改革への情熱と先見性
「後藤新平の生誕百五十年を記念して全集が藤原書店から刊行され、「後藤新平賞」が新設されたことは画期的で、新しい時代の指導者育成を目的とする栄誉に初回に輝けたことを光栄に思う。
後藤新平は1857年生まれで、1929年に没した。私は1923年生まれ、交差していないが、精神の空間で結ばれている。
後藤新平は1898年3月から1906年9月まで、8年7ヶ月を台湾民政長官として過ごし、未開だった台湾の近代化のために成し遂げた功績は大きい。その生い立ち、功績、人間としての偉大さを私は深く心に刻み込んできた。
後藤は貧窮のどん底から立ち上がり、医者から衛生局長となり、1895年児玉源太郎の推挙によって台湾へ赴任した。
かれの復員傷兵の帰国に際しての検疫能力を高くかったから、とされる。
当時の台湾は匪賊が跋扈し、ペスト、赤痢、チフス、毒蛇が蔓延して、不衛生極まりなく、漢族と原住民部族の対立があり、産業は未開のまま、およそ近代化には遠い状況だった。
後藤は台湾近代化、台湾の開発に何が目的であり、その目的達成のためには何が大切かを考えて、明治政府の全面的な支援の元に諸改革を実行に移した。
第一は人材の確保であった。1800人の無能の役人を馘首し、新しい人材を適所に配置した。この中には新渡戸稲造も含まれていた。
第二に匪賊対策を従来の路線から変更し、単に匪賊を退治するのではなく労働の現場へ配置しなおして、かれらを生産、建設に役立てて任務を教えた。
第三に「保甲制度」、つまり地方自治の確立である。
住民の自治を尊び、交通を整備し、戸籍制度の充実と整備をなした。同時に自治の責任を持たせた。
第四に劣悪な衛生環境を改善し、マラリアなどの退治のために血清の研究と同時に田舎にも医者を配置して政府派遣として医療行政を実地した。
都市部では下水道の整備を急いだ。
第五が教育の普及である。
(ほかの列強は現地植民地を搾取するばかりで教育をおざなりにしたが)日本は台湾の植民地経営を教育から開始したのだ。
第六に開発近代化の財源を確保するために地方債券を発行し、内地(日本)の国会の承認を得た。
これにより土地改革がすすみ、鉄道が敷設され、基隆港が整備された。
第七は「三大専売法」を施行させたことだ。
阿片,樟脳、食塩、酒、煙草が専売となり税金収入が公債の返済に充てられた。
第八に「台湾銀行」が創設されて台湾銀行券が流通、また「度量法」が統一され、それまで台南と台北で異なった重さや長さの図り方が統一された。
第九は産業の奨励で、砂糖、樟脳、茶、こめ、阿里山森林の開発が進められて開発が軌道に乗る。
第十は貿易の拡大であり、そのために外国資本が独占していた商船の運搬を民間にも広げた。
第十一に後藤の「南進政策」がある。
当時、アモイ、香港への投資も開始され、アモイには台湾銀行支店が設置を見た。
第十二に国民の生活習慣のなかで弁髪、纏足など悪習を禁止した。
後藤新平はその後、満鉄総裁として満州に赴くが、もし、台湾に留まっていれば、台湾の行政はさらに異なったレールを走ったことと思われる。
なぜ、日本人はああまで情熱的だったのか?
生誕百五十年を待たずに後藤新平の研究がおおいに進み、許文龍氏をして、
「台湾への政策は素晴らしかったけれども、なぜ、日本人はあれほどの情熱を燃やして台湾の近代化に努力したのか」と問いかけている。
とくに拓殖大学で、この研究が進められた。
池田憲彦前拓殖大学教授は「まず明治天皇の御叡慮があり、新しい版図への使命観があった。みずみずしい感受性と、ひるまない精神、つまり『肯定的思考』が多くの勇断を運んだと指摘している。
いま84歳になる私は、台湾人として生まれた悲哀と、同時に22歳まで日本人だった私が、日本の教育を受け、『肯定的人生』という人生観を体得して、農業の改革に着手し、その後、台北市長、台湾省省長を経て、副総統、そして十二年間にわたって総統として、一滴の血も流さないで台湾に民主化という“静かなる革命”をもたらすことが出来たことを一生の誇りとする。
これらは後藤新平の台湾施政への哲学的基礎の上になりたっており、今日の台湾の民主と繁栄が築かれてきたのだ。
その精神的な繋がりの空間で、世代と時間をこえての共通の価値があり、だから私は後藤新平を敬愛してきたのである」。
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