底流にわが国の古典の名場面がBGMのように流れる。リズム感が文体に横溢している。
読み終えて、評者(宮崎)は書棚に三島由紀夫の檄文を探した。思い当たる一節があった筈だ。
昭和四十五年十一月二十五日、三島は市ヶ谷台のバルコニーに自衛隊員を集めて最後の演説とともに檄文を撒いた。
こう書かれていた。
「一片の打算もない教育を(自衛隊体験入隊を通じて)受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない『真の日本』をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った」
「終戦後ついぞ知ることがなかった男の涙」。これだ。
その「男の涙」を鮮やかに再現したのが本書である。男が泣くのは女々しいという日本の価値観があるが、おとこだって泣くことはある。その涙には多彩な言葉が充てられ、啼く、号泣もあれば慟哭もある。
筆者の寺田氏は元『文学界』編集長、江藤淳に「南州残影」を書かせた慧眼の持ち主である。本書の執筆の意図を、「古典に見える泣く男の姿百態を辿りつつ、『男泣き』の実相に迫る」ことにあるとする。
BGMとしての古典は古事記・日本書紀から万葉、古今集、伊勢物語、平家物語、太平記へと流れる。
登場するのはスサノオ、ヤマトタケル、大伴家持。それらに加えて在原業平、木曽義仲、大楠公、松陰と続くのはなんとなく自然な流れのように見える。義仲には芭蕉がしびれ、なんと芭蕉の墓は大津の義仲寺にある(保田譽重郎も分骨墓をここに置いた)
スサノオは父の伊弉諾が命じた「海原を知らせ(海を治めよ)」に肯んじないで号泣した。青山を枯らし、大量の涙は洪水を引き起こすほどに。
スサノオの「泣くさまは、豪快でもあり、破天荒でもあり、幼児のようでもあり、傍若無人でもある。正に荒ぶる神に泣くさまであった」(11p)。これは「泣きいさちる」すがたである。
「このデモーニッシュというしかない荒ぶりようは、神話の中の神の所業と、我が先祖たちは考えていた。つまり人為とは捉えられない何かであった」(14p)
寺田氏は、このスサノオを幕末維新の橋本左内に類似をみる。
蓮田善明は「国民の災禍をすべて我が身の罪過として負担する決意の表情ではなかったか」とし、スサノオの号泣は「天下の政治、国土の創造と経営とを命ぜられたものの決意」と解釈して見せた。
ヤマトタケルは父の景行天皇からいわれて熊襲退治から帰還後、すぐに東征に向かえと命じられ、伊勢にいる姨の元へ行って、男泣きした。
相模から海を渡るとき、荒れた海に新妻は身を投げた。オトタチバナヒメの犠牲により、無事に航海できた。ヤマトタケルは詠んだ。
さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 秘中に立ちて 問ひし君はも
この詩を本居宣長は、二つの解釈があるとし、また保田譽重郎は『戴冠詩人の御一人者』で、「この歌は犠牲の歓喜の中で最も美しかった古の時期の高揚を歌い上げている」とした。
三島由紀夫は古事記の、このくだりを次のように書いた。
「命(ヤマトタケル)はこれらの詩作のみによって、最初の文化意志を代表する者となったのではない。統治機能からもはやはみ出すにいたった神的な力が、放逐され、流浪せねばならなくなったところに、しかも自らの裡の正統性(神的天皇)によって無意識に動かされつつづけているところに、命の行為の一つ一つが運命の実現となる意味があり、そのこと全体が、文化意志として発現せざるを得なくなったのだ。神人分離とはルネッサンスの逆であり、ルネッサンスにおけるが如く文化が人間を代表して古い神を打破したのではない。むしろ文化は、放逐された神の列に属し、しかもそれは批判者となるのではなく、悲しみと抒情の形をとって放浪し、そのような形で飲み、正統性を代表したのである」(『日本文学小史』)
吉田松陰を「狂と猛の涙」としてまとめる寺田氏は、『吉田松陰は意志の人』だったとする。
「怠るということを知らない人であった。心の清潔な人であり、その不潔を憎むひとであった」
松陰が狂を評価したのは孟子で、八方美人とか偽善者とかは俗人、こうした考えは孔子も同じだと松陰は説いた。
「松陰の涙は、歴史への回顧と先人追慕の情による」(179p)
松陰は厳島で陶氏を討った毛利の先祖を回想して詠んだ。
「そのかみの いつきの島の いさをしを 思へば今も 涙こぼるる」。
「狂」は忽ちにして松下村塾の塾生に伝播した。高杉晋作は「困難にも拘わらず進んで取るのを狂者とするなら、猛気こそ狂挙を支える根源であろう」と著者は言う。
松陰は「狂夫の言」を書いた。以後、先鋭化してしばしば松陰は狂を発する。そして狂と猛が維新回天の原動力となった。
三島と松陰が通底するのは、この「狂と猛の涙」かもしれない。三島事件当日、林房雄が次のコメントしたことを思い出した。
「三島クンの行為は最初から最後まで正気の狂気です」。
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