中国・台湾の発言

李登輝前台湾総統、三回の訪日
戦後日本が失った精神的カリスマを多くの国民が重ねた

国民党に対する北京の劣等感

 中国人の深層心理にもうひとつ横たわるのは、想像をこえる、屈折した劣等意識である。
 大東亜戦争で日本と対峙し闘ってきたのは蒋介石の国民党だった。当時、共産党はその背後で蠢いた武装ゲリラでしかなかった。
 戦後、毛沢東が満州を「恢復」できたのは、ひとえにソ連軍のおかげである。
 蒋介石とて抗日戦の勝利は、日本が米英に降伏したあとの“漁夫の利”でしかない。
 台湾における日本の資産をあらかた接収し、国民党は世界一の金持ち政党になったが、その事実を台湾の歴史教育は教えていない。


芭蕉記念館で
芭蕉記念館で

 ましてや中国共産党とて、当時は党の指導よろしきに拠って、「正式」に日本に勝ったわけではない。
その冷厳な事実がバレルと都合が悪いので懸命に隠し、歴史を共産党が勝ったかのように改竄している。各地の反日記念館の陳列はおしなべて、そうした仕組みになっている。
 このように何重にも輻輳した要素が、実は自分たちは(本来はバカにすべき小さな国である)日本の軍隊に勝つどころか、戦ってもいないという劣等感を補い、「反日感情」に複雑に混在させていると見て良いだろう。

 古来より中国人には、架空の空間でありえないこと、不可能なことを吠える特性がある。つまりそれが真実ではないことを知っていても人前で言わざるを得ないし、答案に書かざるを得ないという処世術がある。
「中共が日本軍に勝った」という妄想が事実となっているのが中国的発想なのだ。それゆえに台湾問題に対しても傲岸の極地を誇示する。

 なぜなら国共内戦に敗れて以降、大陸を捨て台湾に逃げ込み、統治してきた国民党こそが実際には日本軍と戦ってきた実体であり、北京には彼らに対する劣等意識の裏返しがあるからである。

「中国はひとつ」という虚構

 北京は支離滅裂な論理を日本にも押し付けて、こう嘯く。
 (1)中国はひとつであり(2)中台統一は不可避的であり(3)台湾当局は北京が中央政府を主導することを確認する必要があり(4)したがって統一議論は「政府間」のレベルで行われるのではなく、民間団体が行い(5)平和的解決をあくまで望むが、武力行使の選択を放棄しない(6)北京が外交、国家安全保障、主権論議を決定できる唯一合法の権力である」と。

 現実の台湾は主権をもった政府が2300万人の国民を治めており、独自に徴税し、軍を維持し、自由な選挙制度のもとで元首、国会議員が選ばれている。
 中国は歴史上かつて一度も台湾を?実効統治?したことはない。日清戦争で負けて台湾を割譲したときも、「あんな化外の土地などいらない」と嘯いたほどだ。
 対して台湾は十年ほど前から
(1)両岸は台湾が歴とした独立主権の存在である事実を認識し(2)双方がともに平等な状況で交渉に臨むものの、(3)北京が武力解放路線を放棄しないかぎり公式の交渉はありえず(4)中国は民主化すべきであり、(5)自由な経済市場でなければならない」
と主張してきた。

 台湾が独立主権国家であることを鮮明にしはじめたのは李登輝が総統になってからである。
 総統時代の1999年に「中国と台湾は『特殊な国と国の関係』だ」と発言し、はっきりと二つの国であると言いきった(拙論「猿でも分かる二つの中国」(『諸君』、1999年9月号を参照)。
 北京の李登輝個人への批判はこの「二国論」から強烈苛烈となった。
李登輝前総統の独立志向路線は「一国一辺」と言い直した現総統の陳水扁に引き継がれる。

 パンドラの箱を開けてしまったのが李登輝だった。
 これまでは共同幻想に基づく「中国の本家争い」だったのに片方が降りてしまったのだから「統一派」の中華思想組にとっては、振り上げたこぶしの降ろすところがない。

 いきおい北京は李登輝の個人攻撃へと向う。
「李登輝は日本人であり、彼の分裂主義を煽る背景には日本の情報戦略がある」云々。
 先月、西安で「西安事変記念館」を見学したが、ひとつの建物は「張学良記念館」となっていて、かの張学良が英雄扱い、写真パネル多数を展示している。
連戦(国民党名誉主席)と宋楚諭(親民党主席)の訪中模様が全日程とともに写真展示があって、その隣りに李登輝総統の剣道着の写真、解説に「皮台骨日」(台湾人に見えても中身は日本人)という表示が掲げられていた。

 こうした不寛容で唯我独尊的な中華思想の厄介さのうえに反日感情や劣等感、幻想や妄想、あれやこれやが加わった。
これらが李登輝と台湾をめぐる問題をますまる複雑化させたのである。
 李登輝の登場以降、中国の本家を名乗っていた「中華民国」は台湾においてさえヴァーチャルな存在でしかなくなった。
 台北市の忠孝東路にある「国父(孫文)記念館」は、いまや訪れる人もすくない。ところが北京はヴァーチャルな存在としてしか存在していない中華民国という幻像を、いまも実像と誤認しているため、「台湾共和国」としての現実のほうは認め難い。

台湾は本当に独立したいのか

 つぎに台湾側の事情も検討しよう。
 台湾は人口の85%が本省人(蒋介石以前から中国から台湾に渡った人たち)、13%ていどが外省人(蒋介石と共に大陸から来た人たち)で、それに少数の先住民がいる。
 外省人の多くは北京と同様な中華思想の持ち主である。
 「蒋介石時代の国民党の残党」(統一派)は、北京の呼びかけ(ひとつの中国)と思想的には共鳴している。
 根本的な差は国民党による統一か、中共による統一かの違いだけでだが、いまやその点はどうでもいいようにさえ見える。
 蒋介石独裁時代には台湾でも中華思想の歴史教育を徹底した。
子供達に反日を教え、日本語教育は禁止され、そうした状況を李登輝氏は司馬遼太郎との対談で「台湾に生まれた悲哀」と比喩した。

 台湾人としてのアイデンティティは国民党によって歪められた。
 それを恢復しようと動いたのが李登輝だから台湾国内の統一派と中国は「反李登輝」という文脈では利害が一致することになる。
 第二次世界大戦後、台湾は中華民国の支配下に入ったが、多くの外省人が逃げ込んできたのは1949年、国民党が共産党に敗れ、台湾に避難したからである。
 延安の洞窟に籠もったゲリラに過ぎなかった毛沢東は、ソ連の援助を得ることで俄に優勢になった。

 昭和二十年八月、日ソ中立条約を破棄して旧満州に怒濤のごとく侵攻したソ連は、当初日本軍の激しい抵抗を受けた。
 ところが天皇陛下の玉音放送によって日本軍は武装解除に唯々諾々と応じたために日本軍の兵器はソ連に接収され、その多くが毛沢東に横流しされた。
 国民党と共産党の軍事力のバランスが突如逆転した。これが直接の原因となって蒋介石は毛沢東に負けてしまうのである。

 それならば国民党が逃げ込んだ台湾を毛沢東はあの時点で何故、叩かなかったのか。
 その時に一気に軍事的に決着をつけておけば今日の状況はなかった。理由は共産党側に海軍がなかっただけではなく、「窮鼠却って猫を噛む」という恐れがあったからだ。

農民ゲリラの背後にモスクワがいた

 毛沢東は地方軍閥と農民ゲリラの寄せ集めだった人民解放軍の軍事的限界、その弱点を認識していた。
まずは内戦争乱状況に終止符を打ち、香港と上海を完全に抑えることが先決だった。
 爾後、どちらが中国の本家か、国共内戦の宣伝戦争、神経戦争の延長戦が延々と国際政治の表舞台で戦われているわけだ。

 彼我の差が決定的になったのは、国連で中国共産党が認められたからだ。
国民党が台湾に移った後、ソ連などが「中国を代表する国家として中華民国が加盟している」ことを問題視し、1971年の国連総会で、国連での代表権が中華人民共和国へ移ることに決定した。
  北京は日本と戦ってもいないのに「戦勝国」となって常任理事国入りした。
この中華人民共和国を米国も1972年には承認し、かたや面子を傷つけられた中華民国は国連から脱退した。
ということは「そのときまでの中華民国」は、国連脱退以後、事実上は?台湾共和国?になったのである。

 もっとも、完全に独立して台湾共和国となるには、残滓として蒋介石時代の憲法(自分たちこそ本家中国であるという前提の憲法)を整理する必要がある。
完全な独立のために李登輝は「制憲」を首唱し、陳水扁現総統は「修憲」を主張するのである。


 (終わり)


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