辛口コラム

書評その22
執念籠めて練り上げられた三島文学論の決定版
あり得ない現実が詩であるなら三島は文学を愛し、かつ憎んだ


佐藤秀明著 『三島由紀夫の文学』(試論社)

『三島由紀夫の文学』

 読書の方法にも様々な遣り方がある。
 二度も三度も読む。行間を読む。書き写す。暗記するほど読む。キィワードだけの拾い読み。速読等々。
 しかし、この著者にとって三島の小説の読み方は「精読」を越えたレベル。精密な調査目的、比較研究、文章心理学というよりも、DNA鑑定のような、或いは血液検査のように、そうそう平塚八兵衛の捜査のように靴をすり減らして歩くがごとく、幾重にも厳重な読み方をしているのである。
 裏からも読み、斜めからも読むと比喩してみたいほどだ。いやはや。本書を読むほうも疲れる。だが、楽しい疲れを覚える。

 三島文学研究の第一人者である佐藤秀明教授は、われわれに替わって、しかもどんな三島ファンの蘊蓄をも越えて精密に創作ノートと未発表の処女作やメモにあたった。全集におさめられた大学ノートの「取材ノート」はホンの一部である。
 それらを精密に比較検証して、執筆時点での三島の心理までを想定し、創作ノートとの乖離を探り出し、客観的なうえに重層的な考察を試みた。はたまた多くの謎の真相を抉る作業が進められた。これらに費やされたであろう夥しい時間を推定すると、その研究への凄まじき執念がうかがえる。

 嘗て三島のあらゆる文章を、全集で確定するに際して、田中美代子氏は雑誌発表時、初版、再版以後、そして文庫にそれぞれあたり、初出以後の書き換えまで精密にトレースされた。凄い作業だった。
 なぜなら作家はふつう、文庫収録に当たっては必ず読み直し、若干の字句の訂正をおこなったりするからである。

 ところが、山中湖の三島文学館に遺族から寄贈された膨大なノート、メモ、日記を歳月をかけて、ひとつひとつミステリーのように謎を解きつつ、続けられてきた佐藤教授らの気の遠くなる作業の成果は、従来の三島文学の研究成果を劇的に高め、もっと深めた。
 さきに井上隆史氏の研究の成果により、わたし達は三島の処女作が従来の説とは異なり、少年時代の夥しい詩作の存在も知った。榊山保のペンネームで書かれた切腹小説も三島が書いたと断定された。三年つきあった愛人の実名も知った。
 こんどの佐藤教授の作品は、おなじ研究仲間として、その井上説をふまえている部分も多いが、精密読書の研究成果はほかにも色々と現れた。

聖セバスチャンの絵画は二枚あった

 さて本論に入る。
 すくなくとも評者(宮崎)が佐藤教授の研究を通じてはじめて知った事実がいくつもある。
 第一は『仮面の告白』にでてくる聖セバスチャンの絵画だが、じつは二枚存在し、それらは弓矢の位置が違う。えっ、そんなことがあったのかと驚かされた。細江英公のモデルになった薔薇刑は、どちらをモデルとしたか?

 第二は、『潮騒』の創作ノートまで、つまりそれ以前の作品の取材に風景描写がすくなく、構想の下書きが主であったこと。観念を越えた取材ノートが躍動しはじめた『潮騒』はやがて商業的にも成功したが、それでも「海の匂いがしない」という酷評があったこと。
 伊藤整がなぜか先輩ぶって三島をかなり軽く評価している事実も、この本の行間から読めた。

 第三は『宴のあと』のモデル事件の後始末のことだ。この都知事選挙と料亭のおかみの艶聞をめぐって、三島が訴えられた裁判も、有田八郎がモデル化されて『宴のあと』が完成したわけだが、閨(ねや)のことを書かれたとして、「プライバシー裁判」となったことはよく知られる。
 ところがノートなどから三島は有田にも取材しており、モデルの了解をえていたこと。閨のことまで詳しく知り得たのは、じつは有田の参謀の小森を通じてであっとこと、これらは裁判では表沙汰にならなかった。

 第四に『奔馬』で飯沼勲が暗殺する、腐敗した財閥・蔵原武人のモデルを池田成彬とする説が定着していたが、佐藤教授は井上準之介の可能性についても言及している。「三島が井上を意識して蔵原を造形したのではないかと思わせる」フシが、あの時代を振り返ると多いとの指摘も頷ける。

 それにしても最後の遺作となった全四巻の『豊饒の海』に関して、三島の最初の構想から、実際の執筆段階での巨大な変容のプロセスを追う作業は圧巻である。
当初から輪廻転生は半信半疑であったのか、途中から輪廻転生が疑わしいストーリィ運びに変えたのか、最終巻で安永透という輪廻転生の「偽物」の登場はいつどこで、想定されていたのか等々、興味津々。

『海に行っても海がない』のが三島文学

 佐藤は創作ノートと実作との乖離にその謎を求め、とくに最初の構想ではなかった印度ベナレスへの旅行が、輪廻転生のプロットつくりの原案と実際の原稿とのあいだに巨大な影を落とした事実を突き止める。

 そして佐藤は言うのである。
 「三島由紀夫の文学は現実の許容しない詩」だが、それは「たとえ海に行っても海がない」ように、三島は強くたくましく「文学を愛しながら文学を憎んでさえいた」と大胆に言う。

 その結語に至る佐藤の論考は「詩」である。
「『天人五衰』には、自分を絶世の美女だと思いこんだ醜い狂人絹江が登場する。絹江には『醜い』という現実は存在しないから、彼女は<詩>を生き続ける。そういう絹江の<現実>は、誰の保証も必要としないが、毀すことのできるただひとりの透は、彼女を美しい女として恭しく扱い、(透が自ら)失明することで絹江の一部になってしまう。こうして絹江の<詩>はしたたかに生き延びる。(中略)<現実が許容しない詩>が<現実>であるという堅固な一元性しかない」

 これと酷似した比喩を三島は『春の雪』で月修寺の門跡が語った法話として挿入させていたと佐藤は指摘する。
それは次の箇所である。

「名山高岳に仏道をたずねて歩くうち、たまたま日が暮れて、塚のあいだに野宿した。夜中に目を覚ましたところ、ひどく咽喉が渇いていたので、手をさしのべて、傍らの穴のなかの水を掬(むす)んで飲んだ。こんなに清らかで、冷たくて、甘い水はなかった。又寝込んで、朝になって目が覚めたとき、あけぼのの光りが夜中に飲んだ水の在所を照らし出した。それは思いがけなくも、髑髏の中に溜まった水だったので、元暁(僧の名前)は嘔気を催して吐(もど)してしまった」

 この場面を解説して佐藤は言う。

「元暁は清水という<現実が許容しない詩>を生きたのだが、髑髏の中の水という現実の前に、<詩>はあえなく潰える。本多の興味は『悟ったあとの元暁が、ふたたび同じ水を、心から清く美味しく飲むことが出来たろうか』という点に拡がる。これを美味しく飲めば、現実を知りつつ、<現実が許容しない詩>を生きることになる」
 『美しい星』の暁子も、『天人五衰』の絹江も<詩>を生きた。
 そして「それもこころごころですさかい」と最後の場面で門跡は松枝清顕の存在さえを否定する。

 かくて佐藤秀明氏はこう書くのだ。
「三島由紀夫の小説は、<詩>への批評から始まった。三島は少年時代の詩を否定し、しかし<詩>は生き延び、背理である<詩>こそが現実であるという小説も書かれ、『豊饒の海』に至った」

 (佐藤秀明『三島由紀夫の文学』は試論社刊、4500円)

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