「国際青年年」の世界大会 (ヨハネスブルグ、1985年。会場で演説中の壇上左端)
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米国共和党筋の友人から頼まれて、IYY(国際青年年)ではジャマイカ大会とヨハネスブルグ大会の日本代表をつとめた。ちょうど39歳だった。こんな機会でもなければ南アフリカ共和国(当時はまだアパルトヘイトの白人政権だった)へは行けなかっただろう。壇上ではアパルトヘイト撤廃を訴えているのです。(上野善久氏撮影)。
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ロンドンのダウニング街10番地
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ロンドンのダウニング街10番地は、いわずとしれた英国首相官邸(当時の首相はサッチャーだったので、1986年頃)。
冬のロンドンは寒くて、きつねうどんを急に食べなくなり探すのに苦労した。
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マサダの砦にて |
ガリレヤ湖の船上で |
(いずれも斎藤和欣氏撮影)
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イスラエルへは当時のレビ外相に単独インタビューへ赴いた。講談社からでていた国際雑誌の取材でカメラマンも一緒だった。治安はいまほど悪くは無かった。ヒルトンホテルに泊まった。時間があいたのでイスラエルを一周した。ガリラヤ湖に行ったおり、女性兵士が機関銃片手に単身バスに乗り込んできた光景は忘れられない。つねに戦争状態にあるイスラエルは強い筈だと思った。「死海」ではもちろん、浮きながら泳ぎました。
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バルト三国の真ん中、ラトビアは琥珀海岸の付近で偶然知り合った少女たちと。
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1991年。独立直後、あちこちにソ連特殊部隊の襲撃址が残っていた。まさか、琥珀が落ちているかとおもって首都のリガから汽車に乗って。。。真夏なのに結構寒かった。
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「太平天国の乱」で短期間だが南京を陥落させ、玉座についた洪秀全の黄金の椅子。
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最近、中国では太平天国も清朝を滅ぼす直接的要素になったとして、乱を退治した曽国蕃と一緒に洪秀全を評価している。
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大分県竹田城は絶壁の上、ここに「荒城の月」をつくった滝廉太郎の像 (竹田城が荒城の月のモデルの有力な城跡のひとつ、他に仙台青葉城、会津鶴ケ城がモデルといわれる)。
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おなじポーズで(2006年頃)。竹田市には廣瀬中佐の神社があるが、参詣するひとの少なさには唖然とするばかり。なぜか竹田城跡と廣瀬神社には二回行っているのも、中村彰彦がこのあたりを舞台に小説をたくさん書いているため。毎回、氏と一緒の旅である。
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台湾総統になる直前に馬英九(07年六月)に会見。
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このインタビューに同席したのは、左から花田紀凱(WILL編集長)、堤堯(元文藝春秋編集長)、宮崎、馬英九、高山正之(コラムニスト)、中村彰彦(作家)。写真は『オール読物』提供。
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「愛晩亭」は湖南省長沙にある師範大学から市街へ行く。
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若きに毛沢東が、よくここに思索にきたという伝説がある。08年五月。(樋泉克夫氏撮影)。
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