西尾幹二氏の白刃は鞘に収まらない
そこら中に屯する右顧左眄の学者、通説を吠えるだけの講釈師、偏執的学説に固執する徒らを片っ端から切り捨ててゆく西尾氏の白刃(はくじん)は鞘に収まらない。抜き身のままである。
激甚な思想書としてこの本を通読した後の印象である。
本書を読み始めたのは国電のなか、思わず引き込まれてしまい、あやうく目的地の駅を乗り過ごすところだった。
導入部分が意想に反して難解ではなく、怪しくもなく、語りかけるようなイントロは変調の講談風、すぐにとけ込めるのは筆者の凄惨なほどの筆力の冴えによるものだろう。
多くの読者同様に(ト勝手に想像するのだが)、本書の題名、副題、カバーの惹句をみたとき、私の脳裏に去来したのは小林秀雄『本居宣長』だっだ。
小林秀雄の『本居宣長』は、書き出しこそ「鎌倉の駅頭にたってふと松坂へ行こうと思った」から風の旅人のようにふらりと宣長に縁の深い場所へ詣でる歴史の旅が始まるのだが、それからが難解極まりなく、じつは私は小林秀雄の『本居宣長』を二回読んで、ちっとも咀嚼出来ず(つまり国学前史に遡っての素養がないと小林本は難しく、あれは「オカルト的」というのが負け惜しみ的な感想だった)、挙げ句に読後感といえば「山桜花」。
むしろ松坂の宣長旧居跡を見学したおりにライバル上田秋成の「敷島の大和心となんのかの胡乱なこともまた桜花」という狂歌が、やけに印象に残った。
ともかく西尾幹二氏の新刊もきっと難しいに違いないという名状しがたい先入観があった。
早々と入手した本書だったのに、導入部を読んだ後、面白そうという熱い期待感を脇に、仕事に追われてページをあける時間がなく、ついには中国取材に八日間ほどいくので、旅先のホテルで読み繋ぐことに決めて鞄のなかに仕舞ったのだった。
もうすこし脱線がつづく。
いつ取材に行っても新鮮なおどろきが連続する中国。
一月下旬から二月にかけて、華南の地を廻った。香港からいきなりマカオへ渡り、孫文の故郷でもある中山から、華僑の故郷・江門、開平、それから仏山経由で広州へ入り、恵州から深セン、最後に香港へ舞い戻って帰国。八泊・九都市。
華南の各地は爆発的な経済発展、あらゆる場所が普請中である。
ふと脈絡もなく、江戸と、いまの広東のダイナミズムには、なにか共通性があるだろうか、と考えた。
広東の繁栄、建築ブームの醍醐味、超満員のレストラン、庶民の生活の向上など。その経済という物理的側面の凄まじいダイナミズムに遭遇しながらの旅行中、本書のなかに演繹されるダイナミズムのほうも、すこしづつ読み進めて、最後は広東省の恵州から深センへ向かう長距離バスのなか。恵州・西湖はかつて蘇東波が感嘆して多くの詩をのこした風光明媚な景勝地である。
その西湖の湖畔の柳の下で読み続け、最後のページは珠海デルタ地帯を突っ走るバスの中。一方では左右の景色はにょきにょきと林立する摩天楼やら、迅速な開発が進んだ工業団地、マンション群、瞠目するべきショッピング・アーケードのまばゆさ。
(嗚呼、それにしても“脱中華文明”の中国の都会には、なんと美がないことか!)
そうした繁栄のぶっきらぼうな景色を眺めながら本書を読み進めると、対照的な静けさをもつ、この『江戸のダイナミズム』が醸し出す美しい日本の力強さは、時空を超越し、思考の空間がいとも簡単にタイム・スリップするのだ。
こんな記述が中国と日本を比較してある。
それは儒教を発見した西洋人のくだりである。加地伸行氏が「沈黙の宗教」と比喩した、この中国特有の道徳律は、布教活動がないために西洋人は長い間、存在すること自体に気が付かなかったと西尾氏はいう。
「孔子は宇宙の開闢という神話的哲学的テーマに口を閉ざして」いるため、西洋人は、見逃していた。ただし大航海時代の冒険者らは、世界のおいたちに関して、「孔子が語らなくても、中国には特異な考え方が存在する」事実に気が付く。それは「キリスト教の神による創造の思想によく似た思想は存在しないことをあらためて確認する」(368p)。
そして。
東西交流の歴史上、マルコ・ポーロとならぶアテオ・リッチ(イエズス会宣教師)が登場、かれが「中国の哲学や宗教の中心が儒教であることを発見」するのである。
というのも従来の西洋からの観察者は表向きの寺院や僧侶に関心を抱くけれど、「毎日の勤行や葬送など、仏教の活動であって、政治と密着し、日常性格の内部に食い込んでいる儒教がキリスト教に対抗しうる国家宗教であることを西洋人が理解するまでには、それなりの時間の経過と、知性の出現を待たねばな」らなかったからである。
なぜなら儒教には、
「祭祀や僧侶がいない上、掟も戒律もなく、高位聖職者もいない」。古代より中国の信仰は「天」にあるが、これをリッチは「キリスト教が布教していく上で、儒教と折り合いをつける唯一の接点は『上帝』信仰にあると考える」に至ったのである。
私は広州の町中で、キリスト教の教会がたくさんあるのを見た。いや中国沿海部のいたるところで、キリスト教の教会を観察してきた。
華僑の故郷の江門、開平から、奥地の豪邸群が残る田舎町で、偶然みたのも西洋式の結婚式だった。
とくに華南から華中にかけて、アヘン戦争前後から、いかに中国人がやすやすとキリストに改宗できたのか。長い間、疑問だった。
(そうか。そういうことか)と妙に得心できる。あれは改宗ではなかった。
同一軌上の信仰だった。「天」の信仰があまねく拡がっている中国(かの無神論者毛沢東の詩ですら「天」がでてくるように)では、キリスト教は受け入れやすく、日本では古事記日本書紀の神話が、戦後はなかば否定されたかにみえても、古代の神話が日本人の見えない生活の中で、まさに神道は布教しなくとも、脈々と生きて現代人に繋がっており、キリスト教がなぜ拡がらないか、分かるようではないか。
実際に中国のホテルで時間ができると『江戸のダイナミズム』を少しずつ読み継ぎ、西尾氏が提示する知的世界の広さを中国的な空間の中で描いていた。
本居宣長もニーチェも、いやプラトンやソクラテスさえも同時代人のように親しみを感じながら読めるのも、奇妙な体験だった。
「平成の本居宣長」とは?
前置きが長くなった。
本書は近年の読書界を震撼させる爆弾を抱えた傑作である。
(ダイナミズムという表題にはダイナマイトも含まれている?)
哲学的論争と文献学的論争と、国語学的論争を多層に輻輳させながらも、くわえて場面はソクラテスからニーチェ、ヤスパースへ飛んだかと思いきや、平田篤胤、北畠親房、山鹿素行。縦横無尽に登場する人々の思考の多様さ。
『諸君!』に足かけ四年に亘って連載され、さらに加筆、索引、注の作成に二年を費やされ、「平成の本居宣長」と銘打たれての上梓だが、その労苦を思わざるを得ない。
本書の構成は第一部と第二部に別れ、第一部は議論の前提となる「文献学」に多くが費やされる。
登場する人物は「儒学者系列」は藤原せいか、林羅山、中江藤樹、山崎闇斉、山鹿素行、熊沢蕃山とつづき、同時に「国学系列」の契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、上田秋成、新井白石など。
ここで儒学と国学が二大潮流として登場し、巧みな筆裁きで整理され、その江戸における思想対立、思想の深化などの対比がなされるのは当然にしても、本書はそこから、いきなり世界史的パースペクティブを拓くのである。
同時代の中国の学者(黄宗義から康有為)から西欧の学者、思想家(ヴィーコ、グリム兄弟、ニーシェ、ブルクハルトなど)が飛び出してくる。私たちは世界史の視野から思想の遼乱をながめることができる。
戦後歴史教科書は「江戸」が反文明的で暗く、西欧に遅れており、文化度もひくいなどと教えた。
近年、それは逆であって江戸時代の日本は世界に抜きんでた文明と文化、そして経済力を誇ったことが、あらゆる方面で立証されている。葛飾北斎や写楽が、西欧の画家にどれほど深甚な影響をあたえたか。
武家政治も随分とあしざまに言われたが、近年は武士道が見直されてきた。
西欧や中国のように暴君が独裁をふるう政治ではなく、日本の武士社会では、主君が「暴君や暗愚の殿様で出てきたときに、これを排除するために『主君押し込め』の構造があった」(中略)
「江戸、大坂の巨大市場が成立し、徳川幕府の安定政権の下で貨幣経済が整備され、何よりも自前の貨幣鋳造が行われました。金銀銅の大産出国であった我が国は、銅の貨幣を中国、東南アジアその他に輸出するほどでした。かつて宋銭を輸入することで経済圏を中国に奪われていた日中の立場は逆転し、日本の銅銭に中国の経済が依存するようになっていました」と、西尾氏の視座は経済学の考察にもおよんでいる。
こうした何気ない挿入も、従来の概念を徹底的に破壊する。
田中英道氏によれば、江戸の遙か以前、シナ大陸におくった遣唐使、遣隋使のことばかりを日本の歴史教科書が力説してきたが、じつは中国から日本に留学にきた「遣日使」のほうが数も多く、しかも多くの学僧が“日本のほうが良い国”として帰らなかったという。
重大命題は「いまの価値観」で当時を推し量る愚
西尾氏はこうも言われる。
「いかに江戸時代は躍進する時代であったか、もはやことさらに言い立てるまでもないが」、従来の「歴史教科書の記述と歴史教育学会の意識は、いまの知識の先端のレベルからいかに遅れていることか。古くさい情報、黴の生えたようなマルクス主義の理念にまだ囚われているせいではないか」と激しく固定観念を批判する。
乱麻を断つ白刃。
まして江戸と明治のあいだに「断層」はなかった、と西尾さんは結語、江戸時代は厳密な封建社会でもなかったのではないか、と問いかけて下記の重大な「命題」がでてくる仕組みになっている。
「江戸時代を暗い前近代として否定的に描出することも、明るい初期近代として肯定的に評価することも、われわれの現在の立場や価値観を江戸時代に投げかけて、現在からみての一つの光景を作り出している結果といえないこともありません。しかしほんとうに江戸時代を生きていた当時のひとびととは、いまのわれわれの立場や価値観を知る由もありません(中略)。江戸時代の歴史を知るには、あくまでも完結した一つの閉鎖状態の人間の生き方をそれ自体として知るようにつとめ、明暗いずれにせよ現在のわれわれの立場や価値観の投影によって固定的評価に陥らぬように気を付けるべきです」
さて細かな話を飛ばして、江戸の安定期に、なぜ本居宣長がでてきたのか。
それまでの体制御用、官製の儒学を乗り越えて、自立する思想家、国学の巨星がどういう時代背景から飛び出したかが、さらりと語られる。
宣長論が本書の肯綮である。
日本の神道は「自然なかたちで習合する思想」なれど、自立して闘う理論が弱かった。
「本格的に思想家として自己防衛したのは本居宣長一人であった」
「宣長が『遠い山』と言った、肉眼ではよく見えない日本人の魂の問題は、ますます現代人の知性の限界からかけ離れて、どんどん果てしなく遠くへ逃げ去っていくように思えます。そういう時代にいまわれわれはあるといえないでしょうか。日本人の魂の問題を守ろうとした宣長の守勢的、防衛的姿勢は、日本人の主張のいわば逆説的スタイルとして、いよいよ必要とされる時代になっている」(227p)
本書の冒頭部分には長い文献学の説明がなされていることは述べたが、何故といぶかしむ読者がきっと多いだろう。これは後半の謎解きへと結節してゆくために読み落とせない前提なのである。
キリストにせよ、儒教なるものにせよ、いったいイエスや孔子は本当のところ、何を教え、どういう中身を生徒らに喋ったのか。
それはソクラテス同様にテキストが残っておらず、弟子達が孔子の教えとして数百年の歳月をかけて解釈をひろげていく裡に、大きく解釈の異なる流派がうまれ、儒学は侃々諤々の学問的論争と発展し(その実、学閥・セクト間の闘争でもあるのだが)、体制御用や反政府的な学閥がうまれ、集散離合し、主導権争いが産まれ、権力に近づき、あるいは疎外され、弾圧され、希有の運命をともにした。
『聖書』、『大学』『中庸』は、誰が書いたのか
キリスト教にしても本当は誰が聖書を書いたのか。しかも聖書の原文はギリシア語で書かれているのである。
マルコ伝とロカ伝と、ほかに幾多の伝説が習合された聖書も、しかし、ローマ、ヴィザンチンに別れ、いや東方教会も流布した先の土地の伝統や習俗が加味されて、たとえばアルメニア正教、グルジア正教、ロシア正教となり、西欧では魔女狩り、ルターの宗教改革、英国国教会派、ピューリタン、プロテスタント。そしてモルモン教まで。
そして二千年もの歳月の間に英語、スペイン語、ロシア語の聖典が現れ、聖書は日本語にもなった。
それらは原文にある(筈の)、本当のイエスの教えからほど遠いものではないのか?
だからこそ文献学がきわめて重要であり、学問の出発点であると、本書では何回も力説される。
この箇所を読みながら、じつは本書にまったく出てこないイスラムを思った。
コーランは、いまでもアラビア語で読まなければ正当なイスラム教徒とは認められない。原語に忠実でなければ解釈が分かれるからであり、そのためイスラム教徒のなかでも高僧をめざす人々はインドネシアであれ、フィリピンであれ、アラビア語を習得し、コーランを学ぶのである。
翻訳に頼ろうとしないほどの苛烈熱烈な原義への欲求は西蔵法師が仏典の原典をもとめてチベットへ危険をかえりみずに冒険したように。
西尾氏は文中にさりげなく次の文言を挿入している。
「不思議に思えるのは、日本の儒教や仏教に文献学的意識が永い間殆ど認められない点です。江戸時代も中期、荻生徂徠(そらい)が古文辞学を唱えるまで、経学を孔子以前に遡って考え直すというテキストへの懐疑が日本の文化風土の中に一度でもあったと考える」のは難しいだろう、と。
本書に展開される具体的議論は、読者それぞれが熟読しなければ、次のステップにいけないが、ここで網羅的な紹介をおこなうつもりはない。
本居宣長と上田秋成の論戦の箇所は面白く、また赤穂浪士をめぐっての官学と民間の儒者らの論争も、今日的で意義深く、またそれらの記述を通じて、西尾さんが新井白石にやや冷たく、荻生祖来を高く買っていることもわかる。
それは次のような記述からも。
「悪しき官制アカデミズムの独裁者のような林羅山とその一統の権勢。君臣関係を主人と奴隷との関係と見て絶対の忠誠心を朱子学の魂とする山崎闇斉とその門人六千人の社会的圧力。朱子学の理念と武士道という思想的に相違するものを一元化し時代に都合のいいイデオローグを演ずる室鳩巣。いつの世にも外来思想と日本の知識人との関係はかくのごとし」。
だが、「新井白石と荻生徂徠はやはり群を抜いた例外」であった。
白石は将軍のブレーンであり、国際情勢に理解のある学者だが、じつは朱子学をさんざん学び、それに染まらずに却って距離をおいて日本歴史の研究に没頭した。山崎闇斉のように朱子学の徒は手ぬぐいも赤く、という徹底した“唐かぶれ”ではなく、冷静なまつりごとを確立するために、朱子学の科学的合理的なところを抽出して江戸幕藩体制の安定に用いた。
対照的に萩生租来は日本史に興味がなく、中国の学者以上に中国学を知っていたが、やはり儒学の熱気(というより狂気)にはおぼれず、巷の熱狂的情緒を押し切って、法治のためには赤穂浪士に切腹を迫ったように感情論には組みしなかった。君臣の序列のなかに「個」を主張した。
つまりは中国と日本は儒教をめぐって、こうも違うのである。
こうして新井白石と荻生徂徠に割かれたページはきっと本居宣長より多いだろうと思われるのだが、朱子学が江戸の御用学問となった一方で、江戸の革命の哲学となった大塩平八郎の陽明学が、この本で論じされないのは何故だろう。
いや、抜き身のままの西尾さんの白刃(はくじん)は、それこそ陽明学という鞘を求めているのではないか。
本書は小林秀雄『本居宣長』以来の大作であることの間違いはなく、本書のカバーに添えられた「平成の本居宣長」という惹句はそういう意味でもあるだろう。
(『江戸のダイナミズム 古代と近代の架け橋』は文藝春秋発行。2900円)。
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