本書は新鋭の論客、菅谷氏が五年もの歳月をかけて、関係者を日本全国到る所に探し出して、代表的な政治家のお墓から記念館まであるいたうえ、資料を緻密に渉猟して書き上げた労作、しかも浩瀚である。
青嵐会が際立ったのは「自主独立の憲法制定」、「国家道義の高揚」を正面に掲げ、結成時に血判で誓約したこと、自民党総務会での大暴れ。なにしろ沈滞気味だった永田町の空気に新鮮なカツを入れたことだった。その烈しいパフォーマンスをマスコミが報道し、世間も新しい集団に刮目し、期待が集中した。
青嵐会の論理は力強く、平明で、分かりやすく、行動原理はいたって明快。多くの保守層をぐいっと惹きつけるものがあった。
現在の自民党、その総裁候補らの顔ぶれをみても、この「元気」はない。
毎日新聞元常務で現役時代に青嵐会を取材した河野孝氏(「血の政治─青嵐会という物語」、新潮社の著者)をいつぞや三島研究会の公開講座講師にお招きしたとき、氏はしみじみと言った。
「ありていに言えば、青嵐会は面白かったのです。中川一郎夫人は『毎日が震度5のような日々で』、『誰もが人間をむき出しにして、ドタン、バタンと烈しくぶつかりあっていた』と述懐し、『そこにいくと今の方々は息子(中川昭一)もふくめて主人たちより頭もいいし、勉強もするけれど、まあ迫力というか、熱さはないわね』という逸話を紹介されたことが、いまも耳に残る。
さて評者(宮崎)も、この青嵐会とは縁が深い。結成してすぐに中川一郎氏に面会を求め、『青嵐会 血判と憂国の論理』という本の企画を打診、その場で了解を得て、ハマコーこと浜田幸一、石原慎太郎、中尾栄一、藤尾正行、玉置和朗、森嘉郎、渡辺美智雄、中山正輝らにインタビューし急遽編集し、出版した。ベストセラーとなって続編もつくった。
つづいて文化人を多数発起人に頼んで国民応援団的な「青嵐会を励ます会」、国民大会(武道館。このときは石原に詩も作って貰った)に関与し、じつは毎週のように青嵐会の会合にでていた。したがって本書の各ページに叙された出来事を走馬燈のように思い出しながら、あの時代の懐かしさを抱きつつ、ページを読み進めた。
青嵐会の名付け親は石原慎太郎だが、準備会合を日枝神社ちかくの料亭(弥勒菩薩がおかれていた)で繰り返していたので、「みろく会」という名称を考えていたというのは初めて知った逸話だ(本書48p)。
血判の誓詞は中川昭一が保管していた。前述の河内がそれを撮影した。
血判と聞いて三島由紀夫の楯の会の血判を思い出す読者が多いだろう。じつは、三島の自決が青嵐会の血判に直線的に結ばれている。この因縁を本書は多角的アングルから解き明かす。(86p~)。
「日本人の隠れたナショナリズムを喚起したのが青嵐会、特に石原慎太郎」だった(118p)
著者は言う。
「青嵐会が政治の表舞台で活動した期間は十年に満たず、最後は党内派閥力学に翻弄されて自壊した。その意味では、彼らを自民党政治の陰影に過ぎないという向きもあるだろう。しかし青嵐会の掲げた主張は何度読み返しても深い含蓄に富む」
「青嵐会なき以後、政治家の間では夢や理想といったものが希薄化している」
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