日本でももっとも有名なスペインの哲学者といえば、オルテガ・イ・ガゼットだろう。なにしろ西部遭氏の著作には必ずオルテガからの引用があった。
ミゲル・デ・ウナムーノは同世代人、オルテガに少なからぬ影響を与え、また与えられた。ウナムーノはサラマンカ大学総長に36歳の若さで就任し、数年後には突然解任され、六年間外国で亡命生活を余儀なくされた。帰国後は大統領に擬せられたこともあるほどに、その影響力は甚大だった。
かれが生涯かけて挑んだ作品の一つがドンキホーテの思想的解明だった。
ウナムーノは思想家であり、同時に詩人であり、作家でもあった。
生きることの意味、死ぬことの意味、燃えさかる魂とは何かを追求し、西洋の思想界に巨大な足跡を残した。
著者の佐々木孝氏はムナムーノの思想的背景をこう説かれる。
「現代のわれわれは、理性を神として崇めたりはしない。また、合理的であることが必ずしも人間を真の幸福に導くものでないことも承知している。いくたびかの苦い経験によって、人類はコント流の楽観主義がまやかしであり、理性神の支配する楽園がユートピアであることも知っている。しかしそのかつての理性崇拝から無数の『小さな神』が誕生し、それらがわれわれの日常をいかに不自由に縛っていることか。『小さな神』とは、たとえばスピード、能率、効率、利潤など人間を時間性あるいは彼岸性に縛り付ける卑小な神々である」(13p)
いきなり現代文明批判、本来の思考を喪失した現代人の知性批判から始まる。
ウナムーノは「民族のうちに眠っている無意識的なるもの、内――歴史的なるものは言語のうちに具体化され、そしてその民族の意識された理念は文学のなかに具現されると考える」
だから彼はセルバンテスのドンキホーテの考察に立ち向かったのだ。
ウナムーノはデンマークの思想家キルケゴールの哲学に惹かれた。
ふたりは「キリスト教が形骸化して、ほとんど死に瀕していることを認めないではいられなかった。人間は神との直接的、個別的繋がりを回復しなければならない。かくしてキルケゴールは、硬化したデンマーク教会を激しく糾弾する」(81p)。
なぜなら神は検証される対象ではなく、心に感じられるもの、である。
「キルケゴールは、生暖かい遵奉主義よりもむしろ熱情的な異端を選ぶことで、また苦しい自己探求の道を進むことで、そして何よりも、危険を内包する新約のあの根源的反抗精神とはまったく対蹠的な惰弱な精神を弾劾することで、ウナムーノの精神的先達であった」のである。
つまりスペインのニヒリズムとは「激しい精神の運動であり、燃え上がる魂のダイナミズムである」
ニーチェは一世代前の人だが、まだこの時代、欧州ではまっとうに評価されていない。
正統と異端を峻別する一点は「教会への恭順と従順の拒否」であるとウナムーノは『生粋主義をめぐって』に書いた。
ドンキホーテの哲学とは「存在することは存在することを欲することである」。
これを佐々木氏は「生は夢もしくは現実ごときものである。そして今まさに過去の薄明のなかに消失してゆくその現在の瞬間を、絶えず超え出ることによって生は成り立つ。すなわち存在は、現実的にあることではなく、あり続けようと欲することなのだ」と言う。
ウナムーノは『生の悲劇的感情』のなかで書いた。
「夢見るのだ。生を夢見るのである。なぜなら人生は夢だからだ」と。
本書にはスペイン独特の歴史と宗教の神秘主義思想、そして伝統主義とは一線を画した生粋主義などの説明が縷々なされているが、ウナムーノ哲学の神髄は、難しく考えるとややこしくなり、つまりは情熱への希求、本書の題名にある『情熱の哲学』なのである。
ことしは日本とスペインの外交関係樹立150年、またウナムーノが総長をつとめたサラマンカ大学創立800年を記念したイベントが行われるが、本書は、その記念事業の一環でもある。
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