(某月某日)羽田発ANAは松山空港着。市内まですぐの距離だから至極便利なので羽田―台北便の開設以来、成田―桃園便は使わなくなった。
最初に台湾を訪問したのが1972年、日華断交直後で藤島泰輔氏があちこちに紹介状を書いてくれた。「こんなときによくきてくれた」と随所で歓迎された。台湾ペンクラブの会長とか中央日報主筆とかに会えた。
それから暫くは羽田―松山だったが、成田開港にともない台湾も台北から一時間近くかかる桃園に新空港をつくった。ただし中華航空だけが「国内線」と見なされたため、かなり長期間、羽田出発、桃園着だった。その頃の羽田の国際線は空港内でバスを乗り換え、かなり辺鄙な場所にターミナルがあり、深夜に着いたりするとタクシーがくるのに30分待ちということもよくあった。
ANA便の台北到着は午後三時半すぎ、ジェット気流がすごくて四時間もかかった。富士山が綺麗にみえたあたりでぐっすりと眠り込んだ。前夜までの疲れを機内の睡眠で補う。とはいえ昼飯はきれいに平らげ、ビール二缶。
台北空港で両替。前回、遣い残していた台湾ドルだけでは心細いので、トラベラーズ・チェックを四百ドルほど交換。ためしに人民元レートを聞くと、なるほど強いことが分かる。蒋介石時代は大陸産の花瓶さえ持ち込めなかったから時代は変わったものである。蒋経国時代には反体制派の雑誌も持ち込み自由になっていたが・・・。
さて定宿が満員だったので駅裏のビジネスホテルまでタクシー。そういえば前回の総統選挙でもホテルはどこも満員で、駅裏のすこし先の新設ホテルへ泊まったことを思い出した。YMCAも取れなかった。すぐに隣のコンビニへ行って新聞を全紙もとめ、身支度。時計を見ると早や午後五時を回っている。土産品の整理する暇もなくタクシーを拾って集会の場所へ急いだ。
今晩は黄文雄氏が主宰のおおがかりなパーティがあり、台湾の文化人、コラムニスト、学者、芸人等百名近くが集まるのだ。日本人で招待されたのはほかに斯界の長老、伊原吉之助先生、作家の門田隆将氏、福島香織さんは北京取材からそのまま深夜便をのりついで台北に着いたばかり。ここに台北在住十四年というベテランの旅行作家・片倉佳史夫妻。奥さんも著述をこなされ、カラー写真がたくさん挿入された台湾名勝名品紹介の新刊をいただく。中国語である。
会は台湾語のスピーチで始まり、顔見知りのコラムニスト等も演説しているが、なにせ台湾語だからちんぷんかんぷん。片倉さんに一部を通訳して貰う。
つまりこの宴のスピーチを台湾語で一貫する意味は、参加者の多くが台湾独立志向の知識人であるという二重の意味が含まれる。いつぞや、そうそう二十年近く前に、黄さんに誘われて台湾大学で講演したことがあるが、黄さんは最後まで意図的に台湾語で喋った。聴衆の若者の半分が台湾人であるにもかかわらず台湾語が完全にわからなかった。小生は日本語で講演し、通訳は北京語、質疑応答は面倒なので英語で行ったことなどの記憶が蘇った。
途中で産経新聞の河崎真澄さんが上海から応援にかけつけ、吉村支局長もちょっと遅れて、ただし締め切りがあって、酒もめされずに両人は退席。そこへ今度はウーアルカイシ氏が入ってきた。「吾爾開希」という漢字を充てるが、ウィグル人で、あの天安門事件の時の学生指導者である。小生は過去に二回逢っているが、以前より肥満となっていたのが気になる。福島さんを彼に紹介した。
離れた席に日本人があと三人、招かれていたので挨拶し席へ戻って紹興酒を飲む。選挙の裏話が方々から入ってきて有益だったが、肝心のメモを取らなかったので記憶をたどるしかない。ただし、今度の取材は週刊誌との契約がないので、取材方法を変更し、月刊誌向きには裏話を基軸に論を進めようと思った。
宴がはねると午後十一時近く、小雨交じりの天気となったのでタクシーを拾ってホテルへ戻り、風呂を浴びてからすぐに就寝とあいなった。
|