売れている。
 そういえばキルギス唯一のデパートはソ連型。ざっと商品をみたが、十年前の中国の地方都市と同じで流行が十年以上後れている。キルギスでは消費経済が、いま始まったという印象を受ける。
 歴史博物館は軍事記念館と旧フルンゼ博物館を改造した二つがある。
 前者のなかに入って驚いた。レーニン礼賛の博物館ではないか!
 中国だって毛沢東像がすこしは減ってきているのに、この時代錯誤!
 ビシケクはソ連時代「フルンゼ」と呼ばれた。フルンゼとはロシアの将軍の名前である。さすがに、その屈辱だけは首都の名前からはずしたが、精神的残滓を克服できていないかのようだ。
 それともキルギス人は「羊のように大人しく、忍耐強い」のか。
 一方で、繁華街の公園のわけにはハイヤットホテルがある。なかで食事をしたが、昼のランチが1500円ほどした。西側のホテルマンのサービスが心地よかった。
 夕方、宿泊したアルケメというホテルへ戻り、プールで泳いだ。


カラコルの木造教会
ビシュケクでみた美女姉妹
カラコルの木造教会 ビシュケクでみた美女姉妹
ビシュケク大統領官邸前の広場(チューリプ革命現場)
陽気に歌う市民(ビシュケクの中華料理店)
ビシュケク大統領官邸前の広場(チューリプ革命現場) 陽気に歌う市民(ビシュケクの中華料理店)

(某月某日)ビジケクから東へ60キロの古都トクマク郊外には古い王朝の残骸が残っている。
 三蔵法師がたちよって滞在したというアク・ベシム宮殿の址が掘り返されている。ロシア人の考古学者が、「え、日本からきたのか」と珍しがって近づいてき、掘り出したばかりのコインを見せてくれた。青光りする小さな銭だが、「明銭か、宋銭か?」と問うと、「ニュエット。トンだ」と答えた。
 (唐の時代、三蔵法師が運んだの?)
 ところで最近の考古学は、このアク・ベシム宮殿は唐王朝の「砕葉城」(スィアーブ)だろう、と推定しているそうな。
 もう一つが「ブラナの塔」と言われるカラハーン王朝の都の址、遺跡の草原にはミナレットが残り、ユーラシア系遊牧民の「石人」といわれるユーモラスな石像が乱立する。原っぱに宮殿址地が、こんもりと草の台地を形成し、そのちょっと先にすこし傾いた煉瓦の塔がある。
 これがブラナの塔である。十世紀から十三世紀にさかえたカラハーン王朝のバラサグンという首都の痕跡らしい。駱駝の隊商が、ここを通っていったのは、つい昨日のような錯覚が風景のなかで錯綜した。
 シルクロードの旅情が忽然と湧いてきた。山の方から雨雲が拡がり、驟雨の見舞われた。

豪雨、タクシー不在だが、ブランド品のアーケードがある不思議な町

(某月某日)再びバスで二時間揺られ、国境を越えて、さらに三時間。カザフスタンのアルマトゥ市内に戻った。合計270キロ。
 ふたたび国境の検問を通過した。カザフへの入国はやや厳しい。労働者不足になやむカザフへ不法就労がめだつからといわれる。
 連日の驟雨。とうとうアルマトゥは豪雨になる。
 乾期にも連日のように雨が降るというのは中央アジアも異常気象に見舞われている由だった。
 この町は、ところでタクシーがまるで見つからない。市民は白タク利用である。この点は、ウランバートルに似ている。交通渋滞はウランバートルのほうがひどいが。。。
 ともかくタクシーが捕まらないので、歩いて中国大使館へ向かう。首都移転に伴い、表向きは領事館だが、これも緑深い場所にあった。
 しかも通りに面していないのだ。
 周辺に中華料理店が軒を競い、辻に洒落たカフェ。歩道に飛び出したテラス。ここだけは客が中国人だらけである。
 なるほど、中国は世界中で派手なプリセンスを示すのに、なぜかキルギスとカザフスタンででは、こじんまりと弱々しく存在感をしめるのか、理由がわかった。
 これらは「ソ連」のメンタリティが色濃く残り、名状しがたい反中感情が強いところであり、おとなしく暫く振る舞おうというわけなのだろう。
 古い鉄道駅まで一時間ほどぶらぶら歩き、駅構内にはいると、これも二十年まえのソビエト時代とかわらない風景である。
 わずかにキオスクで売られる商品に童話や、ジュースが増えていたくらいか。
 つぎにバザールを冷やかそうと歩いていたら近代的なショッピングモール街にぶつかる。グッチ、バリー、クリスチャンデイオール、ビュトンの名店街に最新の商品が並ぶ。
 資源リッチのカザフスタンの財閥、成金は、こうした贅沢品の市場もつくった。そういえば結婚式につかうベンツのリムジン、十メートル近い。派手派手しい結婚式のスタイルは欧米から、真っ先に中国へ伝えられたが、いやはや、中央アジアのイスラム圏でも、このようなスノビズムが共通であることに、一抹の落胆を覚えた。
 帰りがけ、日本大使館のそば、楽器博物館のとなりにこじんまりとした日本料理の看板がでていた。「日本人は、アルマトゥにほとんどいませんが、エキゾチックな趣きがあって、日本料理をたべにくる金持ちがおおいのよ」。
 とロシア人ガイドが教えてくれた。
 カザフ娘は金髪にヘアを染めており、朝鮮族の娘は韓国語が喋れなかった。文化の紊乱が進んでいる側面を垣間見た。


唐の銭を見せる考古学者(キルギス)
唐の銭を見せる考古学者(キルギス)
ブラナの塔のなかに立つ石人群
ブラナの塔の入り口
ブラナの塔のなかに立つ石人群 ブラナの塔の入り口
仏教遺跡発掘現場(キルギス)
教会前で老女ら(アルマトゥ)
仏教遺跡発掘現場(キルギス) 教会前で老女ら(アルマトゥ)
和やかな昼飯(アルマトゥ市内)
和やかな昼飯(アルマトゥ市内)

中央アジア、取材旅行記余話

産業の近代化から取り残された山岳国家キルギスの悲哀

 キルギスには優秀な学生が有り余っている。
   大学が多いのに肝心の就職先がないからだ。首都のビシケクだけで十七の大学があり、いくつかの学校では日本語を教えている。キャンパスは緑豊かで敷地も広く、学生はのんびりしているかに見える。
 日本にきたこともない若者が、真剣に日本語を学ぶから上達のスピードが速い。
 ちょうど80年代の中国からの留学生がハングリー精神に溢れ、またたくまに日本語をマスターしたようなもの。このときの学生のなかから莫邦冨や、石平らが輩出した。
 学生数はビジケクだけで、おそらく三万人以上はいるだろう、と推定される。
 ところが、大学教授の月給が100ドル、助教授、講師は50ドル。これでは家庭を養えないので、大学教授は八割前後が女性なのだ。
 したがって学生は卒業するとキルギスから出国し、石油・ガス景気に沸くカザフスタンへ行ってエンジニアになるか、遠くモスクワへ。或いは一部はヨーロッパ諸国へ出稼ぎにでてしまう。
 せっかくの素養も技術も祖国には活かす場所が稀少だからだ。
 雇用が滅法すくないため大学卒のエリートでもタクシーの運転手をしているケースが多いわけである。
 偶然乗った運転手は、英語がパーフェクトで「ロシア語も喋れるけど、日本語もすこしね」と日本語で言ったのには驚いた。
 この人物は「日本で防衛大臣が失言してやめただろ」と久間大臣の失言に関して質問してきた。
 どうしてそんなことまで知っているのか。情報通でもあるようだ。

知識と経済とがなぜ結び付かないのか?

 また大学制度が完備しており、学費がやすいため、近隣諸国から留学にキルギスへやってくるという矛盾した現象がおきている。英語の普及も意外と進んでおり、大学生は母国語、ロシア語のほかに、大概が英語をあやつる。
 そして子沢山を自慢した遊牧民の風習は消え、小子化が起きている。ロシア人家庭は大方が一人っ子だ。
 キルギスの憲法は「大統領立候補資格者はキルギス語を喋ること」となっており、これはロシア人を政治舞台から排斥するための措置(カザフ、ウズベクも同様)。
 文化歴史館で偶然みたのは、シャーマニズムの残存だった。
 高嶺へ登ると遊牧民の居住区では、木々におみくじに似た布を巻き付ける。シャーマニズムが、依然として遊牧の民からは深く信仰されており、考えてみればイスラムは、この現地シャーマニズムに被さって、独特の“キルギス型イスラム”をはぐくんだ。
   現地の“てるてる坊主”は、まったく日本と同じモノだった。
 ちょうとイランやアゼルバイジャンで、拝火教(ゾロアスター)の伝統の飢えにイスラムの教えが被さったように。


西瓜を売るドンガン族(カラコル)
リムジンに乗り込む花嫁花婿
西瓜を売るドンガン族(カラコル) リムジンに乗り込む花嫁花婿
カザフのカネには肖像なし
白タクを待つカザフの人々
カザフのカネには肖像なし 白タクを待つカザフの人々
カザフのショーガール
カザフのショーガール

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