知る人ゾ知る執行草舟氏は現代日本で稀有の存在、葉隠武士の霊的な体現者である。
三島由紀夫は『葉隠れ入門』を世に問うてベストセラーとなったが、現代人の反応は冷ややかだった。尚武の精神を喪失した民族に永遠の繁栄はない。
執行草舟は「十代にして三島由紀夫と親交を深め、多くの著書を出しているが、その中心思想は『超葉隠論』にある」とする竹本忠雄(筑波大学名誉教授)は「聖ベルナールと山本常朝とは同一人物」と言い切った執行に無類の共鳴を感じた。
「武士道と騎士道の変遷史を比較すれば、互いに何の交流もなしに、三回の類似した展開の時期を経てきた」。そう考え、また自身が霊的体験をしてきた竹本にとって執行草舟という人物を「ここに実存的に、つまり息をするようにそれを血肉化して生きてきた人物」と判定する。
ふたりは憂国忌五十周年記念の会場で初顔会わせだったが、瞬時にスピリツアルな合致を見た。
大和魂の原型はヤマトタケルと聖徳太子にあり、三島由紀夫は「日本的メンタリティには勝利という概念は原理的に欠如している」と言った。
つまり、死と愛は一つのものとする武士道の原型である。勝つことを考えていない思想である。
合理主義の現代人にとって想像を絶する事だろう。
ゆえに「忍ぶ恋を至極とする葉隠思想を信奉する草舟思想を、私は理解する。かれの書いた武士道論は、そのままに、日本人の書いた最も美しい恋愛論である」(63p)
執行の御先祖は佐賀藩の家老、その武家の祖先一族三十六名が忠節に殉じた壮絶な最期を遂げた。
「自身の中に先住者がいると自覚することは、近代文明においては狂気か反逆である。日本文明は天皇を中軸とする血族の連続体だった。敗戦によってそれは反民主主義として否定された」(89p)
ヘルマン・フォン・カイザ-リング(ドイツの哲学者)は『ある哲学者の世界周遊記』で伊勢神宮参拝の後、こう書いた。
「もしも日本民族が『集団』のプリミチヴな感情、古代共同体的な自意識を失うならば、民族の統一性は失われるであろう。古き日本の精神(ヤマトダマシイ)をもって生きざる日本人はすべて、胸をむかつかせるほど浅薄となりはてるほかはない」
浅薄そのもの、フェイクがまかり通る日本となった。世界も、とくに西側先進国では同様な症状がおきた。まさに三島が預言したように「ニュートラルでからっぽで、抜け目のない」国になり下がってしまった。
評者(宮崎)はいつも寺山修司の歌を思い出すのである
――マッチ擦るつかの海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや
「人間の心は何ものかを信ずる必要がある。信ずベき真実がないとき、人は嘘を信じる」とスペインの作家ラーラが言い残した。
現代人は新資本主義だとか、グローバリズム、ヒューマニズムなどのたわごとを信じ始めた。
竹本はこう結語する
「ヒューマニズムそのものが必ずしも悪いというわけではない。自由・平等の思想は、人権が抑圧されている国々にとっては希望の星だったし、いまでもそうである。共産主義と民主主義は十六世紀ユートピア思想から端を発した点では同根だったのであり、一七八九年、大革命直後に国民議会が人権宣言を発してからというもの、パリは世界の革命家たちのメッカとなった。問題は、人権宣言の光輝がたちまちにして恐怖政治の暗黒に取って代わられた事実である。(中略)この現実を糊塗して、その間三百年にわたる展開を大文字でPROGRESSIVEと書き、その開始を『光の世紀』と呼び、その思想をヒューマニズムと称する歴史を、嘘だといみじくも草舟は告発してやまない」(216~217p)
すなわち西洋文明が尊重した合理主義への偏愛は「欧州の自殺」となり、騎士道文化が断ち切られた。ベルナールは、この騎士道文化の偉大なる統合者だった。だから山本常朝と同一人物のんだと執行草舟は言い切ったのだ。
本書は精神世界を論じた独特な世界観を基礎にして強烈な光芒を放つ。
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