様々な機密文書が徐々に明らかになった。ヴェノナ文書などの公開で、重大な機密が明らかとなって、私たちは現代史の舞台裏を垣間見る。
たぶん、こうだろうと推定してきたスパイは、想像を超えた活躍をしていた。それも政治的影響力の強い代理人とか秘書とか、これまで言われたようにFDRのホワイトハウスは殆どがソ連のスパイだったことはすでに語られた。
志操が思想を一貫させる。志が低いか、士気欠落政治家は国を誤らせる。思想のない、性欲の衝動や、趣味でスパイをはたらく手合いも多い。
本書は現代史の裏舞台どころか、政治の真裏にはハニートラップの世界が展開していた事実を機密文書をつぶさに検討しつつ解き明かされる。
ディープステートではなく、ディープスロートだった。
真裏の真実とは何か?
ずばり大統領夫人が、首相の娘が、いや首相自身が外国のエージェントだった。となれば、国がひっくり返るのは当然の帰結となる。
エニグマの暗号を解読したのは007が頼りにした女スパイ、ベティ・パックのハニトラによる手柄だった。外交官、神父など有力なポジションにいる人たちをハニトラで落として、とくにエニグマ解読はポーランド高官と『親密』になった成果だった。
暗号通信は近年こそコンピュータが解析することもあるが、第一次世界大戦で西側が手に入れたかったのはエニグマの暗号解読の手がかりだった。
古代に朝廷と半島や大陸との交信は暗号文字(阿比留文字)が使われた可能性がある。辻原登の小説『翔べ麒麟』は、阿部仲麻呂が主人公だが、対馬を経由する通信に阿比留文字使用のことを書き込んでいる。
エノレア・ルーズベルトはFDR夫人である。彼女は大胆な不倫を繰り返し、共産主義に染まっていた。アメリカの現代史を塗り替えた「赤いファーストレディ」「第五列の女帝」だったのである。
ちょうど蒋介石と宋美齢が仮面夫婦であったようにFDRとエレノアは仮面夫婦だった。「原因が夫と秘書との不倫であったが、エレノアはフェミニズム運動にのめり込みレスビアンになる。
「男へのルサンチマンがなせる業であった。1933年、大統領夫人に収まると多くの左様思想の若者が彼女に近づいた」。驚くことでもないが、エレノアは左翼学生運動の過激派に加担した。
チャーチルの娘ふたり。サラとパメラはアメリカを参戦させるためにハニートラップ工作を展開した。チャーチルの母親は性欲の塊のような女性だった事実は渡邊氏の前作『英国の闇 チャーチル』で語られた。
まだある。
カナダの国そのものが赤くなったのは現首相の母マーガレット・トルドーであり、彼女は双極性障害があった。そして誰かれを問わずセレブが大好きで、すぐに深入り関係になった。共産主義に他愛もなく憧れ、革命神話と単純に信じた。だからカストロに異常なほど傾斜した。
カナダのトルドー現首相は中国の代理人とまで酷評されているが、じつはカストロの子供であると云われている。
そうだ。米国はじめ西側がキューバ制裁をしていたとき、トロントとキューバにだけは直行便があった(数年前に評者がキューバへ行ったときは全日空がメキシコ便を開設したので、メキシコシティからハバナへ飛んだが、これは蛇足)。
渡邊氏が云う。
「彼女らの『活躍』が枢軸国の暗号解読、軍事戦略の立案、戦後体制構築、親ソ世論の形成などに深く関わり、歴史を大きく変えた」。
これらの詳しい物語は本書に当たって頂きたい。でないと、この本の売れ行きに影響するだろうから(苦笑)
さて評者(宮崎)、本書を読みながら、じつは大友皇子(弘文天皇)や藤原不比等、藤原仲麻呂のことを考えていた。日本書紀、続日本紀などが、ホンの一、二行、ヒントを書いている。
中大兄皇子と立ち上がった中臣鎌足は、最初は軽皇子(のちの孝徳天皇)に見込まれ、妊娠していた愛姫を下げ渡された。生まれた鎌足の長男とされる浄恵は11歳で遣唐使に加わり、帰国後すぐに毒殺された。
「中臣鎌足の次男」といわれた藤原不比等は天智天皇が鎌足に下げ渡した愛妃が産んだ。つまり不比等は天智の御落胤である。
額田の女王が天武の愛人となって子をなしたが、つぎに天智天皇に差し出したことは広く知られている。しかしこれが壬申の乱を引き起こした原因とか、いやあれは天武天皇の皇統簒奪だとか、真顔で説く学者や作家がいるが、当時の宮廷の舞台裏で展開されたハニトラの数々を知ったら驚くだろうなぁ。
蘇我氏も藤原不比等、その子供たち四兄弟と藤原仲麻呂はシナにしびれ、国風を否定し、シナに土下座した。仏教を崇拝し、これを政治武器として利用したのが蘇我氏だった。その蘇我の保護下にあって聖徳太子は推古十年に弟の来目皇子に25000の兵をつけ、新羅へ派兵する準備をしていた。筑紫で来目が死に、後任の麻呂子皇子は妻が播磨で死去したため派兵は実現出来ずに終わった。聖人君子とされる厩戸皇子には四人の妃賓がいた。
聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」とかいて、小野妹子を随に派遣したが、国際情勢の激変にはやや鈍感だった。618年に煬帝が誣いられ、三年後、聖徳太子が死去するや、蘇我は独裁を強め、物部氏、山背兄皇子、あろうことか崇峻天皇を暗殺した。蘇我氏の全盛は稲目、馬子、蝦夷、入鹿でおよそ百年間、6人の娘を皇族の妃賓夫人にいれ、親中、崇仏路線、渡来人重視という政治を招いた。
この危機感が「乙巳の変」となって蘇我宗家滅び、なんとか日本は救われる。
天智天皇が崩御し、采女の子、大友皇子(後の弘文天皇)が近江朝を掌握するが、この政権は百済から亡命してきた高官五名が廟議に参加していて、「百済亡命政権」の趣きさえあった。国益を台無しにする新羅征伐軍を検討していた。大海人皇子が蹶起し「壬申の乱」が勃発した。大友は漢詩しか残さず、唐風に陶酔していた。
藤原不比等は持統天皇の草壁皇子擁立に協力し、草壁が早死にすると、その皇子(文武天皇)擁立を図り、娘を天皇夫人に送り込んだ。のちの光明皇后は聖武天皇の母となる。
藤原仲麻呂の大出世はこの叔母・光明皇后にとり入り、絶世期には橘諸兄を追い込み、陰謀によって橘奈良麻呂一族を全滅させ、孝謙天皇と「深い仲」となる。淳仁天皇を手元で育てた。やがて孝謙天皇が、不比等から道鏡に寵愛を移したため、焦る仲麻呂は反乱を企てて失敗した。琵琶湖西岸の高島で一族三十四名とともに斬となった。
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