世界紀行

毛沢東旧居前にて
毛沢東旧居前にて

「中国革命の『聖地』をゆく」

毛沢東神話はとうに風化していた

 紅色游ー。
 毛沢東の“革命聖地”をめぐる旅が、あたかも四国巡礼のように中国国内でブームだという。毛沢東語録を掲げて金切り声を挙げた、あの文革時代の狂気の熱狂とは趣を異にする静かな旅行ブームである。
 腐敗した資本主義、拝金主義の風潮を嘆き、革命の精神を呼び起こし、中国の新しい国作りに活かそうという呼びかけ? それとも毛沢東が神の如く復活したのか。
 井岡山から瑞金、遵義そして延安へのルートは共産党の革命成立までの”輝かしい”伝説となっている。
 井岡山(江西省)は毛沢東が最初のゲリラ戦の拠点、遵義は毛沢東の主導権が確立されたことで有名な拡大政治局会議(貴州省)の場所、そして延安(陝西省北東)は「長征」で最後に辿り着いた山奥だ。
 しかし「長征」が、このルートに正確であったかどうかは疑問が多く、実際にソールズベリー(著名な米国人ジャーナリスト)が歩いて「孫悟空なら飛べるかもしれない絶壁」などがあり、不可能を指摘した。
 ともかく革命ルートを辿るセンチメンタル・ジャーニーを「紅色游」と呼び、若者たちの間に大流行というではないか。
 これらのスポットは観光のメッカでもある。日本でまだ革命神話を信じている人は、ひょっとして革命精神が生きているのではないか勘違いする向きもあるだろう。
 延安は細長い町で川に沿って両岸の崖が横に掘られ天然の要害と形作っている。
 逃げ込むには格好の場所で、ごつごつした岩肌の現場に立つと国民党や日本軍の空爆を避ける天然の防空壕にも早変わり、毛沢東がこの地を数年も動かず、政敵を粛清する一方で革命に憧れてやってきた若い女をハーレムとしていた理由もわかる。だから「紅色游」ではなく「桃色游」の場所にも化した。


延安空港
紅色聖地の大看板(延安空港)
延安空港 紅色聖地の大看板(延安空港)
延安の銀座通りはすこし寂しいが
延安市内繁華街
延安の銀座通りはすこし寂しいが 延安市内繁華街
延安の子供達
延安の子供達

マルクス、レーニンの懐かしい写真も

 延安革命記念館は共産党が会議を行った講堂でマルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンが並ぶ。
 そうだ、あの頃の毛沢東共産党といえばコミンテルンの傀儡でもあった。
 「楊家嶺中共中央弁事処跡」には毛沢東、朱徳、周恩来の旧居跡、どこも「観光客」が記念撮影をしている。悲壮感はまったくなく、カメラとペットボトル片手で、ラフな服装。
 田舎から来た人、アベック。何人かに声をかけてみたが、「え、日本から来た? よくまぁそんな遠くから」などと非政治的会話がはずんだ。
 大家坪という市内の真ん中に八路軍司令部跡があるが、ちかくの小学校で子供達は毛沢東が偉人かどうかより無心に遊んでいる。幾つかある「希望小学校」というのは全土からのカンパで建てられたという。
 しかし延安ですら毛沢東、周恩来らの伝説も遠く、あたかも「歌を忘れたカナリア」のように革命精神は風化し、周囲は風俗営業とネオンと奢侈品で俗化し、土産屋には毛沢東の胸像、お守り、トランプまで売っている。はるばるやってきた中国人観光客もレストランで食事を摂って、銅像の前で記念撮影をして、周辺をそぞろ歩き、それでお終い、次の旅程に向けて旅立つだけである。
 ピカピカの建物は党学校だ。毛沢東、周恩来、朱徳らが籠もった伝説のある棗園別荘の事務所跡にもバスが連なるが、大きな銅像が象徴するように半分は作り物。数千の粛正の残骸は一切残っていない。
 革命聖地目指して多くの若者もやってきたが、紅衛兵の新型でもなく、毛沢東の銅像土産など見向きもされていなかった。
 五つ星というふれ込みのホテルは設備最悪。レストランも貧弱だ。夜、カラオケへ突撃してみた。陪席は田舎娘が三人。驚くなかれ一人は大学卒、二人は現役の女子学生で、そのうちに一人は満州族だ。そして彼女たちが曰く。 「な、南京大虐殺って何のこと?」。
 冒頭の「紅色游」は革命精神に学ぼうと延安など革命聖地を巡礼することだが、いまのブームは「桃色遊」。つまり革命聖地はいまや「性池」と変わり果てていた。


マルクスレーニン紅旗
延安の革命記念館
マルクスレーニン紅旗 延安の革命記念館
花見気分の見物客が多い(延安革命聖地で)
観光客がたくさん(延安)
花見気分の見物客が多い(延安革命聖地で) 観光客がたくさん(延安)
中庭には毛沢東ら五人の銅像
中庭には毛沢東ら五人の銅像

西安事件の現場はいま?

 西安は軍閥の張学良が蒋介石を幽閉し、これをバネに第二次国共合作が成立した「西安事件」の場所として日本でも著名なスポット。
 延安からバスで7時間かかる。
 途中、伝説の「黄帝陵」へ立ち寄り、神話の石碑をみた。揮毫が郭沫若。日本の神武天皇は実在したが、黄帝は伝説でしかないのに、この立派な設備は何だろう?
 中華文明、中華思想というやっかいな化け物は、こういう人工的な神話の設備をつくって国民の求心力に利用しようという訳だが、国民のほうは「他に行くところもないから」と物見湯山に来るだけのようである。
 夕暮れの西安へ入る。西安のど真ん中のホテル。真ん前の横町ではグッチ、ルイビュトンの偽物がところ狭しと並ぶ。カラオケ、怪しげな按摩、マッサージの呼び込み。まったく革命精神と無縁ではないか。
 大学卒の就職先が半分ないという話は有名だが、な、なんと大卒が按摩をやっている。驚いた。
 「フリーターとして就職浪人中ですが、マッサージは客一人50元(750円)になるので」と男子学生。なかには平気で売春稼業に精を出す女子学生もいる。やっぱり「桃色聖地」。
 西安はさすがに昔の長安、唐・随の都。碁盤の目のような町並みに緑深く、早朝ホテルをでて、空海ゆかりの青龍寺へ散策へでたが、寺を町が囲むような形、見つけるのに時間がかかった。仏教遺跡は微妙なかたちで抑圧されている。
 蒋介石を閉じこめた「西安事件」の現場をゆっくりと見学した。
 蒋介石評価が中国で高まっており、張学良とともに多くの伝記が出ている。多くの歴史記念館に蒋介石の写真も飾られている。
 現場は楊貴妃で有名な華清池にある。蒋介石の宿舎、銃弾の跡、寝室、風呂場そして蒋介石が絶壁を駆け上って逃げこんだ洞窟がそのまま保存され、展示パネルは張学良を褒め称えている。
 市内に八路軍西安弁事処跡が記念館として残り、周恩来の着衣、筆、万年筆。さらに晩年の張学良の写真が幾枚も飾ってある。往時、この西安の八路軍を取り仕切ったのは朱徳と周恩来だが、珍しい写真パネルが混じり愛国教育基地に指定されている。
 もう一つは張学良公館(西安事変記念館、看板の揮毫は葉剣英将軍)でおやっと意外感があったのは、台湾問題のパネル展示だ。
 ここでは訪中した台湾国民党名誉主席・連戦と親民党主席の宋楚瑜のそれぞれの訪中全行程の写真と地図をパネルにしているのだ。 馬英九(台湾国民党の次期総統候補)の写真も大きく飾られている。一方、李登輝・前主席の剣道着姿の写真。解説に「衣は台湾でも中身は日本人」(台皮日骨)と悪罵が綴られていた。
 これを台湾からの観光客に見せるのである。統一戦線のプロバガンが、このような末端の展示品まで徹底している。「反国家分裂法」を自画自賛し、台湾独立に賛同する金美齢、岡崎久彦の顔写真パネルがなんとなく暗く掲げられている。

黄色帝王碑の揮毫も郭沫若
西安兵馬俑
黄色帝王碑の揮毫も郭沫若 西安兵馬俑
蒋介石が使った浴室
西安事件現場(蒋介石寝室)
蒋介石が使った浴室 西安事件現場(蒋介石寝室)
香港回帰記念碑がなぜか黄帝陵にも
青龍寺(正門)
香港回帰記念碑がなぜか黄帝陵にも 青龍寺(正門)
楊貴妃
楊貴妃

重慶はいま

 飛行機で重慶へ。ここでも紅岩など、革命伝説の場所を詳細に眺めた。
 往時の蒋介石の重慶政府ビルは区画整理で奥へ引っ込み、そばにガラス張りの「三峡ダム記念館」が新設されていた。これにも驚かされた。三年前にも重慶に立ち寄ったとき、この巨大ビルはなかった。
 同市郊外歌楽山という公園に行楽客が列をなしている。
 共産党、国民党の監獄、多くが拷問され殺された場所だ。楊虎城もここで刑死。しかし反日記念館につきものの残酷な場面の蝋人形がない! 同胞同士の殺戮、残虐場面は現場のベッドのみを陳列してあり、これでは洞窟見学と変わらないインチキである。
 重慶市内からバスで二時間半、銅梁県に丘少雲烈士博物館(注、丘少雲の「丘」に邑)を訪問した。
 朝鮮戦争の英雄として、爆弾が飛んできても伏兵の任務を果たして戦死した丘兵士の出身地だが、ある日突如、雷峰のごとくに英雄視された。一九五〇年代後半から七十年代まで国家を挙げて、この人物を祭った。荘厳なガランをつくって記念館をおっ建てたのだ。
 ところがいまや訪れる人もなく、展示品はおそらく三十年変わらないシロモノ、軍服などが深い埃を被っており、軍刀には錆、一角には蜘蛛の巣がはえている。売店で売っていたパンフは十年前の印刷で赤茶けていた。
 その夜、重慶で宿泊したホテルの地下にあるカラオケでは、もはや驚くべきことでさえないが、日本の軍歌が歌えた。
 ここで女性店員(十九歳から二十二歳まで)六人に聞いた。
 「あんた達の人生目標は?」「中国を出ること」「何処へ?」「アメリカか、EUか、日本よ。アフリカはイヤだけど、ともかく出るのなら、外国人の誰とでも結婚しちゃう」。
 「日清戦争って知ってる」「しりません」。「辛亥革命は?」「なに。それ?」。
 ついでにもう一問。「貴女の干支はなに?」「知らない。星座占いなら知ってるけど」。
 (干支って、シナの伝統じゃないの)。
 西安には日本人が滅多に行かない「半坡博物館」(注、半坡の「坡」は王編)もある。これは黄河文明の古代考古学の展示場である。恐竜時代から北京原人など月並みのもので新味がないが、ふらりと入った第四展示室に面白い解説があった。
 「世界百大文明発見」と銘打たれ、エジプトのピラミッド、万里の長城に混じって日本から三点が選ばれていたからだ。
 1.吉野ヶ里遺跡は、なぜか「吉野川弥生人」とあり、銅鐸の写真がある。
 2.十三世天皇陵墓。日本の東南にあった邪馬台国が統一国家を作り、巨大な墓を築いたとある。
 3.シルクロードから日本に運ばれた珍宝を飾る東大寺を聖武天皇が皇太后の廟にと、アジアからの宝を蒐集したと解説、いずれも文明的に”中国の子分”としての日本という位置付けなのである。
 上海では龍華烈士陵園へ行ってみた。
 辛亥革命前後から袁世凱、蒋介石の上海クーデタなど内戦の犠牲者を弔った新しい施設で95年に竣工、入り口に「丹心碧血為人民」(人民のため誠実を賭けて戦死)と大書されている。新しい記念館で、江沢民が1990年に揮毫した古代詩の壁。
 展示はアヘン戦争、上海クーデタの犠牲者から最近の凶悪犯と闘った模範警官の遺影まで。写真パネルのなかには真の革命家だった秋瑾(日本留学、演説で日本刀をかざした烈女)、宋教仁(孫文の右腕、最初の国民党秘書長として辣腕)ら革命先駆者の展示もあった。なるほど反日一色だった歴史記念館にバラエティがでてきた。


胡錦濤の看板も延安ではあった
著者(北京スタジアム正面)
胡錦濤の看板も延安ではあった 著者(北京スタジアム正面)
中共第7大会の蝋人形
半坡遺跡入り口
中共第7大会の蝋人形 半坡遺跡入り口
毛沢東肖像がを先頭に(延安)
毛沢東肖像がを先頭に(延安)

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