歯切れの良い文章、躍動的な分析、この骨太の政治評論は記念碑的名著になるだろう。
この著作の前に遠藤氏は『消費される権力者』(中央公論社)を上梓している。内容はと言えば「小沢一郎から小泉純一郎へ」。こんどは「小泉純一郎から小沢一郎へ」。(うん? ちっとも変わりばえしないのか、日本の政治は)。
冒頭から評者(宮崎)の私事にわたるので恐縮ながら、国内政治に興味を失ったのは永田町で二流の人物等がなにをどう獅子吼して、「カイカク」しようが日本の政治は停滞し、ボウフラが湧き、国民の期待を裏切り続けるだろうという見通しの下に、最後に細川連立政権が生み出すダイナミズムに政界再編をちょっとだけ期待したことがあって『新しい政治トレンドを読む』(日新報道)という本を書いた。淡い期待さえも殿様政治の優柔不断と自民社会連立という奇術のまえに無惨に裏切られ、小沢一郎は以後、権力を求めるだけの政治屋になった。
政治は力だが、力の裏打ちに愛国心があるべきであり、それがない政治家には絶望しかない。それにしても日本の政治からダイナミズムが失せ、あまりに自律の精神もなく、小生は国内政治を論じなくなった。
自民党をぶっ壊すといった小泉純一郎がなした種々の改悪と靖国参拝という浮世離れしたパフォーマンスと安倍政権が理想とした「戦後レジュームの脱却」に関心を抱いたものの、率直に言って淡い期待さえ抱くことはなかった。
そうそう、あのとき遠藤さんにも言ったのだ。「山が高ければ谷は深い。期待が大きいと失望は深い」。
それはニヒリズムではなかった
遠藤浩一氏は今年の『正論大賞新風賞』受賞。拓殖大学大学院教授。政治評論家でもあるが、三島由紀夫、福田恒在を論じて思想論争をこのむ特徴を持たれ、あまつさえ自らが演劇人でもある多芸の人。演劇で鍛えた舞台度胸があるのか、演説してもメリハリが利いている。
遠藤氏の事実上のデビュー作は『消費される権力者』だが、編集担当の平林孝氏は、夥しい名著を世に送り出した名編集長として知られた。不幸にもガンで早世したが、最初に紹介してくれたのは中川八洋氏で、その後、村松剛氏を囲んでワインを呑む会があったり、一緒に台湾へ行ったこともある。超張英氏『台湾をもっと知って欲しい日本の友へ』も平林氏に頼んで上梓して貰った。その平林氏の鑑識眼に叶ったのが前書で、遠藤さんの力量はデビュー当時から高く評価されていたわけだ。
さて本題に入る。
「民主党」なるものの本質に迫るため本書では最初に簡潔な人物評がある。
鳩山は「ブレることに痛痒を感じない」人物で「この党首には『軸』が存在しない。よくいえば環境の変化に柔軟に対応するタイプ、悪く言えば節操がない」。
また小沢は『思想にぶれがない』というのはタダの一点。国連至上主義だけがぶれないのである。
小沢には「戦後平和主義に近い発想が根底にあるために(党内左派)とも距離が近くなる」。つまり「原理なき『原理主義者』」が小沢である、と本質をぐさりえぐり出す。
なぜこの程度の小さな、あまりにも矮小なマキャベリストしか、現代の日本にはいないのか。
遠藤氏は次のように言う。
「欧州における冷戦の停止は東アジアの冷戦構造をより際立たせただけだったが、日本国内の政治状況は左翼勢力の衰退というかたちではっきりとした影響を与えた。すなわち平成以後の各種選挙を通じて明確に見られたのは、左翼支持層が激減し保守中道層が増大するという傾向であった。にもかかわらず、自民党はその保守中道層からの支持を吸収しきれなかった。なぜか。冷戦の勝者の側に立つべき自民党が、いつも間にか敗者のほうに擦り寄っていたからである」(本書157p)。
自民党は党内の、それも中枢に極左分子をかかえ、党綱領をなげうってリベラル路線に急傾斜し、あまつさえ公明党と数あわせの連立を組むうちに保守としての存立理由を、いや存在理由を見失った。マスコミの政治主導、情報操作の影響も大きいだろう。
自滅は早々と予測されていた。
「二大政党の政権交代」という表層の分析は危険である
昨夏の民主党圧勝のあと、多くの政治分析をみたが、どれもこれも自民党にお灸をすえたとか、これで英国保守党のように政権回復には十年かかるという議論が横行した。
評者(宮崎)もこうした議論にはついていけなかった。
保守vs革新で、日本の政権交代をみているからである。これは自民vs民主という『二大政党』の交替にみえて、じつはそうではない。
なぜなら日本は二大政党ではないからである。
すなわち遠藤氏が言うような「その場その場で勝てばいい」という自民党には基本綱領をまもる意思はもはや消え失せており、「政権を維持し続けること自体が目標になった」野合の集団となり、その自民党に保守思想の軸はもはや影も形もない。
同様に民主党には革新思想の基軸が存在しない。
したがって、これは二大政党政治ではない。鵺的集団でしかない。
鵺たちがふたつのグループにわかれてあらん限りの罵詈雑言をぶつけ合うのが、現代政治の構図である。
遠藤氏はこうも言う。
マキャベリが箴言に残したように「これほどまで痛めつけられ、弱り果てた」風土に「強く雄々しき人間がうまれないと同様に、日本では「強く雄々しく国を愛する指導者の不在」がある(本書102p)。
『平成の日本政治の現場でも、武村正義や野中広務、小泉純一郎、そして小沢一郎といった『小さなマキャベリスト』が跋扈した。『小さな』という形容詞を付したのは、彼らの政治軌跡にマキャベリズムに不可欠の『正しい目的』が見あたらなかったからである』(103p)。
民主主義とファシズムが対立する概念ではなく、同根の危機を内包するシステムであるという遠藤氏の指摘は正鵠を得ている。
ヒトラーはワイマール共和国という史上稀な民主国家から生まれた。戦後日本の平和民主主義は小沢という小さな、小さな擬似ヒトラーを産んだ。
欧州はマキャベリストたちが政治を司り、日々謀略と駆け引きで会議は華やかに躍り、ロシアには旧来の帝国主義的なピョートル大帝が復活して牙を研ぎなおし、中国には侵略的全体主義が世界に立ち向かい、中東から南アジアにかけては原理主義の乱暴者が政治を壟断している。
一方で日本の同盟国である米国は「力と畏怖」というリバイアサン国家の建設に挫折をくりかえして世界を破滅に導く危険なリベラリズムに急傾斜し、まさにこういうときに日本には小悪人と小さな小さな全体主義者はいても、婆娑羅も巨悪も、国粋的な愛国者もいない。その替わりに、小さな小さな小さな小さなマキャベリストたちがいる。
だから日本の政治は面白くないのだ。
「いまの日本の政治状況とは「保守の分散に乗じて左翼や特定の団体が分不相応な影響力を行使するという事態である。問題の根は『二大政党』にあるのではなく、保守の分散によってノイジー・マイノリティが漁夫の利を得ている」だけであり、これを「二大政党制という制度上の問題に論点をすり替えるのは間違っている」(本書276p)。
逆説的ながら、評者は鳩山政権の無恥による政治混乱に大いに期待している。
その子供じみたマニフェストによるカイカクを期待しているのではない。国家を危殆に瀕するほどの馬鹿をやりかねない、その極度の子供じみたセイジに、ひそかに期待している。鳩山友愛路線は敵対国に媚び、同盟国を怒らせ、戦後営々として築きあげてきた安定をぶっ壊そうとしている。
となれば、確実に乱世がくるだろう。政界再編は、その騒擾のなかでしか起こりえず、乱世にしか英雄は出てこないからである。
遠藤氏は、再びの保守合同を結論としている。賛成である。日本が救われる道はそれしかないからである。
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