「快刀乱麻を斬る」というより「『妖刀』乱麻を斬る」ですかね。いささか長い題名だが、中味はまさに腐敗儒者=左翼への挑戦状である。
基本的に左翼は思考停止の愚か者が多いという指摘は正確ではないのか。
文中にでてくる、その豊饒な語彙力と多彩な比喩力による辛辣批評を展開させて、この人の右に出る批評家はいない。言葉の原義、その語彙の魔力と同一視反応、その魅力と愚かさと明瞭に提示する。そしてそれを悪用するのが左翼だ。
極左のノーム・チョムスキーが唱えた「一般意味論」は逆説的に言えば、言葉によっていかに相手を騙すかのテクニックである。
そもそも「冷戦」に勝ったのは自由陣営ではなかったのか。マルクスもレーニンも毛沢東も思想的には死滅したのではないのか。
それなのに冷戦終結以後も、日本ばかりか欧米でも、左翼の天下が続き、政治はマヒし、マスコミは依然として左翼に乗っ取られ、経済はグローバリズムに逃げ 込んだ左翼の跳梁跋扈、文化は怪しげな国際主義とやらにおかされて、日本人は脳幹をおかされ、日本の政治も経済も本当におかしくなった。西部氏はあえて 「日本人」と述べず、本書では「ニッポンジン」と意図的に表現している。
じつは西部氏の前作『金銭の咄噺』(NTT出版)をようやく読み終えてホッとしたのも束の間、はやくも西部氏は新作を出された。前者は金銭と無縁の人生を淡々と振り返る西部氏の心的風景の切なさが、いかにも私小説的であったため、読むのに時間を要した。人生の総決算のように思えた。こうした物語を しんみりと読むのが好きである。
本書は心的風景はそのまま、舞台は日米関係を視座にした哲学風景である。
ともかく冷戦以後も敗北を続けるのは保守陣営ではないのか?その貧困な思想状況に切れ味の良い、正宗ならぬ面妖な日本刀をひっさげて、西部さんは果てしなきサヨク病原菌に挑む。
「反左翼を名乗るものがむしろ多数となっている、という時代認識は完全に狂っている」とまず西部氏は挑戦的言辞を駆使しつつ独自の分析をする。
つまり「反左翼は、左翼のアンチテーゼを述べ立てているに過ぎません。自称左翼の空疎な理想主義が無視している事実を、フェクチュアリズム(事実主義)とでも名付けるべき無思想ぶりで、丹念に列挙しているだけなのが反左翼です」(41p)。
シュペングラーが『中世の秋』で言ったように「文明の秋から冬にかけて流行るのは『新技術への異常な関心』と『新宗教への異様な熱狂』だといいました。今見られるのは『テクノロジズム』(技術主義)というカルト(邪教)の大流行なのです」(220p)
IT革命は左翼の逃げ場所だったか
そして「左翼が、個人主義はと社会主義派とにかかわらずIT革命に簡単に飛びついて、いったのは専門主義における合理への過剰なり歪曲なりが、テクノロジ ズム(技術主義)に、テクノマニアック(発明狂)に、そしてテクノカルト(技術邪教)にまでおちたことの現れ」であるという。(248p)
だから構造改革とか規制撤廃とか、アメリカから価値観をごり押しされて、見るも無惨な非日本化のために執念を燃やした現代の政治家と官僚とマスコミは、 「数百年、数千年の歴史を持つ日本国家を、大して知識も経験も能力もない」人たちがムードに便乗して破壊した結果であり、「日本および日本国家がアメリカ から受け取った構造改革のイメージは、さすがアメリカの属国、もっと(悪い意味で)理想主義的なものでした。
『日本的なるもの』のすべてを、つまり経済における(談合を含めた)日本的経営法、政治における(派閥をはじめとする)政党間協調体制や(天下りを含む) 政官癒着(というより政官協調)、社会・文化における地域共同体保存のための規制体系や地域間格差是正のための所得再分配などを一掃せよと叫ばれたのです。それが規制撤廃の運動でした」(63p)
さらに西部氏は強調する。
「その造反を自由や平等の価値によって正当化しようとするのは『弱者のルサンチマン』(ニーチェ)に他なら」ず(中略)「自由、平等、友愛、合理といった 価値で偽装すると、やがて、責任なき自由が拡がって放縦放埒な社会となり、平等が行きすぎて能力や努力と関係なしに分配が平準化され、友愛のキレイゴトが まき散らかされて偽善的な世論が幅を利かし、合理のみが追求されて技術主義が蔓延します。こういう価値の堕落に深入りするにつれ、日本に限らず世界中の左 翼陣営はイデオロギーとしての力を失っ」た(80p)
戦後欺瞞の最大のものは第一に生命尊重主義という欺瞞だとする西部氏は続ける。
「自由平等友愛合理の理想が次第に色褪せ、その理想喪失の空虚感を埋めようとして、生命尊重が理想の玉座に押し上げられた」。
かくして「腐儒としての左翼思想が身に染みついたニッポンジンがわんさかいて、日本の国語を穢し壊しすてている」(258p)のである。
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