三年ほどツンドク状態だった。『新潮45』に連載されていたので、何本か読んではいたが、半分以上が書き下ろし、合計1500枚という浩瀚本となったため、一日2時間を充てるとしても読了に十日は必要と踏んだ。締め切りと雑用に追われて、その時間がなかった。
そのうえ、評者のまわりときたら全員鬼籍に入られたが林房雄、福田恆存、村松剛、藤島泰輔、西部邁、西尾幹二の各氏らは江藤淳を評価していなかった。
理由はそれぞれ異なるが、江藤を嫌ったのはそのパフォーマンスと傲慢な態度だったのだろう。
評者(宮崎)自身、四半世紀まえにだした『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』(清流出版)のなかで江藤を評してこう書いている。
「江藤の文壇人生は『ひまわり』のようである。つねに陽の当たる場所を要領よく獲得していくという意味で。文学的業績と併行させて『政治力』をてこに、文壇における力関係をマキャベリの如く計算し、(中略)文壇主流派に身を置いて『政治』を行っていた」(87ページ)
その江藤が『転向』した。
十月になって評者(宮崎)も書き下ろしの校正がようやく終わり、やっと連休を挟んで時間がとれたので三、四年越しの懸案、つまり本書の読破に挑んだ。結局、読み終えるのに一週間かかった。
平山周吉氏は元『文学界』編集長。江藤が自裁する数時間前に最後に面会していた編集者である。没後二〇年にして三年がかりの本書は刊行され、小林秀雄賞を受賞した。
江藤の論法は大物に派手に喧嘩を売ること。その前に老人キラー。矛盾するようだが、最初に江藤を評価し擁護したのは埴谷雄高と大岡昇平だった。後にこの二人は江藤への厳しい批判者となる。
江藤の基本的な人生スタンスは福沢諭吉の実利主義にもとづき、意外だがカネには厳しい物書きとして知られた。
三島由紀夫とは一時的な蜜月時代があって、なんと三島邸に大江健三郎、江藤淳が招かれたこともあれば、江藤が米国から帰国したとき、羽田に出迎えたなかに三島夫妻がいたという。その江藤が三島の『英霊の声』以降は「猥雑でイデオロギーが過ぎる」と批判に転じ、三島の「楯の会」を「自主防衛ごっこ」と揶揄した。
嘗て批評家の多くが三島の『鏡子の家』は失敗作だと酷評していたとき、江藤は寧ろ褒めた。『金閣寺』では、あれは「ナルシシズム」の文体であり「他者との連帯を拒絶し、無時間であり、ことばの鏡に映った私小説である』とも批判していたのだから三島は江藤の評価には素直に喜んだこともあった。
事件後の小林秀雄との対談では「早く老いがきたのでは?」と言って、小林に「なら君は堺事件をどう思うのか」と叱責されたはなしも有名だろう。じつは評者、三島事件一年後の『憂国忌』に発起人をおねがいしたところ、けんもほろろに断られた経験がある。
江藤は病魔と幼年時代から闘ってきたため留年しており、それを劣等意識からか隠した。昭和七年生まれを昭和八年生まれと長い間誤魔化して生きてきた。
また若きには安保反対を叫ぶ陣営にいたのに、いつしかくるりと身をかわして保守の側へ、それも権力に接近しすぎたほどで、本書ではじめて裏話を知ったが、プッチフォン(小渕首相)時代には文部大臣に最有力だったこと、夫人の看病で「それどころではない」と断った由である。
デビューの足がかりを作ってくれたのは三田文学で、当時編集長格だった山川方夫だった。山川の不慮の事故死まで、彼との友情は変わらなかった。
大東亜戦争への評価で論壇は分裂しており、太平洋戦争というアメリカからの強要用語を使っているのが戦後だが、左翼は十五年戦争、上山春平らは第二次世界大戦、松本健一等は「いや、アジア・太平洋戦争だ」と侃々諤々だった。三島は「大東亜戦争だよ。戦争の名前ぐらい自分の国がつけたものを使ったって良いじゃないか」と言い、江藤はどちらも避けて「過ぐる大戦」と言っていた(昭和四十五年十一月二十九日。『サンデー毎日』)。
同年十一月二十五日、三島事件が突発すると江藤は朝日新聞の緊急座談会にでた(武田泰淳、市井三郎らと)。そこでは「『困ったことがおこったな。この事件に打たれないどころか反発を感じた』と否定的発言を繰りかえした」(106P)。
江藤の三島評のキイワードは日本浪漫派だった。「江藤は日本浪漫派から始まった三島文学の帰結として三島の死をとらえた」。
江藤はこの時代まで日本浪漫派を「血と土」に根ざしたロマンティシズムととらえ、それは神話だと断定していたのである。
江藤は「三島の死を『焼け跡的な戦後のタガが外れ』た末の『深い徒労』と『深い倦怠感』の所産」(108P)と批判を重ねた。
その江藤が『南州残影』を書く段になって西南戦争の激戦地・田原坂を訪れ、歌碑を見つけて感動する。
それは蓮田善明が詠んだ和歌だった。
「故郷の駅に降り立ち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」
ここで江藤は西郷隆盛、蓮田善明、三島由紀夫を結ぶのである。
三島没後三十年のおり『諸君!』に頼まれて評者は憂国忌の裏話を綴ったが、江藤が二十五年忌から憂国忌発起人を引き受けた経過を特筆しておいた。
平山氏は、『神話の克服』を提唱した筈の江藤淳は、「『文運隆盛』の繁栄に、『神話』の復活の傾向を察知し、過敏なまでに反応したのは、江藤淳が『遅れてきた日本浪漫派』だったからだ」(308P)とする。
江藤の転向をまっ先に見抜いたのは三島に対して論理的自殺を勧告していた日沼倫太郎だった。日沼の発言を三島はかなり深刻に受け止めたと村松剛が言ったことがある。
この稿では三島との関係だけですでに紙幅を越えたが本書には実に多くの作家、学者そして編集者との交友関係が緻密なまでに濃厚に語られている。
さて大団円にちかくなった739Pから743Pにかけて江藤淳の艶聞が出てくる。この女性に関しては当時から文壇バアなどで有名なはなしで評者さえ知っていたが、その出会いから入れ込み様、彼女に投じたお金から、その別れまでを詳細に綴っており、これは筆者が無名の江藤の友人達をも取材で歩いた強みである。
平山氏の作品には篤き箇所もあれば冷淡な表現箇所もあって、じつに客観的で、ときに冷酷でもあり、江藤淳の必死の人生が、その葛藤ぶりが浮かび挙がる。本書は江藤評伝の白眉である。
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