辛口コラム

書評その28
歴史の空洞的な空間から、忘れられた「風雅の帝」が蘇った
裏切りと乱暴・狼藉の中世を突風のように駆け抜けた男たちの虚無を描く大作


松本徹著 『風雅の帝 光厳』(鳥影社)

『風雅の帝 光厳』

 稀にしか味わうことの出来ない寂寥と哀切。読了ののち、一言の感想をいえば、歴史の寂しさ、絶望、生きとし生けるものの冷酷さと残酷さである。そして全編に漂う容易ならざる虚無。いやこれこそが日本人の情感なのか。
 世に『風雅和歌集』を残した教養人、歴史に翻弄され、運命に超然として和歌と禅にかけたミカド。光厳(こうごん)天皇といえば北朝一代、そして北畠親房『神皇正統記』によって固められ、後醍醐天皇の建武の中興が是とされた南朝史観により、歴史から抹殺された悲劇の帝である。
 『太平記』では後醍醐天皇と楠木正成、新田義貞らが英雄である。「太平記」は儒教的道義と秩序ならびに仏教的諦念とが交錯し、乱に死んだ人々への鎮魂歌にもなっているが、この『太平記』においても光厳天皇に関する記述は少ない。
以後、北朝五代は皇統譜から削除され、後醍醐と尊氏と正成の物語は人口に膾炙したが、この物語の主人公である光厳帝は殆ど語られることがなかった。比較的公平に書かれた『太平記』とて歴史好きの教養人いがいは誰も読まなくなった。
驚くべし、日本人の歴史意識の劣化。
 飲み屋街から流しのギターが消える遙か以前、トーキーの時代にすでに『太平記読み』(講釈師)は消えていた。辻々に立って独特の調子にのせて語られた太平記の名文の数々は昭和唱歌に活かされたのだが、あの時代は遠く彼方へ去った(たとえば「三平線の花と散れ」、「花は吉野に嵐吹く」、「軍紀を守るもののふ」等)。

 ときは中世、高師直、佐々木道誉などの婆娑羅大名が輩出し、世は騒擾につぐ騒乱に乱れ、戦乱に明け暮れ、騒然とした世情だった。だからこそ乱世の英雄がおもわぬ方面から出現する。
「持明院統と大覚寺統に分かれて皇位を争った末、武士たちがそれぞれの天皇を担いで入り乱れて戦いを繰り広げた」(本書冒頭)。
 後醍醐が約束を違えて退かず、武士と公家は二派に分かれ、大覚寺統に足利が反旗を翻がえすと、後醍醐は隠岐へ流された。やがて名和氏ら豪族の協力により隠岐から脱出に成功して京へ捲土重来するも、俄かの権力のあと、またもや吉野に逃れる。歴史の客観的事実からみれば、もう一方の主役が光厳帝である。

残った文献と歌から光厳院の足跡を追う浪漫の旅

 いま京都の奥路地を分け入ったところに石碑がある。
 「持明院仙洞御所跡」。
 著者の松本氏の光厳帝の事績を精密に追跡する旅は、京都のこの石碑の発見から始まる。
 「いまから七百年ほど前、正和二年(1313)七月九日に誕生したひとりの皇子が、持明院統一門の慈愛を一身に受けて育った。父は後伏見院、母は広義門院寧子で、父の弟花園院もやがて加はって、皇族としては珍しい団結に恵まれた。この皇子、景仁親王」が、本編の主人公、のち治天の君と言われた光厳天皇である。
 光厳帝は後醍醐天皇と対峙し、足利尊氏に持ち上げられ、裏切られ、つまりは武士と公家集団の右顧左眄する政治によって利用され操られ、しかし、帝は自らの強い意志をもって虚無のなかにしぶとく生きて和歌を詠まれた。
 著者は帝が育ち、もまれ、逃避行の先から、拉致同然で連れて行かれた六波羅、伊吹山、吉野と光厳院の人生の旅路を克明に追尾の旅を続ける。
そして帝の残した歌を、その土地の雰囲気と、かすかに残る遺物から、嗚呼、この土地でこの歌を詠まれたに違いない。そのときの心境はかくなるものではなかったのかと推量し、光厳の世を懐かしむ。

 光厳院は賀名生という草深き山に拉致されて二年近い隠棲を余儀なくされた。
伝説の黒木御所ちかくに華蔵院という寺があったらしく、いま訪れて周囲の景色を眺めやれば、松本氏は、この場所こそが、光厳院が残して『新後拾遺和歌集』の収められた一首、

山里は明け行く鳥の声もなし 枕の峰に雲ぞわかるる

と詠まれた土地と推定される。

 光厳帝は吉野にとらわれの身から政治状況の激変によって京にもどり自由の身となられるが、朝廷への参与には一切の関心を抱かず、ひたすら禅に邁進した。鎌倉末期より日本の仏教は宋から輸入された禅を独自に発展させていた時代だった。
 光厳院の解脱の心境はかくありなんと類推する松本氏の筆は次のように進む。
 「いまの自分は、言ってみれば、この世に深く穿たれた虚無の空洞そのもの、と思われたろう。全天地がーー天皇なり治天の君として統べた全天地が、時間もろともその空洞に崩れ落ち、呑み込まれてしまった。それも、壮大な劇的事件としてではなく、一身の安全を策した尊氏らの姑息な裏切りと、忘恩の徒どもの愚かな手抜かりと、自らの見通しの甘さ、長すぎた不在によって。。。
 拉致され拘束された苦しみから解き放たれ、ようやく京へ戻って来たらきたで、こういう苦しみを受けてなくてはならないのだ。そうしていまここで目にするすべてが、ひどく遠い。虚無の空洞の底から覗き見ているようなものであった。かって花や鳥や雲や山々を眺めていると、そちら側からこちら側へと近づいてきたし、それに応じて心を動かす己が存在が立ち現れて来て、言葉が紡ぎ出された。しかし、もはやそのようなことは起こらない。『万葉集』を読み返しても、己が歌を見返しても、空洞へ石を投げこむのに等しい」

 松本氏は旅の最後に光厳院の御陵前に立った。
「歌を拾い拾いして、声を出して読んだ。経を読むことを知らぬわたしにできる、供養のつもりだった。そうして読んでいくと、光厳院が、間違いなく時代を超えた若々しい感性に恵まれた歌人であり、かつ、過酷すぎる時代のただ中を、自らの内向性を手放さず、誠実に生き通した恐るべき帝であったと、身にしみて思い知る」のだった。
 まさに「風雅の帝」。
七百年を閲して、枯れ葉に埋もれていた歴史の闇から蘇った。

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