| 三浦追悼会で挨拶する井尻千男氏
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平成16年(2004)五十八歳
中国取材旅行の目的を次ぎは旧満州主要地区の詳細を踏破することと決め、大連から鞍山、営口などを長女を伴って旅行。『中国財閥の正体』。3月、台湾総統選挙取材中、陳水扁が狙撃され、ルポを『週刊新潮』などに。石平を識る。
平成17年(2005)五十九歳
『瀕死の中国』『中国よ、「反日」ありがとう』など。バングラデシュ、ラオス、カンボジアなど数回に分けて中国の周縁部を旅行。11月、九段会館で憂国忌35周年。12月10日、三島研究会事務局長の三浦重周が自決。直後に追悼会を開催。水島総を識る。
平成18年(2006)六十歳
三浦遺稿集『白骨を秋霜にさらすを怖れず』を編集刊行。『中国から日本企業は撤退せよ』。春、五回目のインド旅行で三島『暁の寺』の舞台アジェンタ洞窟。7月還暦祝いを金沢の実家で。九月、初めてモンゴルを訪問。10月『三島由紀夫の現場』刊行、これで三島三部作ようやく完結。憂国忌のあと、三浦重周を追悼する「早雪忌」を定例化。命日に三浦遺稿集第弐弾『国家の干城、民族の堡塁』を編纂刊行。PHP新書『出身地でわかる中国人』がロングセラー入り。
平成19年(2007)六十一歳
4月、中国の旧日本軍要塞など視察旅行。『世界新資源戦争』。『中国は猛毒を撒きちらして自滅する』。6月、堤堯、花田紀凱、中村彰彦、高山正之らと台湾旅行。また李登輝総統と歓談。馬英九とも会見(週刊朝日にルポ)。秋、天草を初めて旅行。11月父の七回忌。法要後、兄弟親戚孫甥姪ら二十五人と片山津温泉で追悼宴。
平成20年(2008)六十二歳
黄文雄との共著『世界が仰天する中国の野蛮』。4月、高山正之、樋泉克夫、粕谷哲夫らと湖南省のフライング・タイガー基地跡。『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』など。9月、旧満州を比留間誠司、佐々木俊夫らと。12月、友人らと台湾旅行。片岡鉄哉が死去。翌年、追悼会を企画。
平成21年(2009)六十三歳
1月鹿児島へ森伊蔵と村尾を飲む旅。3月、友人が闘病のすえ死去(香華文彩大姉)。8月『三島由紀夫研究(8)』に「『英霊の声』は現代日本によみがえるか」を寄稿。9月、極東ロシアのウラジオストック、ナホトカを高山正之らと旅行。同九月、石平と北京、上海を旅行。12月、台湾地方選挙取材。『中国分裂、七つの理由』、石平との対談シリーズ『絶望の大国、中国の真実』を開始。編著『シナ人とは何か』
平成22年(2010)六十四歳
2月11日「紀元節奉祝国民大会」で講演。叔母が死去(101歳)。西部邁との対談『日米安保、五十年』(のちに『アクティブ・ニヒリズムを超えて』(文芸社文庫))、佐藤優との対談『猛毒国家に囲まれた日本』。『中国ひとり勝ち、日本ひとり負けはなぜおきたか』。4月、三原淳雄、樋泉克夫、北村良和、高山正之らと中国の旧満州最北端を旅行。六月、大連から北朝鮮国境丹東へ。七月、「ラジオ日本」の李登輝単独インタビューのため台湾へ。8月、北京に一週間滞在し、中国新幹線乗りつくしを開始。9月、親友の猪坂豊一が急逝。11月、「憂国忌40年」シンポジウム(西尾幹二、桶谷秀昭、井尻千男、遠藤浩一)の司会。12月、台湾五大市長選挙取材。
平成23年(2011)六十五歳
一月ミッキー安川が死去。3月石平結婚式で、石の日本における親代わりを務める。3月11日、福建省福州で東日本大震災の報、すぐに帰国。4月、旧満州旅行。5月鄭州から太原へ。6月成都、7月北京ー上海新幹線試乗。『週刊現代』『WiLL』にルポ。9月、マカオ、広州、香港へ旅行。10月、中国景徳鎮へ石原萠記、元木昌彦らと。『中国大暴走』、『自壊する中国』(文藝文庫)など。
平成24年(2012)六十六歳
1月台湾総統選挙を取材。ルポを『正論』などに発表。2月、ユーロ危機取材のためドイツ、スペイン、ポルトガルを旅行。『エルネオス』『サピオ』などに旅行記。3月、馬再選後の台湾を取材のため、100回目の台湾渡航。10月、母ミサ子死去。『2012年 中国の真実』(ワック)、『世界金融危機 彼らは次をどう読んでいるか』(双葉社新書)など。
平成25年(2013)六十七歳
日本の方針転換「チャイナ・プラス・ワン」に伴ってアセアン十ヶ国を中心のアジア全域取材を開始。一月フィリピン、二月インドネシア、三月マレーシア、四月ベトナムとカンボジア、六月、シンガポール、ブルネイ。七月タイ、ラオス、八月スリランカ、九月、ネパール、十月ミャンマー、十二月ドバイなど。
石平との対談シリーズがベストセラーに。『出身地を知らないと、中国人は分らない』で出版記念会。西尾幹二、呉善花、井尻千男、高山正之の各氏らが発起人。『中国バブル崩壊が始まった』(海竜社)もベストセラーになった。
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