近代になって江戸自体の固陋とした史観から抜け出し、硬直した考え方から離れ、多少は科学的に明智光秀を論じた最初の評伝、というより史論である。昭和五十九年(1984年)の『小泉三甲全集』を底本として、本書は復刊された。
初版は明治三十年というから、まだ『大日本史』的な水戸学解釈が世の中に残っていた時代だ。「主君殺し」の逆臣という朱子学的雰囲気の中で秩序破壊的な評価が横溢していたときに本書の登場は一種衝撃だった。
「悲運の英傑」という評価に朱子学的価値に染まっていた読書人は驚きだった。
江戸時代に統治の原理として借用した朱子学は、赤穂浪士の義挙を認めなかった。世間では赤穂浪士礼賛の声高く、官界では「法治に悖る」と判断された。明智の評価は世間では意外に高くあって、芭蕉は「月さびや 明智が妻の 噺せむ」と詠んだ。
作者不明の『明智軍記』が世の中には出回っていた。
明治新政府は家康を貶めることに必死で、そうした薩長史観による江戸幕府の低評価にともなって秀吉を過剰評価的に持ち上げた。このために先駆者である信長に高い評価が加わった時代背景のなかで明智は徹底的に貶められた。
これらの要素を加味すれば、当時の明治論壇において、本書の視点は斬新だったのではないか。
薩長史観を超えて、明智光秀の人間を見つめ直した作品であり、小泉は決して明智の本能寺の変を義挙とは捉えていない。歴史学の未発達、講談の延長のような情報空間のなかでは、それが限界と言えば、ある意味で納得もできる。
小泉三甲は本名が策太郎、なにやら策略好きの人物と見られがちだが、明治、大正、昭和の怪物として政治方面の活躍のほうが有名だ。
林房雄の恩人でもあり、林がマルクス主義を捨てて日本回帰したあたりを、人間の真実味を本能的に理解して厚遇したのだ。それが小泉の生き方だった。だから主殺しの悪名がかぶさった明智に挑むという、チャレンジの精神に溢れている。
漢詩調の文体は、かくなる記述から講談的にはじまる。
「けだし逆といふ、必ずしも至逆にあらず。順といふ、必ずしも至順にあらず。逆中に自から順あり、順中に自から逆あり。『逆順無二門大道徹心源』これ当年光秀が、小栗栖の里に乱槍を被り、神気まさに疲れ、三寸息まさに絶えなんとするの時、心鏡郭然、紙筆を鉄衣の袖に求めて喝破したる言にあらずや」。(中略)「『主殺しの大罪人』として、唾棄すべき人ならんや」
初版が明治三十年と書いたが、本能寺の変から四百年。「紛糾極まりなき当時裏面の真相・実蹟は冷眼なる歴史家の禿筆に誤伝せられ、埋没せられ、抹殺せられ、雲煙漠々として終古終(つい)に補足し難からんとす」というのが小泉の執筆動機となった。
だが期待して読み進むと、連句会の発句解釈で、あまりの通俗的な咀嚼にすこしく失望した。
「ときはいま天が下知る五月かな」
小泉は「とき」と「土岐源氏」にかけ、「天が下知る」を「天下を狙う野心」と捉える。「うん? この時代に『古事記』は詠まれていなかったのだろうか?
愛宕山の連句会は紹巴ら当時の文化人が呼ばれて合計九十九の連句が並ぶのだが、当時の知識人はこれら全部を掌握していたのだろうか。もしそうなら、前述のような通俗的解釈は成り立たないはずなのだが。。。
拙著『明智光秀 五百年の孤独』(徳間書店)のなかで書いたが、この連句会は光秀壮行会的雰囲気を放ち、参加者は予知していたのである。明智が蹶起することを。連句すべてを並べてじっくりと読みこめば、それはすぐに分かる。
そして発句の解釈とは、「天皇が統治するまつりごとへ行動を起こす」という意味であり、「ときはいま」は、明快に TIME IS NOWであり、「天の下知る」は天皇が統治する意味と『古事記』に明記されている。最後の「五月かな」は、端午の節句の季語、尚武のこころを意味している。
さはさりながら小泉は次のように明智の義挙を評価した。
明智の部下たちは統率よく、「臣ら死を決して、甘んじて逆を冒す。あに主君と生死栄辱を倶にするを願はざらんや。彼の暴虐の主をしいして、以て天下を救う(中略)。旗を京畿に掲げて、禁ケツを護衛し、以て武名を千載に伝ふ、また愉快ならずや」
歴史論壇の過渡期にでた試論的史論としては傑作の域にあり、近年のあまたある明智本のなかでは、さすがに面白い。
来年の大河ドラマをひかえて書店に夥しく並んだ群書類書の明智本の殆どは、小説や史論、評伝を含めて読むに耐えないのだから。
|