シチリア

いきなりマフィアの故郷を往く パレルモ 2001年4月


 一般的に日本人にとってのシチリア島のイメージとは、どことなく危険で、なにかしら悪魔的印象が強い。クイネルの小説を読むと凄い暴力がはびこっているというし。(いきなり脱線だけどクイネルはマルタ島に住んでいてシチリアとは目と鼻の距離)。だから行こうとしても気軽ではなく、結構大きな抵抗感があるのではないか。
 ところが先年チュニジアへカルタゴ遺跡を尋ね歩いたとき、フェニキアの拠点が当時シチリア島であった事を、改めて思い出し、いつか行かなければいけないと思っていたのですね。
 もっと歴史的な事を言えば、キリスト教はイスラエルから・クレタ島・マルタ・シチリアを経由し、ローマに伝わっているのです。といっても、わざわざシチリアの治安の悪いところへ、一人で行くのも、(40才を過ぎて本当に一人旅が億劫になってしまった)面倒かな、とためらう気持ちも正直にいって心の片隅にはあった。第一、日本酒が飲めない國へ一週間以上行くと頭がおかしくなるのです、最近。

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 ふらり旅が実現したのは01年4月、ローマで「ローマ憂国忌」が開催されたおかげでした。日程を消化してから、小生は単独でシチリアへ行くことに決めた。また、ローマ憂国忌で「1930年代の日本の右翼思想」を研究発表したロゼッタ・バレリ女史がシチリアの出身で(名前からフランス系とわかるが)、急遽、予備知識を彼女からも仕入れた。イタリアへ着いてからだから、相当の付け焼き刃だ。ロゼッタは10才の時、殺人現場を見たという。シチリア生まれの女は腹が据わってますな。
 さてローマの宿から予約したはずなのにフライトに名前が記載されておらず、飛行場ではやくも一悶着があった。(うーん、イタリア人って、かなりいい加減だなぁ)折からの観光シーズンで団体客でぎっしり満員だった。ようやく一席確保して貰い、こうなると「パレルモに着いたのはいいが、ホテルがあるかな」と考えながら、でも一人旅の良さは「土壇場でどうにでもなる」ということですもんね。
 飛行場で案内所の女性に尋ねると「エクセルシオールなら空いてます」という。もう「それでいいです」と無造作に決めた。一泊120ドル。ホテルへ着いてまたびっくり。四つ星なのに団体観光客で満員。日本人のおばさん20人くらいのツアーも一緒だった。
 さて、小生の目指すはカルタゴ遺跡。
 それがどこにあるかというと、ややこしい。ホテルの美人の受付嬢も場所を知らない、と冷たい目つき。シチリアは「文明の交差点」の「そのまた交差点」といって過言ではなく、昔、フェニキアの貿易拠点、その後、ローマ帝国に殲滅され、そのローマも東ローマにやられ、ついでアラブ、それからバイキング、フランス王国、ブルターニィアと侵略に継ぐ侵略、だから、「カルタゴ遺跡??」という顔をされるんですね。「そんなのどこにあるの」というわけだ。
 韓国人ジャーナリストの池東旭氏との対談で、いまも印象的なのは「殴った方は、そのことをわすれても、殴られた方はいつまでも覚えている」。ローマは「カルタゴは滅ぼさなければならない」と大政治家カトウが吠えた。三次にわたるポエニ戦争でカルタゴは滅び、名将ハンニバルは中東へ送られ、毒殺された。イタリア人はカルタゴについて殆ど知らない。自分が滅ぼした國についてはしらないのだ。知識人が知らないのだから一般人に至っては推してしるべし。
 実はパレルモから汽車で3時間半のトラパニから、さらにバスで一時間のモツィアというところへいく。そこから艀に乗って14,5分。島のずべてがカルタゴ遺跡。それなら早起きして日帰りツアーができる。ただし、これまた驚かされることにホテルに時刻表がないのだ。
 やはり計算違いが起こった。経緯はこうだ。

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1 パレルモ駅前の殷賑ぶり。バスは一日券がどれだけ乗ってもたったの5000リラ(300円)。
2 パレルモ市内の目抜き通り。パリやロンドンと変わらないが、日差しが強く、砂埃混じりの風が強いのでシャッターを下ろしている時間が長い。
3 ちょっとした細道を往くと、イタリア風情よりアラブ世界である。こういう雰囲気はマフィアワールドへの入り口かも。

 朝、5時に起床し、6時半にはパレルモ中央駅へいった。(早起きは慣れているので小生に問題はありません、問題はこの先です)。トラパニからメッセイル方面への汽車は、なんと9時10分発。(これじゃ全然、早起きして駅にきた意味がないじゃん。)仕方がないので、ともかく席を予約し、朝飯ヲ食べ、市内観光へとバスにとりあえず乗りました。それが市内の写真の数々ですが。  さて汽車のなかで車掌に尋ねるとメッセーラという港町からバスがでているというので、そのままメセーラまでイタリア国鉄に揺られた(余談だけど汽車の椅子は柔らかいし、値段は安いし、あれじゃ財政赤字がつづくのも止むをえないだろう)でメッセーラの街に着いたのは午後1時半。バスは夕方までない、タクシーは一台もない。結局、日帰りなどというのは、シチリアでは無謀なのである。文明社会の時間感覚はとまっているうえ、交通のインフラが整っていない。そのくせ、ハイウェイが完備されているから、もし、同じ計画を立てている人がいたら、絶対レンタカーですね。このへんは。そこでカルタゴの遺跡の雰囲気が僅かに残る海岸やら市内の曰くありげな所を足を棒に見て回り、「カルタゴの海」を見るため、波止場へと戻り、ついでだから記念のためにたちション。それから再び駅へ戻ると「次のパレルモ行きは5時です」と駅員が冷たい目をした。
 また2時間近くを駅で。ベンチに腰掛け、滅多に書くことのない絵はがきを10枚も書いてしまった。(何年も手紙を書いてない人にも出したから、きっと貰ったらびっくりするだろうな)
 で、せっっかく書いたのに郵便局は街に見あたらないし(結局、そのはがきはミラノまで持ち歩き、空港の国際郵便局から投函したのですね。)

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1 観光名所に待機する馬車は旅情をそそるただし相当ぼるらしい。
2 高級店グッチ、フェルガモ、ベルサーチが並ぶ目抜き通り歩いているのは観光客が半分くらい
3 小さな祠、中には移動式の祠もある。日本でいうなら街のお地蔵さん

 ビールとグラッパ(イタリア焼酎)をのんで汽車を待った。40分おくれて着いたが、例によって駅員からは何のアナウンスもなく、乗客もまた、誰一人として抗議しない。
 さて、特筆すべきは中国人の「進出」である。カルタゴから、はなしが極端にズレテも平気な筆者は相当ていどシチリア感覚が身に付いてしまったようだ。このようなシチリアの田舎町なんて、まず日本人旅行者でも訪れた人は少ない筈なのです。実際に汽車のなかでも、駅でもついぞ日本人はみかけなかった。ところが中国人の担ぎ屋が10人ちかく発車間際にのりこんできたのである。マナーは悪いし、方言丸出しの中国語だから、何をいっているのかよく分からないが、どこの村が儲かるとかの話だと想像ができた。というのも時々、彼らがチエン(銭)とかトウサァ(いくら)とかの語彙を用いていたからデあります。
 で、このイタリアにおける中国の進出について。いきなり話の中身は変わる。
 だいたい、街をあるいても、金髪碧眼のゲルマン、白髪のバイキング系の末裔から、黒髪のフランス系、イスラエルのシャロン首相とそっくりさんはセム族系、アフリカの黒人。なかにフルシチョフ元ソ連首相そっくりな人を見たから、スラブ系もシチリアには共存しているのですね。
 加えてここに最近はアルバニア、モロッコ、エジブト、旧ユーゴスラビアからの不法移民。イタリアの街頭売春はアルバニアがいまやトップです。さらにこの列に近年は、中国からの夥しい不法移民が加わったのである。
 パレルモで目抜き道路を散歩して、心底から驚かされたのは顕著なほどの中華料理店の「進出」だ。(教科書に「侵略」を「進出」と書き換えていたのは中国だったのか)ローマ市内でもそうだが、日本レストランを探すのは容易ではない。パリ、ロンドン、ニューヨークなどと違い、イタリア在住日本人はそれほど多くなく、しかもイタリア料理が日本人の口に合うために、ときどきにせよ、天ぷらも寿司を食べられなくても凌げるからだ。(ウニを食するのは世界広しといえどもイタリア人と日本人だけだそうですよ)。
 中国人は世界中どこへ行っても固まって暮らし、直ぐにコミュニティを形成し、さらにはすぐさま料理店をだす。 上海、北京、広東、潮州、福建の各料理がパレルモで早くも店開きしていた。
 驚きはまだ続く。
 イタリア料理に飽きたので、まずは「金喜城」という豪華な造りの店に入った。餃子と焼きそば(メニューではchinese spagettiと表記されてます)、イタリアのビールとグラッパを頼んで合計1500円。(東京なら5000円はとられます)。「いつ開店?」と聞くと、去年の由。「客はくるの?}(その日は昼飯時だったのに、小生以外あと一人だけ)。「たくさんきますよ。特に日本人の団体が」「えっ」と小生。(経営者は見栄をはっているんじゃないの?)そういえば南ヨーロッパのツアーは日本食の代替えに、よく得たいの知れない中国料理をアレンジしているのが最近の傾向という。店長は上海の隣のせっこう省出身で、日本人に愛想がいい。

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1 正教会の遺産。マルトラーナ教会。
2 折からイタリアは総選挙のまっさい中。ただし宣伝カーは日本のようにがなり立てたりはしない。テントを貼った選挙本部でもビデオで候補者の情報を流すだけでポスターが重要な宣伝武器ということがわかる。

 翌日はホテル近くの「上海賓館」へ。ここはイタリア人のお客さんが合計で20人と随分と混んでいる。しかし彼らが何をたべているかといいますと、焼きめし、焼きそば。コカコーラ。つまり一人あたり1000円以内でしょうね。こんどはビーフン、かに入りスープ、野菜炒め、それにビールとワインを所望した。味のことから書くと、まぁまぁ、でもパレルモにしては上出来の部類でしょう。だから繁盛しているわけだろうね。
 食べ終わって「勘定っー」(マイタン)というと、初めて無愛想な女が世間話に転じ、「ところでアンタ、どこからきたの?」「日本」「日本ってどこにあるの?」(つまり日本は中国読みでリーベンですが、地名は特に発音が違うので大きな都市、有名な地名以外は大概何回も聞き返す)。「リーベンってきいたことないわよ」「アンタこそ、勘違いしてない? 東京のある日本だよ」「えっ。アンタ、中国人じゃないの」ときたね。不法移民の部類と一緒にされたのかな。
 というわけで散々なシチリア旅行となり(あ、それから上海飯店の勘定は1300円だった)、帰りはミラノまで飛んで、満員のJAL機に乗り換えた。途端に、一体どこにいたのか、マッセーラでは一人も会わなかった日本人が地面にぞろぞろってはい上がってくる蟻の集団のようにマルペンサ空港のゲイトには数百人もかたまってんだよネ。それもわかい女性がブランド品を一杯買い込んで、たばこを吸って、訳の分からない言葉を喋って(よく聞くと日本語だ)、いやはや中国人の不法移民は確かに問題だけど、このマナーをわきまえず、蓮っ葉な日本人の小娘たちの方がよっぽど犯罪的じゃないのですかね。かの「シチリア・マフィア」だって驚いちゃう、と思うと「日本人としての恥」に考えが至り、妙に悲しくなるのでした。
 だから感傷に浸りきって日本に帰ってきたといいたいのですが、機内では殆ど寝てました。


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