宮崎正弘の寫眞帳


「日本学生新聞」編集長時代

「日本学生新聞」編集長時代
林房雄(後ろ向き)、保田譽重郎氏の対談を司会(左が宮崎24歳のとき)


 文学上の師匠にあたるのは、林房雄先生ですが、昭和43年からなくなる昭和50年まで最低でも毎月一回、多いときは毎週お目にかかっていたのに文学論を展開した記憶は殆どないのです。むしろ、村松剛さんとは実によく議論をしました。
 ご自宅でおさけを飲み出すと、フランス語でシャンソンを歌われたり、なくなる1年前には一緒に台湾へでかけて、あちこち歩き回りました。移動中の汽車のなかでも、しゃべり飽きると原書をとりだして翻訳されはじめ、驚かされたものです。
 特に三島文学の解釈をめぐっては実にわかりやすい解説を拝聴しましたね。

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写真2

1 米国国務次官(当時)のウイリアム。シュナイダー氏にインタビュー。(86年ごろ)。
2 李登輝。台湾総統(当時)と単独会見(1999年4月。真ん中は竹村健一氏夫人)
3 ニクソン米国元大統領と単独会見(1984年4月、宮崎はニクソン「リアルピース」の訳者でもある)。

 人はその人生のなかで3人の天才にめぐりあうだろう、と生前の林房雄はよくいってました。ちなみに林さんは小林秀雄、三島由紀夫、児玉誉志夫をあげています。このでんで宮崎があげるとすれば、三島さんと、ニクソン(元米国大統領)、李登輝(前台湾総統)です。初めて握手したとき、緊張のあまり、手がふるえました。ニクソン氏とは84年、翻訳の本のための独占インタビューを名目に一時間、李総統とは、竹村健一氏と一緒に総統府へうかがって、一時間以上、話し込みました。李総統とはそのほかにも何回かあってますが、単独会見はこのときだけです。2000年10月の松本会議に訪日かなわず、李さんの「台湾の主張」出版記念会を組織したときにお世話になった阿川弘之、中嶋峰雄両先生ともども日本外交の中国屈服、腰抜け、ふぬけ外交を呪ったことでした。 

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写真3

1 日米セミナ−で中川一郎(青嵐会代表)とマンスフィールド大使の通訳とつとめた(1980年8月)
2 天下のご意見番。木内信胤氏をかこんで左が宮崎、右は伊部恭之介(住友銀行最高顧問)。そのとなりは文芸評論家。村松剛の各氏。
3 「台湾人と日本精神」出版記念会で司会の南丘喜八郎氏(左)、座っているのは佐藤欣子氏、そして主賓の阿川弘之氏と右端が宮崎。

 経済なんて、英文科出身の身としては不得手この上なきものだったのに、手ほどきを受けたのは天下のご意見番・木内信胤先生です。なぜこうなったのかと言えば貿易会社を経営していたとき、為替相場の見通しができずに、大きな差損を被り、いったいどうしたら経済が見通せるようになるのか、徹底的に勉強をやりなおしました。
 5−6年かかって、なんとか理論的なことが修得できたときに、拙著を読まれた木内先生の勉強会にまねかれ、意気投合、その後毎月一回の産業計画会議のンバーに加えていただき、薫陶を得ることができたのです。「国の個性」を強調された木内経済学は「日本のハイエク」と高く評価されたのはご承知のとうりですが、晩年の氏の謦咳に接することができたのは幸運というほかはありません。

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写真4

親友のひとり中村彰彦が直木賞受賞の夜。l996年7月
中村彰彦氏とのこと

 中村彰彦さんとは20年近い交友になります。最初、つれてきたのはジャーナリストの山本徳造で、飲むうちに文学論で共鳴、まだ氏は週刊文春記者のころです。会津へ6年連続で忘年会へ行きましたが、デビュウ作はほとんど取材に同行していることになりますね。
 ですから「鬼官兵衛烈風録」(角川文庫)の解説は宮崎が担当です。よく一緒に旅行しますが、ある時、文春ビルの前で待ち合わせたら、たまたま、とおりかかった田中健五社長(当時)が意外な顔をして{二人はどういう知り合い?}と不思議そうな表情、いまでもおぼえています。
 文春をやめて作家として一本立ち、直木賞受賞はそれから3年後。
 四谷の飲み屋に集まって、夜中までドンチャン騒ぎをやらかしました。それから何年もして森田必勝を書いてみませんか、と誘ったところ、2−3年してほんとうに中村さんが「烈士と呼ばれる男ーー森田必勝の物語」(文芸春秋)を書くことになろうとは! 
 人生って、本当になにがどうなるか、わからないものです。
 いまも台湾や、大連、ハルピンなど、国内の温泉に加えてよく一緒に旅行します。

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写真5

んっ、!!?。たまには……

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写真6

1 冷戦終了直後のモスクワにて。
2 ギリシアへ「三島由紀夫とギリシア」の取材。
3 中国は専門の領域でもあり、北はハルピン、南は雲南省、西は西安を越えウルムチ、トルファンなどへ何回も取材に訪れている。

 外の出来事を題材とした作品が多いせいか、「海外旅行によくでかけますな」と問われますが、行く先が集中していて、まだ南米諸国は行っていないのです。
 中米はジャマイカへ2回、国際会議で。そういえば南アフリカも、イラクも、会議出席でおもむいたので、ろくに観光をしていないのです。そこで近年は米国、中国のほかに日本人が殆ど行かない国や地域を選んで、出かけます。
 といっても、バブル経済崩壊後は雑誌の取材が激減し、もちろん自費ででかけるときはエコノミイ・クラスです。米国は知り合いが多い上、どこにも寿司やがあるので、便利ですが、チュニジア、ギリシアイラク、ジャマイカ、バルト三国、ハンガリー、イスラエル、カザフスタン、イラン、ユーゴなどでは日本食レストランがないので、食事に苦労しました。なにしろ40歳をこえてからはひとり旅が億劫になり、食事も若いときはインドでもネパールでも現地食が食べられたのに日本酒か、日本的つまみがないとやりきれなくなりましたね。


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