毛沢東がダライラマを陪席させる曼陀羅に驚く
昼飯のあと、二時間ほど休憩してから、まずはダライラマの離宮へ行った。
すこしベットで横になれたので高山の薄い空気に馴れた錯覚がある。
法王の離宮は「ノルブリンカ」と称せられるが、一部しか公開されていない所為で印象としては小体な王宮群のあつまった公園のよう。軽井沢の簡素な仏教寺院といった感じである。
初っぱなから驚かされたのはダライラマ猊下に対する、あまりの不当な扱いである。
嘗て猊下の謁見された応接間に、ピカピカの曼陀羅が壁画になっていたが、そのチベット歴史の絵物語の最終場面が、なんと、なんと。毛沢東が右にダライラマ猊下、左にパンチェンラマを従えて、陪席させるかたちをとり、さらにその周りが周恩来と劉少奇という構造なのだ。
完全に暴君がチベットを支配し、聖人と従えて統治している絵図ではないか。
この衝撃はラサ市内の殆どの寺をめぐっても同じだった。
ポタラ宮殿は壮麗で神々しい。写真でイメージしてきた観光地点としての印象より遙かに壮大かつ狷介孤高として聳え立っている。
外国人観光客は正面玄関からではなく後方の門からクルマごと後宮の丘を登り、いきなり裏口から入るシステムになっている。入場料、なんと七十元!
バター油の臭いが充満しており、宮殿内に一歩足を踏み込むと暗がりだが、立錐の余地のないほど外人観光客でぎっしりなのだ。
朝一番で入場したはずなのに、この数百数千の外国人は一体どこから湧いてきたのか、と訝る。
なかには韓国人、台湾人の団体も目立つ(余談ながらこれら両国の物見高い団体ツアーは、中国の奥地の何処へ行っても出くわす。言葉と仕草で直ぐに分かるが、最近の日本人ツアーは実におとなしく、行儀が良い)
宮殿の中では英語、韓国語、フランス語、ドイツ語、そして日本語が飛び交うが、ここに中国語のガイドの大声が被(かぶ)さる。
いまや中国国内の観光団がイナゴの大群となってラサに押し寄せ、彼らの夥しさと喧しさは形容しがたい。土産の買い方も乱暴で、しかも大量に買う。台湾も韓国も真っ青で、まさに「中国的」風景である。
こうして漢族の観光団体は、傍若無人にお喋りをつづけ、巡礼にきているチベット族を押しのける。
さてポタラ宮には千の部屋があると言うが、どこにもダライラマの写真がない。私はどの部屋でも目を凝らして探したが、何処にもないのだ。
外国の大使館に天皇陛下の写真がないような転倒した風景である。
所々に先年、なくなったパンチェン・ラマ十世の写真のみが、さりげなく飾られている。 97年頃からダライラマの写真、肖像は一切禁止命令が出たからだという。
ジョガン(大昭寺)を中心に旧市街はチベット人居住区となっている。
ポタラ宮以南の新開区は高層ビルやデパートが並び、漢族の居住区で、両区域を結ぶ幹線は「北京東路」と名付けられている(チベット民衆が何と呼んでいるか、知らない)。
南北を走る道路は「娘熱路」、ガイドにハンサムな男でも居たからか?と命名の由来を尋ねるとチベット語の音に漢字を当てただけ、と言う。
胡錦濤総書記は弾圧の張本人 一体、誰がチベットの歴史を改竄しているのか?
総書記になった胡錦濤は安徽省の生まれで、清華大学卒業組のエリートである。
胡は革命元勲から第四世代に属し、悪く言えば「顔のない、薄っぺらな印象」しか残らない。胡錦濤は1988年当時、チベット書記(つまりチベットで最高ポスト)だった。おりから勃発したチベット暴動を武力弾圧した張本人である。
チベットの聖都「ラサ」はチベット語で「神の地」という意味である。
この「聖域」を中国は軍事力を投入して踏みにじった。
革命後、中国がチベットになした悪の業績は、血生臭い惨事、極悪非道という以外、言葉がでてこないほどの凄まじき殺戮、弾圧、宗教破壊だった。
1959年、いたたまれなくなったダライ・ラマはインドへ亡命し、臨時政府を樹立した。
中国は居残ったパンチョン・ラマに対抗心を煽り、北京に都合のいいように政治利用し、なんとしてもダライ・ラマ十四世の精神的影響力を排除しようと躍起になった。
1987年から、ラサに暴動が断続的に起こり、89年には戒厳令が敷かれた。
世界の人権活動家、民主活動家が立ち上がり、北京に抗議したが、日本政府はこの列に加わらなかった。ハリウッドでは「セブンイヤーズ・イン・チベット」や「クンダン」などを映画が作られ、フィルムを通じて世界の世論に訴えた。
北京の猛烈な妨害工作にかかわらずダライ・ラマ十四世にはノーベル平和賞が贈られた。
チベットのしきたりではダライ・ラマの後継者はパンチョン・ラマ(阿弥陀仏の化身)が指名し、パンチョン・ラマの後継はダライ・ラマが指名する。
しかし歴史的にみても屡々対立が起きる。
パンチョン・ラマ十世が本拠地のシガツェにあるタシルンポ寺で急死したのは、胡錦濤と会見した六日後。いまも暗殺説が根強く胡との関連を云々するチベット人がいる。
ダライラマは霊童ニマ少年を「パンチョンラマ十一世」と認定した。ところが北京は95年二月に突如、このニマ少年を拉致し、一方的にノルブ少年を後継者と指名した。
ノルブ少年は2002年7月5日に十三歳の儀式を中国政府公認で行い、「江沢民主席の教えに従い愛国の活き仏になります」と誓わされた。
チベット仏教第三位の高僧カルマパ十三世は00年一月にインドへ亡命し、ダライラマ政府に身を寄せた。カルマパは中国が指名した経緯があるが、仏教の教えにそむく中国の「愛国虚言」には乗せられなかった。
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