辛口コラム

書評その10
石原莞爾を遠景において、昭和史の激動を人間模様で描く
波瀾万丈の歴史を冷徹に冷静に考証学的に叙した傑作

田中秀雄著 『石原莞爾の時代』(芙蓉書房出版)

『石原莞爾の時代』

 二日がかりで読み終わっての第一印象はと言えば、これを小説にしたら、もし北方謙三あたりがノベライズして近代の『水滸伝』のように日本と中国を股にかけた大陸浪人、東洋のマタハリ、匪賊と強盗団、対照的な満鉄エリート、理論家、国民党、共産党、その間隙をぬうスパイ、悪徳商人。なんとも波瀾万丈の人生が描かれるのではないかと思ったのは、チト読後感としては不謹慎かも知れない。
 満州浪人を題材にとった活劇的な小説はやまほどあるが、小生が最高傑作と思うのは壇一雄『夕日と拳銃』(伊達順之助がモデル)。また当時の政治社会情勢がビビッドに描かれているのは松本清張の絶筆となった『神々の乱心』(文藝春秋)だ。
 (松本は歴史観が左翼だが、遺作はなかなかの傑作です)。

 さて本書は石原莞爾を主人公と題しながらも、石原は遠景にある。
 生き生きと本巻で描かれるのは周辺にいて石原と深く交わった黒龍会の内田良平であり、仏教の碩学・田中智学であり、戦後ベストセラーを書いて参議院議員にもなった辻政信であり、板垣征四郎であり、川島浪速であり、大川周明である。ほかに戦後も活躍した木村武夫もでてくる。岸信介もちょっと顔を出す。みんなそれぞれが単独で小説の主人公になる一癖二癖の持ち主。佐野真一が書いた甘粕なんて比じゃないって。
 大設計図をもとにして満州の国家経済を設計した影の主役は宮崎正義であり、裏面では中国人コミュニティへ深く関与して誠意と理想のために奔走して死刑になった伊達順之介であり、孫文を助け、最後には孫文に裏切られて散った多くの血気盛んな日本人の物語である。
 それにしても本書に宮崎正義がでてくるとは思わなかった。(宮崎正義に関しては小林英夫『日本株式会社を作った男』<小学館>に詳しい)。以前、小生が金沢出身と聞いて、「もしかして、宮崎正義さんのお子さん?」と問われることがあった。石原莞爾と小林正義は昭和五年頃に満州で知り合った。宮崎はハルビンに長くあって、ロシア語を苦もなく操ったという。この昭和を駆け抜けた偉人と小生とは縁もゆかりもない、単に郷土だけが同じという関係だが。。
 そういえば国民党幹部からは二十年ほど前に台湾へ行くたびに、「宮崎滔天先生のご親戚か?」と聞かれて苦笑したこともある。(この宮崎三兄弟とも無縁です)。
 ともかく第一章の主人公は石原でありながら、実際は内田良平のことに収斂されている。

 第二章の「シュンペンター」では、小生まったく知らなかった事実が叙されている。
 シュンペンターと言えば、ケインズとならぶ経済理論の祖にして、ルーズベルト大統領の対日政策に真っ向から反対した大経済学者、若き日に何冊か読んだ記憶があるが、夫人のエリザベスが、満州の経済と産業の研究家であり、しかも満州建国に肯定的であり、ルーズベルトを批判していたとは知らなかった。
 昭和十七年に彼女の編著の翻訳が半分、日本でもでていた。夫妻の遺言によって戦後、シュンペンター夫妻の膨大な蔵書が、はるばる海を越えて一橋大学に寄贈されていたことも初めて知った。



満州の荒野に追い求めた浪漫はあったのか
戦後忘れられてしまった多くの逸材の奇跡を克明に追う力作

田中秀雄著 『石原莞爾と小澤開作』(芙蓉書房出版)

『石原莞爾と小澤開作』

 かなり以前、遠藤浩一さんの『小澤征爾 日本人と西洋音楽』(PHP新書)を書評したときに、この世界的な指揮者である小澤征爾の父親(小澤開作)に関してすこし触れたことがある。昭和四十五年十一月二十二日に小澤開作さんは亡くなった。余生はじつに静かに、市井に埋もれて歯科医をつづけた。氏の逝去の三日後。驚天動地の三島由紀夫自刃の大事件だった。奇しくも小澤氏と同じ日に京都産業大学の創設者のひとりで、昔の岩畔機関のボス=岩畔豪雄氏が亡くなり、「なにか、たいへんなことがおこるのではないか」と当時の学生運動の指導者・矢野潤氏(故人)と囁きあったことがある。
 いまから四十一年前、小生が二代目編集長をつとめることになる、『日本学生新聞』は、創刊号に林房雄、三島由紀夫らの祝辞をいただき、また名刺広告に矢次一夫、小澤開作、岩畔豪雄ら各氏の名前がならんだ。初代編集長は持丸博、日本学生同盟委員長は斎藤英俊だった。

 満州という歴史を思えば、創刊号に並んだ名前は錚々たる羅列なのだが、無学な小生にとって当時の知識はまことに曖昧で、小澤開作は満州の活動分子、満州浪人の親玉とか言われていたこともあって、せっかくのチャンスが山のようにあったのに積極的に近づこうという気持ちが薄かった。満州のことを私はすこしも理解してはいなかった。
 そのときの鮮烈な記憶は小澤征爾の命名は「板垣征司郎の「征」と石原莞爾の「爾」とから取った」という由来を聞いたことだけである。
 昭和四十四年だったと記憶するが早稲田祭で「偉大なる満州帝国」を展示することになり、当時の早稲田国防部の幹部らが、あちこちに走り回って資料を集めたり、談話を取ってきたりした。山口重次も小澤開作も元気だった。当時の満州に関しての早稲田祭への記録は三浦重周遺稿集第二弾『国家の干城、民族の堡塁』のなかに資料抄録した。
 ともかく小澤が石原と活躍する満州での物語の副主人公であることに奇縁を感じる。

 さて石原莞爾とならんで小澤開作は満州の荒野に浪漫を求めた日本男児の典型、破天荒なエピソードに事欠かない。ある日、北京の小澤邸にやってきた小林秀雄は応接間に飾られた壺を「こいつぁ偽物だ」と言って叩き割った。
 小澤にしてみれば、中国人から貰って「偽物と分かっていて」飾っていた。そこには政治的意図があったが、美の真贋を追求する小林から見れば飾る価値のないものだった。
 林房雄は、やはり何回か満州視察へ赴き、昭和十七年、満州建国十周年記念会でも式典に招かれている。やがて林は『青年の国』という長編小説を書いた。

JFKの弟にベトナム戦争で直言した小澤開作

 戦後のエピソードはロバート・ケネディの来日時にとった小澤の行動である。JFKの弟である、ロバートは暗殺さえなければ、米国大統領に一番近い距離にいた。小澤はロバート・ケネディに面会を求め、当時のベトナム戦争に直面した米国の危機が、日本の体験した満州の苦い経験に酷似する様を建白した。
 「今日のベトナムの様相からすれば、この政策実施を政府官僚にゆだね一片の政令を以てしては、金も物資も人民の手に届くまでに中途で消え失せてしまう可能性がある。(中略)事態をよく理解し、真に人民を愛し、人民と共に苦楽をともにしうる奉仕的人物を(米国はベトナムの指導者に)選び、これらの人々に委ねることが政策の正否を決める要諦である」として、小澤は『ベトナム戦争解決への私見―――日本も協力し得るならば』という冊子を創ったという(本書268p)。

 満州建国の思い入れと、日本のぐうだら官僚の身勝手な政策と、そして担当者が満州をまったく理解していない様を、小澤は山口重次とともに嘆き、何回か日本に遊説旅行を繰り返した。
 同じ頃、内田良平は名著『支那観』のなかで、シナ社会を三つに分類し、『政治社会』『普通社会』「遊民社会」にわけ、ほぼ全てを否定的にみた。
 小澤は「普通社会」を評価し、これを「良民社会」と定義し直した神田正雄というジャーナリストの説に共鳴したと著者の田中秀雄氏は言う。
 現代に当てはめるとすれば、「政治社会」は共産党エリートの支配層、「遊民社会」は遊牧民と農業従事者と落ちこぼれ。そして「普通社会」とは一般の人々、つまり善良な、まっしぐらに生きている人々であるが、当時、現地を視察したジャーナリストの神田はこれを肯定し、山口も小澤も肯定的に見ていた。内田良平は、政治が指導して『良民』さえを操る以上、そこに救いを見いださなかったということだろう。
 内田には頭山満や宮崎滔天三兄弟などのように晩年日本を裏切る孫文に対して最後まで面倒をみた。内田は冷静に孫文のペテン師的要素をみぬき、早い時点で孫文から離れていた。
 小生にとって興味の尽きない本書だが、一般読者は満州の基本知識がないと、なかなか咀嚼できないテーマを追求している。


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