世界紀行

ミャンマー紀行

バガンのパゴダ寝釈迦前で筆者(バガン)
バガンのパゴダ/寝釈迦前で筆者(バガン)


(某月某日) ミャンマーへ日本から直航便はない。バンコックかシンガポール経由、あるいはペナンから第二の都市マンダレーへ入るという手がある。
 当方は初めての国だから、夕方のJALで飛んで前泊はバンコックにした。
ミャンマーはビザ取得も難しく、写真も三枚が必要。当初、自分で撮影したものを提出したらはねられた。仕方なく写真館へ行って撮影し直し、ようやくパス。某新聞社の友人はビザを申請したらやんわり断られてしまったという。

 さて出発前まで、じつはガイドブックを読む時間もなかった。
 詳しい知識、最新情報は白紙に近い。というのもJR車内、空港の待合室、JALの機内と合計六時間ほどのあいだ、何をしたかというと、持参した新刊のゲラ校正をえんえんと続けたのだった。隣に座った日本人カップルは「へんな叔父さん」という視線を向けてきたが無視。着陸寸前にようやく256ページ全部を校正終了。ウィスキーを一杯。

 バンコックのホテルへは空港から30分。午前一時半だが、まだスーパーも食堂もやっている。ネオンがきらめき不夜城の様相だ。二年ぶりのバンコックだが、車の渋滞は相も変わらず、だが町並みが綺麗になり高層マンションが増えた。
 経済発展は中国に劣らずタイも凄まじい勢いにある。

 33年前、タイに初めてやってきたとき、女性はサンダル履きか、素足、粗末な装いだった。
 いまや、資生堂、カネボウで武装している。


バガンの寝釈迦全景 バンコックの繁栄
バガンの寝釈迦全景 バンコックの繁栄
ヤンゴン国際空港 漆工房の男(金箔塗り)
ヤンゴン国際空港 漆工房の男(金箔塗り)
日焼け止めを塗る女
日焼け止めを塗る女

(某月某日) 早朝にホテルで食事を摂って、そのまま飛行場へ。午前11時発のバッコック・エアウェイに搭乗した。新興の飛行機会社だ。
 機内サービスはなかなか。軽食もでた。一時間20分で到着。

 ヤンゴン国際空港は、どう表現すれば良いのか。ともかく辺鄙な田舎の飛行場という風景である。
 入国管理ロビィも荷物のベルトもお粗末。外へでると風が熱い。湿度が低いので不快感はないが、ともかくヤンゴンは猛暑である。
 長いスカート(「ロンジー」という)を腰にまいたミャンマー独特の民族衣装の地元民が、空港ロビィに屯している。警官など係官だけはズボンだ。

 連日四十度近いが早朝にスコールがあったという。意外にもヤンゴンの都心部はクルマの洪水、なかでもおんぼろ中型トラックを改良した通勤バスが目立つ。
 市内は緑が豊か、信号が滅多にない。
 しかもヤンゴンには人口が550萬人もいるというのに、町はゴミゴミしていない。町のど真ん中に湖がふたつもあり、市内にはゴルフコースも五つもあるというではないか。
 しかも湖のほとりに浮かぶ水上レストランは連日満員の盛況。
 (ずいぶんイメージと違うなぁ)

 広大な面積にせいぜい二階建てか三階建ての建物が並ぶわけだから、町の広さは東京の数倍はあるかもしれない。
 ロスアンジェルスのような印象を受けた。
 うだるような暑さでも通勤バスは早朝からすし詰め、屋根にも若い男らが乗っている。(バンコックでは都心部に地下鉄が開通して、むしろ渋滞が緩和されたのに)。
 もちろん、僧侶の姿が目立つが若い男、こどもが多い。僧侶はバスも観光施設の入場料も無料。


(某月某日) ミャンマーの通貨単位はチャットという。
 西側から見れば紙くず同然の紙幣だが、公式レートは一ドル400チャット。以前、外国人は入国に際して200米ドルの両替が義務つけられていたのだが、筆者がついたときは両替処に寄りつく人もなく、うるさいことは要求されなかった。
 聞けば、闇市場では一ドルが1000チャット、ホテルのフロントでも1ドルが950チャットで交換してくれる。

 しかし政府の為替政策は朝令暮改、要するにデタラメなためミャンマーでの買い物はどこでもドルを歓迎。
 この話は前から聞いていたので細かいドルをたくさん持参した。トラベラーズ・チェックは使えないとも言うので、現金だけである。

 最初の目的地はモン族の築城したバゴーという町である。ここが『ビルマの竪琴』の舞台だ。
 ヤンゴンからバスで二時間ちかくかかった。
 チャイブーン四面仏という有名なパゴダもあるが、一番興味があるのは巨大な寝釈迦像。シェタリャウン寺院にある。ミャンマーのような敬虔な仏教徒のくにでは、あらゆる寺院には素足で歩かなければならない。

 この寝釈迦は全長60メートル近く高さも16メートルはあるという。
 タイ、ビルマ、カンボジアそして中国にも寝釈迦像があり、そのうちの何体かをみたことがあるが、これほど巨大な寝釈迦は初めて。お釈迦様の顔がやさしい。
 裏へ廻ると仏足にミャンマー独特の八曜日カレンダーが掘り籠められ、さらに金箔が調密に塗り込められているので、輝くほどだ。

 こうした伝統的宗教儀式と日常生活が融合したくに、ある意味で羨ましい。精神生活は、おそらく日本人より豊かであろうから。


(某月某日) ヤンゴンからバガンへ向かう。飛行機で80分かかる。
 バガンは昔の王都で、イラワジ川のほとりに古色蒼然と往時を偲ぶことができる。
 ヤンゴンの都心部では、すでに数年前からマンションから高層ビルまでをカネをもった華僑が進出して買い占め、中国同様に新興ビジネスの広告業が盛んである。これも意外だった。
 看板でビルマ語と漢字が併用されている店やビルは華僑系列とすぐにわかる。それほどチャイナの存在が顕著である。

 華僑の商業独占を心良しとしない「ミャンマー・ナショナリズム」が確かにあがっている。
 しかしおとなしい国民性を反映してか、巨大な国民の声というわけでもなく、批判の目は法の網をかいくぐって太るばかりの一部の金持ち、その背後にいる軍部に向けられている。
 (政策の貧しさで政府に向けられる不信は往々にして爆発力をともなう)。

 欧米はスーチー女史ばかりに肩入れして経済制裁を実施したためにペプシコーラは98年にせっかく作った工場を閉鎖した。いまではコカコーラのほうが、よく売れている印象。またハイネッケン・ビールも一時は輸入禁止となった。スーパーには売っていない。
 ところが制裁に一番厳しい米国のバドワイザー・ビールはちゃんと売っている。
 欧米系のクレジット・カードは華僑の店以外では使えない。日本円はまるで通じない。これらも金融制裁の末端における悪影響だろう。

 しかし庶民レベルでは日本製への神話が残っており、とくに電化製品は東芝(TOZHIBAという偽ブランドも横溢)、オーディオはSONYに人気が集中している。停電が多いので冷蔵庫の普及率は悪いそうな。
 脱線だがミャンマーの民族構成は主体がビルマ族、これにカチン族、カレン族、チン族、シャン族、モン族がいる。民族は混淆せず、それぞれがかたまって集落を形成、だから部族間の啀み合いが静かに続いている。


アーナンダ寺にて筆者
アーナンダ寺にて筆者
アーナンダ寺院入り口
アーナンダ寺院入り口
バガンのバザール(香辛料)
バガンのバザール(香辛料)
バザールの魚屋
バザールの魚屋
敬虔な祈り
敬虔な祈り

(某月某日) ヤンゴンから北へ航空機で80分、バガンはモン族の王朝が栄えたところで、やたらとパゴダが建っている。文字通りバゴダだらけだ。
 パゴダとは仏教寺院、とくに仏塔、仏舎利を意味する。

 ミャンマーの地図を開くと、バガンは、ちょうど真ん中あたり、マンダレーのすぐ西に位置する。
 この町は人口が3万人から乾燥季に五万人に膨らむと言うが、要するに観光だけで食べている町、パゴダ、パゴダ、パゴダ。。。。

 辻ごとにパゴダがにょきにょきと建っている。もっともミャンマーは現在、人口が5500万人に対して、パゴダは全土に一億一千カ所もある。ひとりあたり二カ所のバゴダを守らなければならない計算だ。
 中世の日本でも神社仏閣はこれほどなかっただろう。筆者の生まれ故郷である金沢にも「寺町」があって百以上もの寺院がごろごろと並ぶが、その程度ではない。辻々がパゴダという感じである。

 しかもパゴダを保守管理運営しているのは、すべて民間の寄付金である。
 国家予算は一円も付いていない。中世から近世にかけての寺領のようなものである。となればミャンマーにおける政治行政の空間は、近代政治学で解析不能ではないのか。

 一方、パゴダの町もクルマは99%が日本からの中古車、ミャンマーの各空港内のリムジンバスも都バスの中古、観光バスは会津交通、西武、箱根登山バスやら遠州バスまであって「とまるまで立ち上がらないでください」「走行中、席の移動はしないでください」「降車の際はこのボタンを」と日本語の表示がそのまま。思わずニヤリとなる。

 前日に見たバゴーでも、いくつかの有名なパゴダを見学したが、西洋人観光客はこの地に何泊かして、自転車を借りて克明に見て回っている。フランス人が多い。日本人のバックパッカーもすこしはいるようだ。

 筆者がみたかったのは「アーナンダ寺院」である。
 この洞窟のかたちをした寺院の四面仏像は立像であり、それぞれの風貌は微妙に異なるが、信者が長年に亘って、その仏像に金箔を張り付けた。闇の中に輝く魅力、魔力、いやこれこそが仏力かも。

 イラワジ川はアジアで五番目に大きい。
 乾燥期だったが、水量が豊かである。ボロ船を雇ってイラワジ川に浮かべ、おりから沈みゆく夕日をみた。
 遙か向こうに山の稜線が霞み、そのまだ向こうがインパールだ。
 嗚呼、わが帝国陸軍は、この地で20萬余が生命をおとしたのだ。
 日本の奮闘によってビルマはイギリスの植民地支配を脱した。そのことをこの国の歴史教育では教えている。
 中国とはまるで違う。ちゃんと日本の貢献をおそわっているからミャンマーの国民は篤実なほどに親日的なのである(もっともヤンゴンの軍事博物館の展示には日本の侵略と説明されている由だが)。イラワジ川の船上からインパールの方向へむかって合掌した。


(某月某日) バガンからマンダレーまで飛行機はたったの20分。
 窓から見た大地は茶褐色、凸凹が多く、耕作のあとさえない。農業が近代化できないのは、河川の氾濫、洪水との闘いによるのであろうか。
 雨期には洪水、乾期には川の中州も干しあがる。住民は掘建て小屋に住むが、水で流されてもすぐに“新築”するたくましさを持っている。そういえばミャンマーはチーク材と大理石の本場だ。

 商都のマンダレーは人口640萬人、ヤンゴンより人口稠密な大都会である。このため市内から44キロも離れたところに新空港を建設した。
 マンダレー空港の滑走路、じつに4000メートル。ジャンボ機の乗り入れも可能。それなのに国際線で乗り入れているのはシンガポール、インドネシア、タイなど数社に過ぎず、ジャンボ用のブリッジは手持ちぶさた、出入国検査場もガラーンとしている。

 国内線は小型のプロペラジェットで68人乗りだった。定期便以外に客があると臨時便をいつでも出すが、逆に客がすくないとフライト・キャンセルになる。
 バガンーマンダレー間をもしバスで行くと、十四時間ほどかかるという。
 平野ではあっても深い渓谷と、幾本もの川が交通の利便性を削いでいるからだ。

 ともかく新空港は「利用客が少数で、じつにもったいない話だ」とガイドが言ったが、これはマンダレーという、ちょうどミャンマーのど真ん中に位置する大都会の、商人達の戦略ではないのか、或いは将来の遷都をみすえてのことではないか、と筆者はいぶかった。
 というのも待合室でスーツケース、ズボンの人達はローレックスの金時計、明らかに華僑である。華僑は最近、随分と雲南省あたりからミャンマーへ流れ込み、商業地を買いあさっている。

 新築のホテルや商店は華僑系が多いというので「台湾系も?」と聞くと、「台湾系は蒋介石との過去のいざこざがあり、国民党残党はタイ国境へ去って、ゲリラを指導したりしたため、ミャンマーと台湾は外交的に仲が悪い、したがって台湾華僑は滅多にいない」と答えた。

 マンダレーでは大半が自転車通勤である。
 旧空港(市内にある)近くには工業団地が造成されている。通勤時間も自転車を漕いで、あの猛暑、炎天下を一時間以上が常識という。凄まじい汗をかくのに、すし詰めバスよりはマシという。まさに中国の地方都市の出勤風景と同じである。
 というわけでマンダレー空港から市内までバスで一時間もかかった。


バザールの米屋
バザールの米屋
マンダレーの釈迦立像
マンダレーの釈迦立像
マンダレー国際空港ののどか
マンダレー国際空港ののどか
ミャンマーの子供達
ミャンマーの子供達
掘建小屋
掘建小屋
寝釈迦の足の裏(バガン)
寝釈迦の足の裏(バガン)
僧侶
僧侶

 途中の光景はといえば、のどかな農村風景がひろがり、水牛、山羊。運搬はロバ。マンゴーの樹が庭先に実り、獲れすぎるため、漬け物にもなる(これは旨かった)。
 緑が多く、共同井戸、溜め池。ここには古き良き農村共同体が息づいている。
 庶民は藁葺きの高床式の掘建小屋に住み、テレビなんぞあるわけがない。
外国人を見たことのない農村の子供達は恥ずかしがり屋、それでいて人なつっこく、物売りもまったく摺れていない。

 トタン屋根の家が付近では金持ちと見なされ、平野部でとうもこし、綿、ゴマの栽培、丘陵部では焼き畑農業が主である。だがバングラデシュやネパールほどの貧困でもないのである。
(この純朴な農村コミュニティは、しかしながら何時まで持つか?)

 日本の高度成長は、田舎から大量の若者を都会部へと送り込んで工業社会を実現した。同時に農耕社会の伝統は希釈され、都会にでた若者が持ち帰る欧米流文化、ファッション、流行、物質のまぶしさに憧れて、田舎の価値観も壊れ、射幸心がとめどなく拡大した。
 古き良き時代の日本の伝統は年々歳々、工業化の進展とともに掻き消えた。
   現在のミャンマー軍事政権は、安全保障の専門家ではあっても市場経済に疎く、理論などそっちのけで経済政策をときおり無謀に変更する。中国系華僑は、その軍部へ深く食い込んでいる。

 マンダレーでは旧ノボテルに泊まった。庭園が広く、王宮跡に近いのに物静か、ホテルの周辺には物乞いも物売りも居ない。これはインドとまるで違う雰囲気だ。
 このミャンマー的な静謐さ、この物質文明にまだ毒されていない宗教社会はいつまで持つのか。華僑の乱入と商業的拡大はいずれミャンマーの伝統的価値観をわるい方向へ変革させてしまうのではないのか。

 夜、眠らないままホテルのバアでカクテルを飲んだ。喧噪な音楽、舞台の歌手は西洋と日本の歌を歌っていた。
 ああ竹山道雄の描いた、あの静寂な「ビルマの竪琴」よ、いずこ。


(某月某日) ヤンゴンに戻った。
 ホテルの売店にはウォールストリート・ジャーナル、ヘラルド・トリビューンなどの英字紙も売っているが、暑さに疲れて買おうという気が起こらない。
(情報?このくにでは金融情勢も国際情報もたくさんだ!)

 中国がミャンマーへ大々的に進出し、横暴を極めていることは書いた。とくに製造、物流面で華僑の進出がめざましい。
 ヤンゴンのチャイナ・タウンにすぐさま足を延ばしたが、ショーウィンドーには世界の一流品が並び、アーケード街は殷賑を極めていた。そのわりに物乞いが少ない。
 中華料理のレストランがそこら中にある。縫製工場も宝石加工も華僑経営が多い。驚きなのは中国語が通じることである。

 ちなみに宝石はミャンマーの国益にかかわる重要産業だから税務監査がきびしく、翡翠、ルビー、サファイアなど、わずか数十ドルの買い物でも逐一領収書が発行される。税金は売り上げの一割。
 ざっとアーケードを見たが、華僑系が繊維、貴金属をほぼ独占し、雑貨、工芸などがビルマ族ではないか、と観察できた。

 経済問題は深刻である。日本の1・5倍の国土面積に日本の半分の人口しか居ない。人口密度はしたがって日本の三分の一、どこへいっても水牛と大地。
 工業のインフラはと言えば電力不足により停電が多い。ハイウエィも建設がのろく、鉄道は半世紀前のスピード。また映画館がたくさんあるのにも驚いた。外国映画も輸入されていて意外や意外「冬のソナタ」が大ブームというから驚かされる。

 ヤンゴンで宿泊したホテル「トレィダーズ」には日本料亭も入っている! 日本酒の冷や酒も熱燗もある。これも世界的流行のようだ。
 二階のバアは完全にアメリカ式、ビリヤード、ダーツ。ここでも現地人がスコッチに酔い、英語の歌を外国人観光客にまざったビルマ人が歌っている。宗教律がうるさい筈なのにこの価値紊乱は、やはりニューデリーやムンバイ(ボンベイ)と酷似しているのか。

 ここでは「カミカゼ」というカクテルを飲んだ。命名が気に入ったからだが、飲むとなんのことはない、ウォッカとライムである。


バガン寺院の座像
バガン寺院の座像
寺院入り口の守り神
寺院入り口の守り神
ヤンゴン郊外「壷と子供」
ヤンゴン郊外「壷と子供」
寺院で昼ねする人達
寺院で昼ねする人達

 外国資本の流入とともにビルマ人の若者の意識が急速に変わった。伝統が希釈していく懼れはないのか、という杞憂は現実の問題となった。
 雇用機会が増え、女性の就労機会が急増し、このため婚期が遅くなる。
 ミャンマーでさえ働く女性の婚期は30歳代が多い。その結果、結婚しても子供が一人か二人、進学率が上昇し、価値観が変わる。中国、ベトナム、印度と同じである。ミャンマー経済についてはいずれ稿を改める。

 大事なポイントは以下の要素である。
 ミャンマーの人々が貧困に喘いでいても、人間性が豊かで、哲学的な人生への取り組みが比較的どっしりとして見えるのは仏教を基礎とする伝統文化を尊ぶ民族の精神である。日本のようにひきこもりが目立たないのは僧侶が求心力となった精神社会の強靱さでもある。
 戦後の日本がうしなったものは、こうした精神世界である。

 仏教原理を価値観の頂点におくため軍人でも有名なパゴダへの参拝と寄付を演出し、憲法を超える宗教律にその統治の権威をすがる。
 仏教原理がまつりごとの求心力にある。
 タイが国王と仏教の権威を重ね持つ智慧に基づき、首相は国王に拝謁するかたちを踏襲して社会を安定させてきたように。

 しかしミャンマー元国王はイギリスにより印度に拉致されてから半世紀以上も経った。その権威の代替を軍部が行うため、ミャンマーの統治形態もペルシアやサウジと同様に伝統的権威の確立はひどく遠のいてしまったのだ。
 カンボジアのシアヌークのような国王復帰劇はおそらくないのではないか。
 このような歴史の経緯とミャンマー的統治原理を理解しない欧米が、伝統を無視したスーチー女史を支援し、一方で人権を楯とした経済制裁を行っている。

 経済制裁は率直に言って無意味である。それに唯々諾々として従う日本は、外交力の基礎がなきに等しい。
 ミャンマーの未来はそれほど明るくはないが、民衆の目の輝きを見る限り、暗くもない。それにしても、台湾といい、インドと言い、ミャンマーも日本への期待は想像以上に大きい。
 これらの親日国家を日本はあまりに粗末に扱いすぎていないか。


waku

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