辛口コラム

書評その67

ルシオ・デ・ソウザ著、岡美穂子訳
『大航海時代の日本人奴隷』
(中央公論社)

『大航海時代の日本人奴隷』

 支倉常長が遣欧使節団として伊達政宗から派遣されたルートは、大航海時代のスペイン、ポルトガルが開拓した航路だった。マニア、メキシコのアカプルコ、キューバを経てポルトガルのリスボンへ入港した。
 伊達使節団の随員は乗組員を入れて二百人前後もいたが、経由地のマニラ、アカプルコなどで多くが脱落、あるいは逃亡、あるいは現地女性と結婚し住み着いた。
 後に高山右近らがマニラに追放されると、そこにはすでに二千名もの日本人コミュニティが形成されていた。
 支倉常長がスペイン各地を回ったときの随行は三十名に減っていた。もっとも当初から全員が西欧を目指したわけではなく、なかにはマニラへ帰国するポルトガル商人や宣教師、武器商人、そして奴隷売買の仲買人らも乗り込んでいた。
 本書はこの奴隷について教会の記録を丹念にしらべた、歴史の裏側の真実である。
 大航海時代とキリスト教バテレンの関係は、よく歴史書でも語られてきたが、日本人奴隷に関しての研究はほとんどなかった。秀吉が発令した、後に鎖国の前哨となるキリシタン追放は、この宣教の陰に隠れた闇商売に怒りを発したことが大きかった。
 この時代のイエズス会を活写した白眉は渡辺京二『バテレンの世紀』である。
 スペインの教会に残る婚姻記録などから、最初の東洋人奴隷の消息が分かるのは、早くも1551年だという。
 まだ信長の出現はなく、種子島への鉄砲漂着は1543年だから、南の島々には、海賊にくわえて奴隷商人も出没していたことになる。
本書の調べでは、1570年代には夥しくなり、名前から判断して日本人と推察できる。年代的に言えば信長が切支丹伴天連の布教を大々的に認めた時代に合致する。そして、その後の研究でも奴隷の出身地が豊後に集中している記録がある。
 これまでは伴天連大名として有名な大友氏が積極的に領民を売買してきたとされた。ところが本書では薩摩との戦闘に敗れた大友氏の領内から薩摩が拉致し、マカオから来ていた奴隷売買船に売り渡したのではないかという。

 ゴアからマラッカ、マカオ、そしてマニラが重要航路だった。そこにはイエズス会の影響が強く存在していた。
 イエズス会が『イエズス軍』という性格を併せ持ったことは拙著『明地光秀 五百年の孤独』のなかでも書いた。
 しかもポルトガルを追われたユダヤ人の改宗者が大量に紛れ込んでいた。初期のころ、かれらが奴隷を購入し、家事手伝いなどに従事させた。そして改宗ユダヤ人が宣教使節にも出自を偽って紛れ込んでいた。伊達をそそのかして政変を企てたソテロも、改宗ユダヤ人だった(田中英道説)。これらの事実経過も拙著には書き込んだが、その時点で本書の詳細な記録を読んでいなかった。
 天正少年使節の遣欧団はヴァリアーノ(イエズス会宣教師、法螺吹きの一面があった)の斡旋でポルトガル、スペイン、ローマを訪問したが、各地で彼らは日本人奴隷を目撃している。なかには売春窟に売られた日本人女性もいた。
「1560年代に来日した多くのポルトガル船は女性奴隷を乗せて出港し、彼女たちはマカオへ送られた後、さらにマラッカやゴアまで運ばれていった」(72p)。
 その後、ポルトガル、スペインに残る教会の記録にも夥しい日本人が発見された。
「1570年代の後半には、ある程度まとまった集団的な(日本人コミュニティの)観察が可能なほどに、リスボンには日本人や中国人が居住していた」(153p)。
 イエズス会は表面的には奴隷貿易に反対したとされた。
 しかし「イエズス会は奴隷売買のプロセスにおいて、紛れもなく一機能を担っており、それを秀吉は見逃さなかった」(175p)。
 本書はじつに貴重な歴史への証言である。

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