亀井勝一郎(1907年~1966年)は戦前、戦後と何回かブームを呼んだ評論家である。
現代人にとって亀井勝一郎は忘れられた評論家だろうが、一時は全集も出ていた。いま論じる人はまずいまいと思っていたら、知人の山本直人氏が挑んだのでビックリした。しかも二十年がかりの労作だから一行も飛ばし読みはできない。
函館の出身で富裕階級に育ったゆえに亀井勝一郎は十代にはマルクスというウィルスに被れた。東大に入学し、新人会という共産主義カルトまがいに染まり、三・一五事件で検挙、監獄暮らしを二年強。出獄後、いわゆる「転向」、『日本浪曼派』に参加して保田與重郎らと知り合った。太宰治らとのつきあいが深く、文壇史には様々な局面で登場する。
ところが亀井は保田や林房雄らと袂を別ち、日本浪漫派を離れる。かれは『新潮』(昭和二十五年三月号)のなかで自身の日本回帰についてこう書いた。
「僕にとって、古典日本はすでに異国なのである。これは明治末葉に生まれて、大正に生育したものの悲しき運命ともいえるかもしれない。君(保田)の故郷大和を訪れても、そこにみらるるものはすでに一種の博物館である。帰るべき故郷の、一切の古典生は崩壊した、いはば廃墟なのである」
新人会で亀井は田中清玄と親しかったというからビックリ、本書には田中の亀井伝が二、三紹介されているが、会津藩家老の末裔、田中の母は清玄が左翼で検挙されたとしって自決したト書いた。実際は青酸カリだった。ともかく田中清玄自伝は法螺と曖昧な記憶が目立つので、彼の亀井評は割引して読む必要がある。
五味康祐は亀井の門下生だった
亀井の門下生が剣豪小説家の五味康祐というのも、本書で初めて知った。
五味は浪漫派で保田とも親しかった。脱線だが、三島由紀夫自裁直後の追悼集会の楽屋に五味氏が忽然とあらわれ、司会役だった川内康範と藤島泰輔にむかって「おれたちは戦後二十五年、いったいなにをしてきたんだろう」と唸った。その現場に評者(宮崎)も偶然居合わせた。
亀井と三島は新聞紙上で激しい論争を闘わせたこともあった。
亀井勝一郎は晩年、『日本人の精神史研究』に全力を注ぎ、菊池寛賞を受賞した。また井上靖、大江健三郎、有吉佐和子らの作家を引き連れて訪中すること三回、つまり文壇における大御所的存在だったことが分かる。
結局、亀井勝一郎とは、右なのか、左の古巣へ戻ったのか、よく分からない。激しいシグザグを描いた。
昭和三十八年(1962)だったと記憶するが、評者がまだ高校二年生のころ、亀井が金沢に講演にきたことがある。試験でいけなかった。担任の国語の女性教師が拝聴しに行って「大きな感銘を受けました」と翌日、昂奮気味に語っていたことを急におもい出した。亀井は三島事件のおきる四年前に旅立った。
林房雄の亀井勝一郎評は、じつに本質をえぐっていた面白い。
「晩年の亀井君は多くの心酔者と崇拝者を従えつつ、思想家の宿命である孤独の道を選んだ。まず青年のころからの師であった倉田百三氏の『新日本主義』に反発し、絶縁し、同じ日本浪漫派の僚友保田譽重郎君の『国粋的傾向』を嫌悪しはじめ、つづいて私(林房雄)の『ナショナリズム』を公然と攻撃し、最後には、三島由紀夫君の思想と衝突した。保田君は何も言わなかったようだが、私は私流の暴言を亀井君に投げかえし、三島君は彼自身の言葉で反撃した」(亀井全集第十号月報。亀井の没後五年後)
率直に言って亀井勝一郎の古代精神史への試行錯誤は徹底性がない。
仏像を論じても、どこか西洋風であり、文明比較論的であり、感動的に刺激、古代人の慟哭やインスピレーションが伝わらない。だから縄文人の熱狂に昂奮した岡本太郎と激論となった。
訪中団の逸話の中で、もっとも興味を引いたのは毛沢東との会見で「日本の軍国主義がご迷惑をかけた」と戦後知識人にありがちな贖罪意識まるだしの台詞を吐いたところ、毛沢東は言うのだった。
「皇軍のおかげでわれわれは政権をとることができた。むしろ感謝している」
この毛沢東発言は昭和三十五年、日本は安保騒動で騒然としていたときである。四年後に佐々木更三・社会党委員長(当時)が毛沢東に会ったときも同じことを言われたという逸話は有名だろう。
そもそも日本浪漫派の作家が共産主義の独裁者に阿諛するような発言自体、徹底性がないと言わざるを得ないのではないか。
さはさりながら亀井には「日本の女神」という作品がある。(全集第十三巻所載)
そこにはアメノウズメノミコト、スセリヒメ、ヌナカワヒメ、トヨタマヒメ、オトタチバナヒメ、ミヤズヒメを論じている。
いずれも神話時代の天つ神と、ヤマトタケルの妻たちだが、亀井はこう書いた。
「日本女性の美しい資質については、史上ではむろんのこと、現今の闘いに際しても屡々顕現され」とし、大東亜戦争中の女性の効き方を神話にさかのぼろうとした意図がある。
とりわけヤマトタケルに随伴して荒れる海に身を投げたオトタチバナヒメについて、
「愛はそれが無償の行為であるという点において、つねに一なるものなのだ。献身と恋愛は一つである。(中略)オトタチバナヒメの御行為と御歌は、それが背の君(日本武尊)への無限の愛であるとともに、また国への犠牲でもあった」。
それゆえ大伴家持の「海ゆかば」という決意はそのままオトタチバナヒメに通じるのだと亀井は殉教の美学と自己犠牲と恋愛の相似形を描いた。
このあまりにパセティックな文章をみる限り、亀井は保田より国粋的である。三島由紀夫より尊皇攘夷である。
と読み進むうちに356pに次なる文章をみつけた。
「宮崎正弘『三島由紀夫「以後」』による」と、晩年の村松(剛)は、亀井の古い著作を鞄に詰めて読みかえしていたらしい。ところが、『けっきょくあの人(亀井)は何だったのでしょうか?』という謎の言葉をのこしたそうである」。
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