世界紀行

ウラジオストックの日本人墓地にて
ウラジオストックの日本人墓地にて

ウラジオストック、ナホトカ紀行

ロシア、北朝鮮、中国の国境では何が始まっているのか?

 新潟空港からウラジオストック航空に搭乗することになった。東京駅から新幹線車内で待ち合わせたのはコラムニストの高山正之氏ら合計四人。このミニ探検隊が急遽「結成」されたのはひょんな経緯からだ。

 昨年、フライング・タイガーの基地跡を湖南省の西南部にある辺境、渋江までこの四人組にあと三人ほどでグループをつくり見に行った。ここは岡村寧次と何応鈞の終戦協定を結んだ場所でもあり、反日宣伝が濃厚な記念館がある。
 例によって改竄史観の反日展示だが、日本軍と戦ったのは「偽軍」とあるので、この「偽」は何処かとガイドに問うと、国民党軍を意味することだったのには笑った。そうだ、フライングタイガーは蒋介石に協力したのだ。

 さてウラジオストックを戦前の日本人は浦塩斯徳と表記したが、ロシア語の原義は「東方を征服せよ」という物騒な意味がある。
 ロシアは不凍港を求めて清帝国の版図を結果的に強奪し、地政学的にみれば中国の海の出口を塞いだ。中国にとっては恨み骨髄の場所である。

 それゆえ中国人はウラジオストックとは言わず歴史的な地名=ハイサンウェイ(中国語では「海参威」)と言う。ついでに言えばロシア人は中国人を「キタイ」を呼び、いまも陰湿に排斥するし、中国人は「オロシア」と言うから、ま、お互い様か。

 というわけで筆者の一番の興味は三カ国の国境の現状である。
 ロシアと中国と北朝鮮の国境地帯はいまどうなっているのか? 不思議に日本のマスコミはこのことを追求しない。

 筆者は中国側からは何回かロシア国境を見ている。スイフェンガ、黒河、満州里、そして延吉から図門へ行くと北朝鮮、軍春からはロシア国境が、また吉林省の集安、丹東からは北朝鮮国境も見た。つまり旧満州の七箇所から国境を見た。反対にロシア側から中国国境をみたのはハバロフスクからアムール川との国境くらいだった。

 とりわけウラジオストックより西側のハザン地区は北朝鮮と国境を接し、ちょっと北側へ回れば中国の軍春である。
 二ヶ月準備期間があった。第一にロシアのヴィザをとらなければ行けないが、これに一ヶ月を要する。つぎに肝心のハザン地区へ行けるかどうか。ポシェット港、ザルビノ港を見学できるか、どうか。
 直前にこの地区に入ったNHKが追い出されたと聞いていた。旅行社を経由してロシアに打診したが、「審査」に最低一ヶ月、そして土壇場で蹴られると旅行そのものが成立しなくなる。というわけでハサン地区はあきらめ替わりにナホトカを加えることにした。


離着陸の少ないウラジオストック空港
規模だけは大きいウラジオストック駅
離着陸の少ないウラジオストック空港 規模だけは大きいウラジオストック駅
レーニン像がいまも残る
レーニン像がいまも残る

ロシア軍が北朝鮮からでていったあとに

 事態の変化はつぎのようである。
 東西冷戦が終了し、ロシア極東軍は削減され、しかも北朝鮮から露西亜軍事顧問団は引き揚げた。北は最大の保護者を失い、唐突に北京へ秋波を送る。

 一方、中国の経済力が著しく飛躍し、北朝鮮も経済の飛躍が政治安定を招くのではと経済改革を模索しはじめた。日本の財界が主導した「日本海経済圏」の思惑とも合致してロシア、中国、北朝鮮の国境付近の大開発が決まり、かなりのインフラ建設が進んでいた。十年前までの話である。

 中国側は「図門江開発」、北は「豆満江開発」。そしてロシア側は「ハサン地区開発」(ザルビノ、ポシェット両港を含む)とそれぞれ名称こそ違え、経済交流による相互発展目的は温度差があったが、基本的に共通目標だったのである。

 数年前にも中国からポシェットへ鉄道が通じたというので軍春へ見学に行くと、工業団地が造成されており、中国企業、韓国企業にまざって日本企業が三社ほど進出していた。

 延吉から高速道路工事が進み、あたり一面が普請中だった。開発ブームは各地にクレーンを林立さえ、ブルドーザが動き回り、輝かしい未来を予感させていた。

 ところがその後、北朝鮮の苦境と核開発が状況を激変させた。
 第一に日本企業が拉致問題の露呈と核開発に嫌気して進出意欲がそがれ、積極性を失う。
 第二に中国は北朝鮮へ直通ルートをつくり、ロシア側の港湾へ鉄道をつなげたものの昨今は北朝鮮の羅津、先鋒開発に重点を移した。つまり中国は北朝鮮を経済植民地となし、ロシアを袖にする野心を露わにしたのである。
 第三にロシアは中国、北朝鮮への鉄道接続ルート強化に乗り出し、ちぐはぐに対応をみせた。
 第四に韓国が間隙を縫って各方面に浸透していた。

 そこである日、モスクワからプーチン大統領(当時)がウラジオストックへやってきて、「シベリア極東大開発」の号令を出し、状況が一変する。2014年ソチで冬季五輪。ならば極東の目玉を2012年、ウラジオストックでのAPEC。そのために大開発が必要というわけだ。
 怪しい旅行団の結成にはそうした経緯があった。


革命広場はハトでいっぱい
潜水艦C56博物館。ウラジオストック。
革命広場はハトでいっぱい 潜水艦C56博物館。ウラジオストック。
ウラジオの旧日本人街。
きれいになったルーブル紙幣。
ウラジオの旧日本人街。 きれいになったルーブル紙幣。

(承前)
 今度はロシア側から三カ国国境の現場をみてみようと思い立って、出発の前に新潟港岸壁に近い寺に眠る三浦重周烈士の墓参をさきに済ませ、ロシア旅行の安全も祈願した。
 ウラジオストック航空機は意外なことに満員だった。

ディズニーランド帰りのロシア人がいっぱい

 日本人ビジネスマンとロシア人の家族旅行、ディズニーランド帰りが目立つほか、「それらしきロシア美女」も。実際にロシアの町を歩いても美女が多いのは化粧品の所為というより栄養がよくなったからだ。あの飢餓の時代、キュウリは透明に近いほど薄く、バターは有料で黒パンとスープと、腐ったようなトマト。それが朝食の全てだった。いまやふんだんな量がでるし、サラダが美味、ボルシチばかりか様々なスープがでる。

 ウラジオストックに入った。
 寒い。日本は真夏、ここは晩秋、半袖では涼しすぎる。
 ウラジオストック到着が夜になったためホテルへチェックイン後、夜食をとろうとホテル向いにある日本食堂「七人のサムライ」という店へ四人のサムライで。
 ロシアで一番有名な日本人は黒澤明と村上春樹だそうで夜中でも客がちらほらいる。天ぷらも寿司もあるが味はまずくで値段は東京並み。付近には二十四時間営業のバア、ディスコ。最後の夜に見学のため行ってみたが日本語のカラオケ、軍歌が歌えて面食らった。

 さて町を走っているクルマの95%が日本車である。
 「天城の納豆」とか「ペンキはXX工務店」とか、看板そのままの中古車。数年前には「北方領土を返せ」という右翼の街宣中古車をハバロフスクでみたことがある。
 日本で中古車買い出しは一大ビジネスだった。小樽、稚内、秋田、新潟、金沢、舞鶴、境港などが業者のメッカ、なんでも積んで帰れば売れるから関係業者はウハウハだった。


暴走族は中年ばかり
ロシア少年は小さな時から戦争ごっこ
暴走族は中年ばかり ロシア少年は小さな時から戦争ごっこ
市内バスは満員。
瀟洒なレストラン風景
市内バスは満員。 瀟洒なレストラン風景

日本からの中古車輸入を事実上閉め出す

 ところが09年一月にプーチンは日本からの中古車輸入に80%という高い関税をかけ、(新車でも30%)、事実上、輸入を止めた。ついで四月に保険料金を中古車を狙い撃ちして三倍にする。あまつさえ車検を厳密化した。つまり日本車完全締め出しという”商業上のクーデタ”なのである。

 しかしパトカーさえロシア沿海部では右ハンドル(トヨタのクラウンが多い)、軍用車両と公共バス(現代が多い)くらいが左ハンドルという状況のためクルマの所有者は強い抗議行動にでた。
 反対デモの車両は数珠つなぎになって公道を塞いだのだ。消費者はこうして徹底抗戦したが、プーチンは軍を動員して排除した。あたかもモスクワのバザールを閉鎖して突如、数万の中国人商人を排除したように。
 事実、08年12月の中古輸入は73,000台。08年6月はたったの4400台。

 とはいえウラジオストックに限って言えば、住人に生活のゆとりがうまれている。石油と開発ブームによる好景気だ。

 午後五時過ぎ、目抜き通りホコテンの瀟洒たレストランにはOL風の美女たちが集まってビール片手に談笑を始める。タバコを吸う女性が多い。午後六時にはレストランが満員、美容室やマニキア・マッサージも満員に近い。
 不思議だ。
 どこもタバコの煙が充満している。TIMEによれば世界一のタバコ消費国はロシア、国民の56%が愛煙家だ(ちなみに日本は世界7位、25%)。

 ウラジオストックの急激な繁栄には理由がある。
 前号でみたように2012年にAPECの開催が決まったからである。
 ウラジオストック市内の南に浮かぶルースキー島を大開発のうえ、リゾートホテルを林立させて、近未来には沿海地方の一大保養地とする。つまり「東のソチ」に化けさせようと目論んでいるのだ。


キオスクはポルノ系雑誌が目立つ。
モスクワまで9288キロの表示(ウラジオストック駅)
キオスクはポルノ系雑誌が目立つ。 モスクワまで9288キロの表示(ウラジオストック駅)

ルースキー島を大開発の最中だった

 降って湧いたプロジェクトに喜び湧いたのが沿海州の政治家と企業家たちである。お零れ狙いで韓国企業もドッと進出した。取れるだけの国家予算をブン捕ろうと躍起になった。
 韓国資本による高層ホテル『現代』も、美女をはべらすカラオケやナイトクラブも韓国人で満員となる。中国からも大型観光バスが直接乗り入れており(ナンバープレートを見ると黒龍江省だ)、観光スポットでは中国語も結構飛び交っている。

 現実に方々で工事が始まっていた。とくに市内から橋梁を南側のルースキー島へ二本、インフラ整備、フェリー乗り場改装、船の増発等々。工事のため町中が渋滞し異様なブームの最中なのである。

 駅のプラットフォームに立つと、「モスクワまで9288キロ」のオブジェ。すでにバックパッカーらのシベリア鉄道の旅のブームは終わり、なんだか墓標に見えた。
 駅前広場にはレーニン像がまだ建っていた。 


(承前)
 ウラジオストックの中央広場にあるフェリー乗り場からおんぼろフェリーでルースキー島へ上陸して驚いた。
 道路はぬかるみ、舗装は溶けて泥道、大雨のあとの水たまりの悪路を日本製のランドクルーザーが進むが、生い茂った森林の伐採作業場ばかりが続き、激しい凸凹道に車酔いを感じながら一時間後、ようやくイベント会場となる現場に到着した。
 普請の騒音が高い。
 現場は日本製のクレーンが林立している。ブルドーザ、シャベルカーも殆どが日本製だ。そうか、日本抜きにして開発は成り立たないんだ。
 建設現場の横に長い看板、「2012年APECサミット会場」(ロシア語)がなければ何の工事かよく分からない。俄かづくりの観が否めない。アゼルバイジャンなどからの流れ者労働者が混在している理由も分かる。

 建材や鉄骨が臨時の波止場に積み上げられ、労働者が居住するプレハブのマンションが周囲に建っている。「でも冬は零下二十度になるというのに、あんな住宅で大丈夫か」と問うと「真冬は工事が中断」という答えが返ってきた。会場になるコンベンションホールも外国代表の宿泊予定のホテルも、まだ影も形もない。
 ふたたび鋼鉄が錆びてぼろぼろのフェリーでウラジオストックへ戻る。80歳を越えた老女がスターリン勲章を沢山つけて誇らしげに入ってきたので、意地悪な質問。大祖国戦争って何ですか。

ビルが林立して壮観だった

 さて船から市内を眺めやるとウラジオストックは意外にも高層ビルが林立して壮観である。港には軍艦が三隻、写真を撮っても誰も咎めなかった。
 瀟洒なレストランで豊饒なメニューの昼飯のあと、名物の「潜水艦C56博物館」を見学した。戦争博物館を兼ねる。

 展示内容が「大祖国戦争」と「第二次世界大戦」ばかりでソ連軍の満州侵略に触れていないのはロシアの歴史観だから仕方がないにせよ、「日露戦争」の記述があまりにも少ない。ガイドに理由を問うと「あれ(日露戦争)は『小さな戦争』ですから」と答えたのには驚いた。

 翌日、立派な高速道路を飛ばしてナホトカへ行く。
 ナホトカは狭い町で展望台に登ると港湾全体が見下ろせる。
 港は撮影禁止と聞いていたが、軍事施設もなく、石炭のバージ船が沖合待ちをしている程度、かつて日本のバック・パッカーの出発点だったシベリア鉄道の始発駅は閑散としていた。

 ナホトカで一番大きなホテルは中国資本の遠東大飯店(ユンドァン)という。わざわざ見学に行ってみたが、ほぼガランドウに近く、対岸側にあるチャイナ・タウンの長い長い商店街も人が殆どいない。門前の四階建てのホテルは中華風のつくりだが、そもそも中国人客の姿がない。


スターリン勲章を一杯下げた84歳の老婆
ナホトカのホテルは全部民宿風。
スターリン勲章を一杯下げた84歳の老婆 ナホトカのホテルは全部民宿風。
当て込んだ客なし。中国資本のホテルは空き部屋ばかり。
当て込んだ客なし。中国資本のホテルは空き部屋ばかり。

チャイナタウンは火が消えていた

 中華門の傍で焼き鳥を焼いている中年男に「中国人か?」と訊くと「そうだ」。
「商売はどう?」、「うぅん最悪に近いな」。「中国人を殆ど見かけないが?」、「そうさ、北朝鮮、キルギス、ウズベキスタン、そしてアゼルバイジャンからの安い労働力に奪われ、殆どの中国人は帰ったよ」と言う。

 われわれ四人組が泊まったのはナホトカで高級な、ガイドブックにも出ているピラミッドホテル。だが、これとて民宿に近い。地下のレストランは客も疎らで、ウラジオストックの繁栄ぶりに比べると天地の開きがある(ただし味は旨かった)。

 ナホトカの町を歩いている女性のセンスも田舎風で流行遅れ、所得格差が歴然としており市内唯一のデパート「グム」を見学して品数の貧弱さに唖然とする。書店は絵本と小説くらいしかない。村上春樹の翻訳? ナホトカでは見かけなかった。

 2006年に524人の遺骨が収容され、慰霊祭も行ったというナホトカの日本人墓地は台座が毀され荒れ果てていた。

 慰霊祭から僅か三年後、お墓だった場所は草ぼうぼう、日本人墓地の標識は落書き、おそらく大理石だった台座がインテリアの飾りにでも使うのだろう、殆ど盗まれて、まるでハゲタカの被害にあったような荒廃ぶりである。
 ウラジオストックにあったお墓のほうが立派で、墓園の入り口には花屋もあったのに。

 ホテルの裏にこれ見よがしにあった日ロ友好の壁が虚しい気がした。


台座がはがされた日本人墓地ナホトカ。
荒れ果てた日本人墓地
日ロ友好の壁
台座がはがされた日本人墓地ナホトカ。 荒れ果てた日本人墓地 日ロ友好の壁


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