<宮崎正弘年譜>

昭和21年(1946)一歳
 7月19日、両親は戦後、ソウルから引き上げたため親族宅に身を寄せた後、移りすんだ金沢市桜木の借家で誕生。生まれたときに父は農家へ買い出しに行っていたと聞かされた。祖母と叔母が同居しており、翌年に同市平和町の引き上げ者住宅へ移る(「住宅」といっても旧野村練兵場の馬小屋にベニヤ版。周囲は満州からの引き揚げ者ばかり)。半年ほど佐賀の母の実家に。物心つく頃の記憶と言えば周囲にモノがまるでなかったこと。米櫃がいつもカラで引き揚げ者の集落は貧困が渦巻いていたこと。昭和24年3月、弟・正春が誕生。平和町の引き揚げ村の住民は全員が連帯できる仲間のようで、子らが多く、町内運動会も映画会もよく行われ、冬は二階建ての大きなかまくらができた。軍歴ある大人がかまくらの作り方を塹壕風に教えた。近くの山や河で遊んだ。紙芝居が全盛だった。自然が豊かではっきりと四季の区別があった。幼年期に鮮明な記憶があるのは福井地震。天地が揺れて初めて恐怖を体験した。

昭和28年(1953)七歳
 4月、金沢市立十一屋町小学校へ。入学式の日に周囲が謳っている歌が「君が代」ということを知らなかった。小学一年生のとき祖母が死去。学業はいつもトップ・クラスだが、これといった特技なく、音楽と体操は成績が悪かった。夏は河原で泳ぎ冬は近くの山でスキー。なんの悩みもなく小説を読んだことさえなかった。チャンバラ、セミとり。カルタ。ぼんやりした子供時代を過ごした。
 十歳のとき、県営アパートに当選したので引っ越し。佐賀から叔父が上京し、金沢で就職したため同居。小学六年生の四月だけ、父の社宅の関係で新竪小学校に転校、5月に十一屋町小学校へ再転校。文集や壁新聞、謄写版刷りの学級新聞を盛んに作った。父は保険の外交員に転職していたので労組の関係から社会党へ投票しつつ、天皇陛下万歳が口癖だった。

昭和34年(1959)十三歳
 金沢市立野田中学へ。生徒会役員に推され、いやいやながら。仲間と漫画倶楽部を結成したり、不良仲間とつきあったり、佐賀の母の実家へ家族で旅行、鉄道の一人旅の味を覚え時刻表を読みこなし放浪癖も始まる。中学時代に読んで残る小説は太宰の『斜陽』だけ。担任の志受先生が薦めた。このころ初恋。同級生に浅野洋(近畿大学教授)がいた。母親は「地元の金沢大学へはいって教員になれ」が口癖だった。

昭和37年(1962)十六歳
 石川県立金沢二水高校へ。馬術部、文芸部。新聞部にも顔を出す。生徒会役員に立候補し会計にトップ当選。二年生では選挙管理委員長など。途中から文学青年に変身し、吉川英治、尾崎士郎からヘミングウェイ、サルトル、カミュまで濫読。『二水文芸』に処女作「孤独の海」を発表。作家を志して上京を決意。高校時代は夏休みになると学割切符で鈍行を乗り継いで北海道旅行なども。担任からは『遊びすぎ』と怒られた。地元の北国新聞によく投稿した。高校三年生の夏休みが終わる頃から猛然と受験勉強開始。夜行で上京し予備校の模試をうけたりした。とくにラディゲ、コクトーに心酔し二十歳までに傑作を書いて夭折できれば良いと考えたりしていた。趣味は金沢市内にたくさんあった古書店通い。

昭和40年(1965)十九歳
 早稲田大学教育学部英語英文科へ入学。担任は「百万人の英語」の五十嵐新次郎教授。同時に新宿区の朝日新聞専売所に就職。三年間、新聞を配り学校へ通う。授業料値上げ反対ストライキで自治会の専横的左翼主義に反発、昭和41年の「日本学生同盟」結成に参加。林房雄、三島由紀夫、村松剛のもとに頻繁に出入りを許されるようになり、ある日突然、世界が変わった。森田必勝を識る。矢野潤、斉藤英俊らと毎晩のように激論。マスコミは「学生運動に日の丸派」と書いた。

昭和42年(1967)二十一歳
 三島由紀夫の紹介で早稲田大学国防部を中心に北海道恵庭基地へ体験入隊。『日本学生新聞』の編集(初代編集長は持丸博=楯の会初代学生長)に携わり、翌年から編集長。朝日新聞専売所をやめて学生運動に専念する(授業料未納で昭和45年除籍処分)。この間、阿部勉、鈴木邦男、山浦嘉久、伊藤好雄らとも交流。

昭和43年(1968)二十二歳
 1月佐世保、3月成田など反全学連キャンペーン。『日本及日本人』に最初の論文を寄稿。5月、八王子大学セミナーハウスで「学生文化フォーラム」。林房雄、村松剛、三島由紀夫らが講師。6月15日、全日本学生国防会議(森田必勝が議長)を結成。高坂正堯、若泉敬が講演。「日本学生新聞」を半月刊8ページ建てに。全国の大学も巡回。以後三年ほどは学生運動に没頭、本をよむ時間もなかった。中河与一、黛敏郎、桶谷繁雄、阿川弘之、神川彦松、葦津珍彦らを識る。とくに川内康範とは深く交わり、学生運動の歌を二曲作詞してもらう。

昭和45年(1970)二十四歳
 学生運動に没頭しており他の生活の記憶がまったくない。岡潔に気に入られ何回も講演に来て貰った。鶴田浩二にも講演を頼みに行った。全国200ほどの大学をまわる傍ら週平均で三日は新聞作り、その原稿書きに追われた。早書きのコツはこの頃覚えた。11月25日、三島事件。ただちに追悼会を組織、池袋の豊島公会堂に数万が集まる。また12月発売『諸君』(1971年二月号)に「森田必勝との四年間」を発表。浅野晃、保田與重郎、村松英子、辻井喬らを識る。この前後、さまざまな筆名で『20世紀』『国民新聞』『全貌』などにも原稿を寄稿した。

昭和46年(1971)二十五歳
 二月『三島由紀夫研究会』を設立。毎月一回の公開講座をはじめる。四日市の森田必勝の実家に籠もり、日記を抜粋して『森田必勝遺稿集 我が思想と行動』を編纂。11月、第一回「憂国忌」(二回目の追悼会)を開催。編著『回想の三島由紀夫』。佐伯彰一、サイデンステッカー、ドナルド・キーンらを識る。この年は殆どが三島由紀夫ゆかりの人を訪ね、公開講座に招いたりの活動に費やされた。黛敏郎の連載対談「君が代はなぜ歌われない」の連載を開始し、二年後に単行本化。

昭和47年(1972)二十六歳
 2月に初めて海外旅行。三島『暁の寺』の舞台のひとつ、印度のベナレスへ。4月ヨーロッパ視察旅行の添乗員。11月、第二回「憂国忌」を日本青年館で(以後、命日の開催が定例化)。12月からアジア諸国放浪、戦争中のベトナムへも立ち寄る。台湾では断交直後だったが各地で「よくこんなときに来てくれた」と歓迎された。

昭和48年(1973)二十七歳
 2月、相沢悦子と結婚。林房雄、保田與重郎らが日本浪漫派を復活したので雑誌『浪漫』企画室長。壇一雄も同人だった。夏、加瀬英明と台湾取材、台北で知日派の陳燦暉を識る。小谷秀二郎、北条誠、藤島泰輔らの「日華民族文化協会」に協力。秋、自民党主体の「台湾断交」に反対した議員団百名の随行記者団幹事役。杉森久英、末次一郎らを識る。12月、長女めぐみ誕生。

昭和49年(1974)二十八歳
 真冬に韓国取材一週間。浪漫から『青嵐会』を編集刊行。中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎、鈴木宗男らを識る。企画ならびに編集者として多くの書籍を編集。矢野暢、高田好胤、ガレット・スカレラ、竹村健一、柴田穂らと交遊。

昭和50年(1975)二十九歳
 青嵐会の流れを受けて、藤島泰輔衆議院選挙の選対。邱永漢ビルの事務所に一年近く泊まり込む。都知事選に石原慎太郎が挑戦。青嵐会例会に毎回出席(このあたりの事は河内孝『血の政治 青嵐会の物語』(新潮新書)に詳しい)。この頃、安部譲二を識る。8月、次女まどか誕生。10月、林房雄死去。11月弟とフィリピン、12月香港に二週間滞在。伊達政之(伊達政宗十六代末裔)を識る。

昭和51年(1976)三十歳
 1月貿易会社「東京エクスプレス」を設立。代表取締役。米国へ初渡航。しばらく論壇から遠ざかり、国際貿易に専念した。この間に保守論壇で、つきあっていたのは村松剛、藤島泰輔、加瀬英明ら数名だけ。国際取引では韓国、香港、台湾、シンガポールなど頻繁に渡航をくりかえした。筆名で『人と日本』に海外事情を寄稿した。

昭和55年(1980)三十四歳
 8月、日米安保二十周年記念セミナー(米国からフォード元大統領ら、日本側代表は岸信介)、加瀬英明から呼び出され広報担当責任。ホテルに泊まり込んでいた最終日に長男・一郎誕生。そのときホテルのバアで飲んでいた中川一郎から名前を貰った。木内信胤、田久保忠衛、レイ・クライン(キューバ・ミサイル危機のときのCIA副部長)らを識る。

昭和56年(1981)三十五歳
 日本安全保障研究センター事務局長を兼任。米国シンクタンクとのつきあいが広がり、翻訳多数。ロボット革命の産業的意味合いを追求した『エリートビジネスマン・ロボット』を刊行。中川八洋、片岡鉄哉、竹本忠雄を識る。翌年、希少金属の戦略備蓄を訴えた『もう一つの資源戦争』で注目され、『軍事ロボット戦争』『日米先端特許戦争』など矢継ぎ早に発表したため「月刊宮崎」と言われた。82年ごろ当時『週刊文春』にいた中村彰彦を識る。竹村健一に薦められ『逆常識』を緊急出版。

昭和58年(1983)三十七歳
 『ソ連の海洋戦略』『ソ連スパイの手口』などソ連情報に関する翻訳、分析などが多く、8月、米国の招待でクレアモント研究所へ一ヶ月遊学。NYで『中国之春』主宰の王炳章と会見、これを契機に中国からの亡命者の取材を開始。KGB研究家のジョン・バロンを識る。九月、友人と台湾旅行。12月、ロスに二週間滞在して『二つの山河』の取材。年末は中村彰彦との会津忘年会を恒例化。

昭和59年(1984)三十八歳
 渡米する機会が多く、4月ニクソン元大統領と単独会見。ニクソン『リアルピース』を翻訳。『自由』に巻頭随筆の連載を開始〈以後、終巻まで〉。加瀬英明の紹介でワシントンの辣腕弁護士ジョン・カーボを識る。

昭和60年(1985)三十九歳
 国連の定めたIYY(国際青年年)のジャマイカ大会で極東代表、ヨハネスブルグ大会で日本代表。39歳の誕生日はヨハネスブルグのホテルで参加者に祝って貰った。『戦国武将の情報学』など。12月、『日経新聞徹底活用術』がベストセラーに。月刊誌への寄稿が急増。『ビジネスウィークの読み方』など。

昭和61年(1986)四十歳
 3月、中国からの亡命者数十名に取材した『中国の悲劇』。チャイナ・ウォッチャーとして一部に認識されたが、大手マスコミから拙著の中国批判の姿勢を嫌って完全に黙殺された。執筆活動に専念するため会社経営をパートナーの坪井勝利に譲渡。日本で初のM&Aに関する書籍『M&Aの研究』を刊行。現住所へ引っ越す。12月、NYに長期取材『ニューヨーク野村證券』、『日経新聞の重要記事』など編集。この頃は「国際エコノミスト」などと肩書きをつけられた。企業研修や社長会などの講演が増えた。

昭和62年(1987)四十一歳
 日本短波放送(現ラジオ日経)で早朝番組キャスターを兼ねる。『ユダヤにこだわると世界が見えなくなる』がベストセラー入り。『恐慌はこない』など刊行。友人の猪坂豊一、花田紀凱、元木昌彦らが隅田川の屋形船で拙著50冊記念パーティ、当日は羽田孜、小池百合子ら合計60名が参加してくれた。
 この頃から木内信胤主宰の「経済計画会議」(毎月一回)のメンバーに(木内逝去の93年まで)。為替レートの固定化など提言書を何本かまとめて首相官邸に提出した。

昭和63年(1988)四十二歳
 ラジオ関東(現在のラジオ日本)でレギュラー番組。『大国の興亡を論ず』など。イラク政府招待で越智道雄らとアラブ平和会議へ、バグダッドからファオ半島の戦争現場など取材。秋、米国ヴァージニア州に植田剛彦と一週間取材。『ウォールストリート・ジャーナルで読む日本』を編集・監訳。『ソ連の崩壊』でソ連崩壊を予測。佐藤優はこの本に衝撃を受けたと後に言った。

平成元年(1989)四十三歳
 6月天安門事件、『中国の悲劇』文庫版。講演旅行が多く、日本中を駆けめぐるので執筆ペースが落ちる。秋に作家・鷺沢恵らとNYに一週間、ラジオ特別番組のため。数年後、鷺沢の自殺には驚かされた。

平成02年(1990)四十四歳
 4月北京、上海を旅行。夏から中村彰彦や友人らとロシア、東欧など数回旅行し『新生ドイツの大乱』など。友人とポーランドからユーゴスラビア、トルコを回り、モスクワ経由で帰国。カッパブックス『ヨーロッパの悪夢』はユーロ崩壊を予測。イスラエルでレビ外相に単独インタビュー、死海で泳ぐ。

平成03年(1991)四十五歳
 『湾岸戦争の嘘と真実』など。この頃、早朝ラジオ、週・月刊誌寄稿、講演、年に三、四冊ほどの単行本がルーティンとなる。ロシア、東欧のほかバルト三国を旅行。11月25日の憂国忌に三島と享年と同年齢になったことに驚愕を覚えた。

平成04年(1992)四十六歳
 それまでの旅行記を集大成し写真を多数つかった『世界経済、裏道を行く』、物書き仲間から「あんたは写真家のほうが似合っているのでは」とからかわれた。7月、村松剛と台湾旅行、蒋偉国と会見。翌年にかけて『あたらしい政治トレンドを読む』『クリントンの日米経済』。ラジオ番組と講演旅行で書籍執筆時間がさらに減った。

平成05年(1994)四十八歳
 『平岩レポートの正しい読み方』。池東旭と対談集『兄弟だから許せない』。呉善花を識る。ミッキー安川「すばり勝負」のレギュラー・コメンティターに。五月、村松剛が死去。八月、韓国旅行中、日本学生同盟創設者のひとり、矢野潤が死去。十一月、福田恒存が死去。人生の師匠格がみんな居なくなった。

平成07年(1995)四十九歳
 香港返還前に香港へしばしば旅行。シミュレーション小説『中国広東軍、反乱す』を発表したが文壇から黙殺。『中国大分裂』が八重洲ブックセンターで六位。並列したフィクション六位が中村彰彦直木賞受賞作という偶然。すぐに中国語訳がでて中国語圏で有名に。夏にウクライナからヤルタを長女と旅行。「ヤルタ会談」のリバディア宮殿、チャーチルの宿泊した城などを見学。キエフではたまたまクリントン訪問と重なった。「憂国忌25年の舞台裏」を『諸君』に。外国人特派員協会で三島論をスコット・ストークスと共同講演。徳岡孝夫と何年ぶりかで再会。

平成08年(1996)五十歳
 二月米国ニューメディア現場を取材し『インターネット情報学』(このときインターネットという言葉は日本になかった)、フロリダからアトランタ、ニュー・オーリンズなど友人と旅行。三月、台湾初の民主選挙、李登輝圧勝を取材。当時、産経新聞以外台北に支局なく、多くの日本人記者は香港から飛んできていた。この頃のチャイナ・ウォッチャー十数人とはいまも交遊が続く。晩秋に胆嚢除去手術で合計29日間入院、病室で小説『中国、台湾電脳大戦』を書き続ける。同作も中国語訳がでて反響が大きかった。

平成09年(1997)五十一歳
 中国問題よりも世界経済の寄稿注文、出演要請、講演依頼が多く、まだ「国際エコノミスト」と紹介されていた。『日本経済はよみがえる』。四月、黛敏郎が死去。南丘喜八郎が『月刊日本』を創刊。巻頭随筆の連載開始。この年あたりからアジアオープン・フォーラム(中嶋嶺雄主宰)に毎年出席する。

平成10年(1998)五十二歳
 六月、藤島泰輔が死去。葬儀の翌日から連戦(台湾副総統)の茶話会に招待され浜田和幸、中村彰彦、野村進ら二十数名で台湾を取材。小説『金正日の核弾頭』(のちに改題『拉致』で徳間文庫)。『円の危機、日本の危機』など。銀婚式記念で妻とインド、三峡クルーズなど旅行。秋、パキスタンからアフガニスタンを旅行。

平成11年(1999)五十三歳
 春、初めて沖縄を旅行。四月、黄文雄と台湾大学で講演。初夏、伊豆高原の温泉に二週間ほど籠もり小説『謀略投機』を書き上げる。7月、李登輝『台湾の主張』日本語版出版記念会を開催(オーララ平安の間に1500名)。
 ようやく三島事件にふれた『三島由紀夫以後』(『自由』に二年間連載)を刊行。同書で出版記念会。石原萌記、伊部恭之助、村松英子、竹本忠雄、井尻千男らが発起人。初夏に竹村健一夫妻と李登輝総統を訪問。西村真悟を識る。この年はイランとチュニジアなどへも旅行。

平成12年(2000)五十四歳
 三月台湾総統選挙視察、二十数名のマスコミ関係者の視察団団長。四月、ローマ憂国忌に招待され、イタリアで講演後、シチリアをまわって帰国。三島三部作の第二弾、『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』。夏、新彊ウィグル自治区を旅行。西尾幹二主宰の「路の会」のメンバーに。12月、NYに一週間滞在。台湾広報官として十数年つきあった張超英をNYの自宅に訪ね旧交を温める。張超英が書き残した本の日本語訳出版(『国際広報官・張超英』)のアレンジを後年、引き受けることになる。

平成13年(2001)五十五歳
 9月、NYテロ事件。直後に『テロリズムと国際宗教戦争』がベストセラーに。国際情勢のテーマで内外情勢懇談会の全国講演行脚を開始。以後二百回ほど。拓殖大学日本文化研究所客員教授を拝命。秋、山東省、広東省など三回にわけて旅行。

平成14年(2002)五十六歳
 『胡錦濤の覇権戦略』、『本当は中国で何がおきているのか』など中国ものが数冊が続く。中国旅行がかなり自由になったので、年に数回、中国へいけるようになる。チベット、雲南、重慶など数回に分けて取材。11月21日(父の命日)、徳島に講演旅行中、父・正一死去(86歳)。金沢で葬儀。

平成15年(2003)五十七歳
 『ザ・グレートゲーム』『ネオコンの標的』など。五月、村松剛没後十年祭をよびかけ北杜夫、阿川弘之、入江隆則、石原慎太郎、森本敏らを発起人に開催。六月、初孫誕生。初夏、井尻千男、片岡鉄哉、藤井厳喜らと台湾訪問、李登輝と面会。夏頃、広西チワン自治区、安徽省などを経て中国全33省踏破を達成。九月、息子を伴い内蒙古省ハイラルからノモンハンの現場へ。『迷走中国の天国と地獄』

平成16年(2004)五十八歳
 中国取材旅行の目的を次ぎは旧満州主要地区の詳細を踏破することと決め、大連から鞍山、営口などを長女を伴って旅行。『中国財閥の正体』。3月、台湾総統選挙取材中、陳水扁が狙撃され、ルポを『週刊新潮』などに。石平を識る。

平成17年(2005)五十九歳
 『瀕死の中国』『中国よ、「反日」ありがとう』など。バングラデシュ、ラオス、カンボジアなど数回に分けて中国の周縁部を旅行。11月、九段会館で憂国忌35周年。12月10日、三島研究会事務局長の三浦重周が自決。直後に追悼会を主宰。水島総を識る。

平成18年(2006)六十歳
 三浦遺稿集『白骨を秋霜にさらすを怖れず』を編集刊行。『中国から日本企業は撤退せよ』。春、五回目のインド旅行で三島『暁の寺』の舞台アジェンタ洞窟。7月還暦祝いを金沢の実家で。九月、初めてモンゴルを訪問。10月『三島由紀夫の現場』刊行、三島三部作ようやく完結。憂国忌のあと、三浦を追悼する「早雪忌」を定例化。命日に三浦遺稿集第弐弾『国家の干城、民族の堡塁』を編纂刊行。PHP新書『出身地でわかる中国人』がロングセラー入り。

平成19年(2007)六十一歳
 4月、中国の旧日本軍要塞など視察旅行。『世界新資源戦争』。『中国は猛毒を撒きちらして自滅する』。6月、堤堯、花田紀凱、中村彰彦、高山正之らと台湾旅行、李登輝と歓談。馬英九と会見(週刊朝日にルポ)。秋、天草を初めて旅行。11月父の七回忌。法要後、兄弟親戚孫甥姪ら二十五人と片山津温泉で追悼宴。

平成20年(2008)六十二歳
 黄文雄との共著『世界が仰天する中国の野蛮』。4月、高山正之、樋泉克夫、粕谷哲夫らと湖南省フライング・タイガー基地跡。『トンデモ中国、真実は路地裏にあり』など。9月、旧満州を比留間誠司、佐々木俊夫らと。12月、友人らと台湾旅行。片岡鉄哉が死去。翌年、追悼会を企画。

平成21年(2009)六十三歳
 1月鹿児島へ森伊蔵と村尾を飲む旅。3月、友人が闘病のすえ死去(香華文彩大姉)。8月『三島由紀夫研究(8)』に「『英霊の声』は現代日本によみがえるか」を寄稿。9月、極東ロシアのウラジオストック、ナホトカを高山正之らと旅行。同九月、石平と北京、上海を旅行。12月、台湾地方選挙取材。『中国分裂、七つの理由』、石平との対談シリーズ『絶望の大国、中国の真実』を開始。編著『シナ人とは何か』

平成22年(2010)六十四歳
 2月11日「紀元節奉祝国民大会」で講演。叔母が死去(101歳)。西部邁との対談『日米安保、五十年』、佐藤優との対談『猛毒国家に囲まれた日本』。『中国ひとり勝ち、日本ひとり負けはなせおきたか』。4月、三原淳雄、樋泉克夫、北村良和、高山正之らと中国の旧満州最北端を旅行。六月、大連から北朝鮮国境丹東へ。七月、李登輝単独インタビューのため台湾へ。8月、北京に一週間滞在し、中国新幹線乗りつくしを開始。9月、親友の猪坂豊一が急逝。11月、「憂国忌40年」シンポジウム(西尾、桶谷、井尻、遠藤)の司会。12月、台湾五大市長選挙取材。

平成23年(2011)六十五歳
  一月ミッキー安川が死去。3月石平結婚式で、石の日本における親代わりを務める。3月11日、福建省福州で東日本大震災の報、すぐに帰国。4月、旧満州旅行。5月鄭州から太原へ。6月成都、7月北京ー上海新幹線試乗。9月、マカオ、広州、香港へ旅行。10月、中国景徳鎮へ。『中国大暴走』、『自壊する中国』(文藝文庫)など。

平成24年(2012)六十六歳
 1月台湾総統選挙を取材。ルポを『正論』などに発表。2月、ユーロ危機取材のためドイツ、スペイン、ポルトガルを旅行。『エルネオス』『サピオ』などに旅行記。3月、『馬再選後の台湾』取材のため、100回目の台湾渡航。『2012年 中国の真実』(ワック)、『世界金融危機 彼らは次をどう読んでいるか』(双葉社新書)など。

平成25年(2013)六十七歳
 日本の方針転換「チャイナ・プラス・ワン」に伴ってアセアン十ヶ国を中心のアジア全域取材を開始。一月フィリピン、二月インドネシア、三月マレーシア、四月ベトナムとカンボジア、六月、シンガポール、ブルネイ。七月タイ、ラオス、八月スリランカ、九月、ネパール、十月ミャンマー、十二月ドバイなど。
 石平との対談シリーズがベストセラー、第五弾までを刊行。『出身地を知らないと、中国人は分らない』で出版記念会。西尾幹二、呉善花、井尻千男、高山正之の各氏らが発起人。『中国バブル崩壊が始まった』(海竜社)もベストセラー入りした。

平成26年(2014)六十八歳
 アジア各地に取材した。1月インド各地。3月トルコ、4月豪、6月カナダ、7月ロシア、8月ベトナム再訪、9月モンゴル、10月ブータン、11月台湾(選挙取材)、12月バングラデシュ。これらのルポを2冊にまとめたが、いずれもベストセラーとなった。
 国内旅行も同様に続き、1月長崎・平戸、3月京都、4月萩、5月会津、6月水戸、7月岐阜、関西。8月長野、9月沼田、箕輪。10月金沢、高崎などと続いた。
 講演旅行の合間に歴史探訪、中国テーマから離れて、伝記歴史政治ものも、『吉田松陰が復活する』、師走には『孫子の正しい読み方』を上梓した。また川口マーン惠美、室谷克実、石平の各氏と対談集。
 3月14日にベトナム『西砂諸島問題」で緊急シンポジウムを主催。6月4日には『天安門事件25周年東京集会」を石平、ペマギャルポ、黄文雄氏らと主催し、香港、台湾、NYの集会と連帯した。

平成27年(2015)六十九歳
 アジア巡回取材が続き、1月インド各地、3月はポーランドとバルト三国、4月ベトナムはディンビエンフーへ。同月下旬にフィリピン。いずれも大東亜戦争戦跡地をめぐった。
 4月17日には下関条約120周年「日清戦争を考える国民の集い」を各界、各氏に呼びかけて開催、9月5日にも同様に「ポーツマス条約110周年 国民の集い」を企画。
 中国経済の諸作、対談集が引き続き、AIIBについては5月に、『アジアインフラ投資銀行の凄絶な末路』(PHP)を緊急出版。
 秋に東欧、中欧数ヶ国を三回に分けて取材。

平成28年(2016)七十歳
 一月台湾総統選挙取材、門田隆将、福島香織氏らと。2月「雨傘革命から一年」の香港を取材。3月スロベニア、クロアチア、4月ひさしぶりに米国へ大統領選挙取材、『トランプ熱狂、アメリカの反知性主義』(海竜社)。6月ウクライナ、モルドバ、7月ベラルーシを取材。
 単行本は『中国経済はどこまで死んだか』(産経新聞出版)、『世界大乱で連鎖崩壊する中国、日米に激動』(徳間書店)、『日本に外交はなかった』(高山正之氏との対談、自由社)など。
 9月、ウズベキスタン、トルクメニスタンを取材旅行。
 これにより、旧ソ連15ケ国、旧ソ連圏15ヶ国合計30ヶ国のすべてを踏破。新作『全体主義の呪いは解けたか」に挑戦。

(文中敬称を略)
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