河内孝氏は新聞記者出身で、「毎日新聞」中部本社代表の前はワシントン支局長、その前は政治部記者。青嵐会の担当だった。
夜討ち朝駆けで中川一郎や渡部美智雄、石原慎太郎、浜田幸一各代議士のオフィス、自宅とへ通った。だから青嵐会の主要メンバーらの秘話が夥しく出てくる。
ともかくあの時代の政治家には、いまの小泉チルドレンとか、小沢チルドレンなどが持たない、というより現代日本人から失われた「何か」を持っていた。小泉のカイカクとか、ハト某の「友愛」とか、ふやけきった科白の前に、改憲に血判をして命がけで田中政治の巨悪と闘った野武士集団がいた。中川一郎、浜田幸一、渡部美智雄、石原慎太郎、中尾栄一、藤尾正行、玉置和郎、中山正輝等々。
河内氏はこう書く。
「あらためて青嵐会の主張や行動を跡づけてみると、それらが今日的な政治テーマと幾重にも重なっている」、「血判による衝撃的な誕生、そして気がつくと、真夏の通り雨のように消え去っていた青嵐会。六年足らずの活動が派手だっただけに、その幕切れは、意外なほどあっけなかった。昔から政界に議員グループは数多くあったし、いまもある。しかし自らを『行動集団』と称し、名に恥じず、というより、名前の方が恥じ入るほど暴れ回ったのは青嵐会」だった。彼らは「何時でも口角泡を飛ばし、胸ぐらをつかみ合い、灰皿や瓶を投げつけ、野蛮な極右とメディアに酷評された。70年代半ば、戦後政治史上未曾有の熱さと厚かましさで一躍脚光を浴びた政治集団『青嵐会』。いま、政治に求められている{なにか}が彼らにはあった。太く、短く、謎多きその奇跡」を本書は雄渾な筆致で描く。
暴れん坊? 政治は暴れるのが本質ではないのか。
河内氏は青嵐会中核メンバーの交遊を通して時代的役割を追求するとともに、当時の交友関係のみならず、いまや「青嵐会の世襲議員」が十一人もいて、その息子たちを訪ね歩き、思い出や貴重な資料を集めるほど強い思い入れといわく言い難い執念がある。底辺に漂うのは彼らへの哀惜である。
いきなり青嵐会出生の秘密に迫り、血判への経緯をたどるが、血判状の実物の写真まで登場する。原簿は見たことがなかった。誰が保管していたのだろう?
じつは評者も雑誌編集者時代に青嵐会のメンバー全員にインタビューして『青嵐会』『続・青嵐会』の二冊を上梓し、多くの文化人を発起人に頼んで「青嵐会を励ます会」も組織し、武道館の国民集会でも裏方を務めた。評者の息子は中川一郎氏が名付け親となった。それゆえ三島事件のあとの数年間は、青嵐会に大きな期待を寄せたのは事実であり、代議士連中ばかりか、その秘書軍団とも酒を酌み交わし、交遊した。選挙応援にも新潟、鹿児島、千葉などへ行った。北海道には三回ほど行った。本書にも評者の談話や拙著からの引用など数カ所あって当時の思い入れが行間からわき出してくるようだった。
そして「真夏の通り雨のように」青嵐会は消え去り、中川一郎は自裁した。中川派は衣替えして「石原派」となり、やがて清和会に吸収され、代が変わり、永田町で改憲をいう正気の政治家は数えるほどとなった。精神よりカネ、自立を忘れ、他国に依拠し、歴史を自ら破壊し、魂がガランドウになった日本の政治へのアンチテーゼだった青嵐会。その行動の軌跡を懐かしむだけでは済まされない。いや忘却の彼方にあった、この野武士集団の軌跡を蘇生させて政治の本義の再考を促すという意味でも本書の意義は深いものがある。日本の政治史において一定の役割を果たした青嵐会を、これまで本格的に研究した書物がなかっただけに本書は同時に第一級の史料たりうる。
本書を読むと「なぜ、いまの日本の政治家は物足りないのか」が納得できる。また本書の重要箇所は三島由紀夫が青嵐会にあたえた間接的ながら甚大な思想的影響力を、時系列に考察しているユニークな場面である。
(この文章は拓殖大学日本文化研究所季刊誌『新日本学』、09年秋号より再録です)。
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