石平氏はまるで日本語を喋れないままに日本に留学してきた。神戸のレストランでアルバイトをしながら、ときに書店へ行くと、孔孟から韓非子、朱子学と漢著の翻訳が本棚に並んでいたのを見て驚いた。
考えてみれば、日本の読書人はおそらく世界一パースペクティブが広い。マルクス・レーニン全集があるかと思えば、ニーチェ、ヤスパース、ショーペンハウエルからアンナ・ハーレントまで、マルクーゼからヴィトゲンシュタインの翻訳もでている。
本国フランスにはないのに、サルトル全集がある。いったいどういう国か?
トランプ大統領が誕生すれば30冊を超えるトランプ本がならび、大河ドラマが西?隆盛になると百冊をこえる類書が書店で平積みとなった。
李登輝閣下はかねて、「日本語の翻訳により知識を拡げ教養を高めることが出来た」と述懐されるが、日清戦争ののち、夥しい留学生が日本にきて、日本語を通じてルソー、サミエルソンや、デカルト、カントを知った。つまり日本はあらゆる思想、哲学、文学を翻訳し、咀嚼し、そこから独自の思想を形成してきた。
その日本にやってきた石平氏は北京大学で哲学を学び、成都で哲学の教鞭を執っていた。ゆえに日本の思想史に甚大な興味を抱くのは自然の流れ、そしてある日、気がつくのだ。
「不可解な矛盾」に突き当たった。
「江戸期以前の時代では、日本の代表的な思想家はほとんど仏教の世界の人間であるのに対し、江戸期に入ってからの代表的な思想家はほとんど儒学者だった」
「えっ」を思わず声をあげた。こういう見立てがあるのか、というのが第一の感想だった。
石平氏は「聖徳太子は仏教を国教にまでしたのは、中華から独立するため」であり、日本史は仏教を日本化することによって日本文明を独自なものとしたが、江戸時代には逆に儒教を官学の基礎においた。
その徳川時代の儒学はと言えば、じつは朱子学であり、中国の儒学とは似ても似つかぬもので、他方で本居宣長など国学の台頭を生んだ。
いま紹介したのは大雑把なまとめだが、石さんは本書において、その経緯を詳細に論じている。
紆余曲折をへて日本は脱中華の思想を構築し、文明の独立自尊を守り抜いた、というのが本書の骨子である。
日本は仏教と儒学をほぼ同時に輸入するも、仏教を日本化して脱中華文明に基礎とした。
ところが、漢学儒学には深い関心も寄せず、やがて遣唐使を廃止した。
仏教は最澄と空海によって絶頂を極めて、以後、哲学的には衰退してゆく。そしてこの時代に『古事記』『日本書紀』が書かれ、『源氏物語』が書かれた。
「家康が天下統一したあと、推し進めたもう一つの仏教対策は、全国に『寺請制度(檀家制度)』を整えることだった」(136p)
つまり住居移転や結婚、旅行など檀那寺が発行する「寺請証文」が必要とされ、それは寺院の収入を安定させたものの、実質的に「葬式仏教」となってしまった。つまり「仏教は国家体制と政治権力にとって、無害にして有益なものとなっていった。(中略)思想史的にいえば、まさにこのプロセスにおいて、日本の仏教は思想としての創造力と影響力を失う」
反面、「幕府による推奨政策の結果、『蔵入り』から掘り出された儒教が台頭し、仏教に変わってこの時代の思想とイデオロギーの主役の座を占める」。
つまり「近世に入ってからおきた、日本思想史上の最大の変化」(142p)だという。
だが儒教は官学でしかなく、「昼は朱子学、夜は陽明学」という佐藤一齋らが象徴するように官学と併行して日本では陽明学が読み込まれた。サムライの美意識に適合したからだろう。
市井では本居宣長に代表される国学の意気軒昂たる復活があり、江戸前期には山鹿素行の『中朝事実』がでて、水戸学への驀進が始まる。これが『日本の思想』の中軸となる。
「西?隆盛は日本の思想である」と江藤淳は書いた(『南洲残影』)。
こう考えてきた日本の読書人からすれば、本書で展開されている石平氏の斬新な視点には注目すべき点が多い。
とりわけ石平氏の山鹿素行論は、従来の保守陣営の解釈とは趣きが異なり、次のような描き方となる。
「鎌倉時代末期の日本の神道思想の確立において、外来宗教の仏教に対する日本神道の優位性が主張された(中略)。山鹿素行は、天孫降臨以来の皇統と神道を中核とする日本の伝統に基づき、中国儒教に対する日本の優位性を協調して見せた。(中略)中国古来の『華夷秩序』の世界観を正反対に転倒させたのである」(216p)。
江戸中期になると国学が日本の思想界を席巻し、「真淵は『日本の古道』を絶賛して、儒教と中国の『聖人』たちの欺瞞性を暴いた。そして宣長は、日本の精神と思想の世界から『漢意』(すなわち中華)というものを、きれいさっぱり洗い去ることによってこそ、日本は日本本来のすばらしさを取り戻すのだと説いた」(217p)。
ともかく脱中華が日本の独自の文化圏形成の原動力だったのである。
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